第1幕 『灰被り姫』の姉の場合 4
1
ハンスと並んで馬に乗りながらアナスタシアは尋ねた。
「ねえ、ハンス。町の図書館には農業の本はあるかしら?」
「すみません、お嬢様。俺は・・・学校に行っていないから文字が読めないんです。だから図書館にも行った事が無くて・・・。」
ハンスはアナスタシアと同じ15歳。男爵令嬢のアナスタシアは誰もが全員学問を学んでいるとばかり思っていたのだ。今迄のアナスタシアなら文字が読めない事を馬鹿にしたかもしれないが・・・。何故か今はハンスが気の毒に思えた。
「あら、そうだったの?ごめんなさいね、ハンス。私、そんな事ちっとも知らなくて・・・。」
アナスタシアの言葉にハンスは驚いた。
「そ、そんな、お嬢様から謝って貰うなんて・・・恐れ多いっ!」
その時、馬上でグラリと傾いてしまったアナスタシアは背中に激しい痛みが走った。それは先ほど鞭で打たれ場所であった。
「うっ!い・痛い・・・。」
「お嬢様?!大丈夫ですかっ?!」
驚いたハンスが馬上から声を掛けて来た。
「え、ええ・・・大丈夫よ。これ位・・。」
(そうよ、だって私はこれ以上の痛み・・・苦痛をそれこそ気の遠くなる位繰り返してきたのだから・・。)
「お嬢様・・本当に申し訳ございませんでした。家に帰ったらすぐにこの事を報告に・・・。」
「それは駄目よっ!」
「お嬢様・・・?」
「駄目よ、今日の出来事は・・・絶対に誰にも言っては駄目。もし言ったらハンス。貴方の家がどうなってしまうか分からないわよ?勿論貴方だけでなく、両親も。」
「ですが、それではあまりにも・・・。」
「そんな事は気にしなくていいから。それなら代わりに私に農業の事教えてくれるかしら?ハンスの知ってる範囲でいいから。」
「ええ?!そんな事でいいんですかっ?!ですが、お嬢様・・・農業って・・まさかお嬢様がされるのですか?」
「ええ、だから・・私でも出来る農業を教えて欲しいの。痩せた土地でも簡単に・・・誰でも育てやすい野菜や樹木があれば・・それを全て。勿論ハンスの手の空いた時でいいから。代わりに私は貴方に文字を教えてあげる。文字が読めると・・世界が広がるわよ?」
「そ、そんな・・・勿体ないお言葉・・ありがとうございます・・。」
ハンスはあまりの嬉しさに泣きながら言った。
「お嬢様。俺はご恩を一生忘れません。助けが必要な時はいつでも声を掛けて下さいね?」
「ええ、その気持ちはありがたいけど・・でもハンス。お母様が後一月後にはここから馬車で半日程かかる伯爵家にお嫁に行くのよ。私達も付いて行かなくてはならないの。だからハンスとこうして会えるのも後一カ月ってところかしら。だから・・それまでの間に貴方は私に農業を教える。そして私は貴方に文字を教える。どう?もしもハンスが文字を覚えたら・・・文通しましょうよ。」
「分かりました・・。お嬢様。」
「それじゃ、ハンス。明日からよろしくね。」
2
「それではお母様。行ってまいります。」
アナスタシアは農作業用のズボン姿で母に挨拶をした。そのアナスタシアの姿を見て、母トレメインは顔をしかめた。
「全く・・・お前ときたら・・男爵家の令嬢でありながら庶民の・・しかも野良仕事をするなんて・・・どうかしてるわっ!」
「本当よね~全く我が家の品位が下がるような事しないで欲しいわ。」
意地悪い笑みを浮かべながらドリゼラは言う。しかし、アナスタシアはそんな2人を無視して、屋敷を出た。
「凄いわ!ハンスっ!もうアルファベットを全て覚えるなんて。それに簡単な単語迄書けるようになったなんて・・・余程の努力家なのね?」
農業の合間に切り株に座ってハンスに文字を教えるようになって1週間。僅か1日1時間程の勉強なのにハンスの呑み込みの早さにアナスタシアは驚いた。
「いえ、それもお嬢様の教えかたが上手だからです・・・。」
