5-06


 時は少し遡り、現実世界。

 降りしきる雨の中微動だにしない銀髪の青年に、黒髪の青年が声を掛けた。

「おい」

 返事はなかった。

「いつまでそこにいるつもりだ」

 頑なにこちらを見ようとしない彼に、黒髪の青年はなおも語りかけるのをやめようとしない。

「いつまでそうしているつもりだ」

 雨に濡れた背中は全てを拒絶している。

 黒髪の青年はため息を吐いた。整い過ぎるほどに整ったその顔は、無表情ながらもどこかに険を宿らせている。

「よかったのか、行かせて」

 ようやく銀髪の青年の肩がぴくりと震えた。

 返事は期待できなさそうだ。

 黒髪の青年は再び押し殺したため息をつく。が、雨に掻き消されそうなほどか細い声で今にも消え入りそうに返事が返ってきた。

「……いいも何も、私にはその権利はない」白い拳が強く握られる。「私は、使い魔に過ぎないのだから」

 黒髪の青年が、呆れたように長い前髪の隙間から彼の背中を睥睨した。


 まだ分からないのだろうか。


「俺が訊いているのはそんなことじゃない」

 以前も言ったはずだ。もしこいつがその意味を理解できていないのならもう救いようがない。

 今一度黒髪の青年は問い掛ける。

「お前自身の気持ちだ」

 銀髪の青年はこちらを見ようともしない。

「……よかったのか、行かせて」

 再度繰り返された問いに、銀髪の青年はゆっくりと振り向く。

 一切の表情が窺えない玲瓏とした顔で。

「使い魔には主に逆らう権利は与えられていないだろう」

 血色の瞳に光は宿らない。どこまでも昏い瞳はもうなにもかもを諦めたのだと語っている。

 彼にしては珍しく口許を歪め、銀髪の青年の双眸を睨み上げた。

「だがついさっき俺たちはその任を解かれたばかりだろう?」

 そう、自分たちにはもう使い魔としての力はない。主に名を呼ばれてから満ちていた彼女を守るための力は何かが抜け落ちてしまったかのように消えてしまっている。

 名付けられた名前はもう何の意味も持たない、ただの音の連なりになってしまった。


 銀髪の青年は顔を背けた。

 表面上は変化がないということを長年の経験で感じ取り、黒髪の青年――つい先刻まで主にコウと呼ばれていた、人の形をとった悪魔は苦笑した。


 こいつはいつもこうだ。

 普段から自分の内面を隠しているくせに、肝心なときにそれができない。

 本当は、あいつ自身が誰よりもよく分かっているはずだった。

 だが、理解と納得は違う。

 銀髪の青年レイは不快そうに眉を寄せた。

「……だから何だ」

 コウはそれには答えずについと顔を上向けた。

 雨音がさらに激しさを増す。

 屋根を叩く音は力強く、空はさらに薄暗さを増していく。

 灰色の闇の中、血色の瞳は無機質さを帯びて爛々と輝き、逸らすことなくコウを射抜いている。

「俺たちは使い魔、主の命令に縛られる身だった。だが少なくとも今は違う。誰の命令に縛られることなく、自分の意志で行動できる」

 レイは目を見開いた。恐らく考えもしなかったのだろう。

 だがそれも無理のないことだとコウは思う。

 悪魔として生まれた以上使い魔として使役される宿命を背負わされ、主の命令に忠実であることを叩きこまれる。それから逃れ、自分の意思を貫くことなど思いつきもしないのだろう。

 それは自分とて同じことだった。

「なあ、お前はどうしたい」瞼を伏せる。「待っているはずだ」

 誰が、とは言わなかった。

 レイはうつむく。

 雨に濡れた鋼色の銀髪に表情を覆い隠し、レイは掻き消えそうに儚く呟く。

「そんなはず、ない」握りしめた拳から血が滴った。「私は、……俺は、何もできない。いつもそうだ。俺は獣だから。お前とは違うんだ。俺はひとりじゃないといけないんだ。俺が傍にいればみんな、大切なものは消えていく。全部俺のせいだ。

 ……俺には、何もできない」

 それに。

「レイラ様も言っていた。……俺はいらない、と」

 こいつはいつもこうなのだ。

 平気そうな顔をしているくせに、何も考えていないふりをするくせに。

 馬鹿だと思う。

 獣は泣かない。獣は苦しまない。獣は、守りたいとは思わない。

 なぜ気が付けないのだろうか。

「またそうやって逃げるのか、シン」

 シン。

 かつてレイが主から授けられた名前。罪を忘れず、逃げずに咎を背負い続けて戦えと、レイラの母であるリゼラに名付けられた名前。

 何も言えない。

「お前がレイラを遠ざけようとしたのは何故だ?」

 レイは顔を上げた。

 いつもにも増して血の気のない白い顔をしていた。

 無言でコウが問いかけると、レイはしばらく逡巡した後にぼそりと呟いた。

「……理由はない。俺が獣だから、それだけだ」

 半分は嘘だ。

 獣だからと、お前は、

「……」ため息を吐いた。

 救いようのない