ハンスは顔を赤らめながら言う。その時、ハンスのお腹がグウ〜ッとなるのを聞いた。
「ねえ。ハンス。今日も私のおやつに付き合って貰えるかしら?今日はねスコーンを焼いて持って来たのよ。」
アナスタシアは言いながらバスケットの布を取ると、そこには食べきれない程のスコーンがぎっしり詰まっていた。
「そ、そんなお嬢様のおやつをいつも分けて貰ってばかりでは・・・。」
ハンスは真っ赤な顔で断るが、アナスタシアは強引にバスケットを押し付けると言った。
「一緒に食べましょう?これは・・・命令よ。」
「あ、ありがとうございます・・・。」
命令と言われれば、ハンスはそれに従うしか無かった。ハンスが美味しそうにスコーンを頬張る姿を見てアナスタシアは思った。
(良かった・・・。以前よりも大分、顔色も良くなっている・・・。やはり栄養状態が悪かったのね・・・。この領地は農業に恵まれた土地なのに農民たちは困って、商人だけが儲かっている・・。酷い所だわ。)
何とかしてあげないと・・・。
アナスタシアは思うのだった—。
3
「ええっ?!アナスタシア様っ!本当に本気で仰ってるのですかっ?!」
ハンスの父親が叫んだ。
「ええ。貴方達さえ良ければ・・・ハンスを連れて行ってもいいかしら?もうすぐお母様はこの土地を離れるわ。そこは・・痩せた土地で特産品と言えば綿花位しか無いの。ここの所、ハンスに農業を習って、良く分かったのよ。ハンスは農業の才能がある。だから・・私達と一緒に来て欲しいの。」
ハンスはアナスタシアの背後に隠れるように立っていた。
「勿論。給料は私がハンスにお支払いします。また一定の儲けが出たら、あなた方に還元します。どうでしょう?」
2人の夫婦は顔を見合わせたが・・・正直、家族が1人減れば食いぶちが減って家計が楽になるのが分かっていた。
しかも男爵令嬢がハンスの雇用主になるのなら、こんなに良い話は無いだろうと夫婦は思った。
以前のアナスタシアは強欲で性格も冷たい悪女だとばかり思っていたが、今は違う。この家族に取ってはアナスタシアは正に天使のような存在だった。
「分かりました。アナスタシア様・・・どうか息子、ハンスをよろしくお願いします。」
父親は頭を下げ・・・背後に立っているハンスは顔が真っ赤になっていた。
・・・どうやらハンスはアナスタシアに恋をしてしまったようだった—。
「いいでしょう?お母様。ハンスを連れて行っても。」
アナスタシアは母に必死で頭を下げて頼み込んでいた。
「全く・・・お前ときたら・・卑しい農民を傍に置くなんて・・・でも、最近税収が取りやすくなってきたのよ。アナスタシア・・・お前、何かやったかい?」
母トレメインはアナスタシアを見た。
「さあ、私は何も知りませんが?でも・・・誰かの仕業だとしたら、ハンスかもしれませんね?」
アナスタシアは何も知らないフリをしたが、実は彼女を鞭で叩いたのが商人たちを束ねている大商家だったのである。彼ばかりがぼろもうけをしていた事実をアナスタシアは知った。そこで自分の悪行を正さなければ、鞭でぶたれた事を母に告げ口してやると脅したところ、怯えたこの男は税収を引き下げ、農民や商人の暮らしが少しだけ良くなり、男爵家も税収が増えたのである。そしてその手柄をハンスに仕立てたのだ。
「まあ・・・あの少年のお陰と言うなら・・・連れて行ってもいいけれど・・。でもくれぐれもいいかい?あの少年の面倒はお前がみるんだよ?」
「はい、分かっております。お母様。」
アナスタシアは笑みを浮かべると言った。
そしてそれから約2週間後・・馬にまたがったハンスと共に、アナスタシアたちを乗せた馬車はジェイムズ伯爵家へ向けて旅立った―。
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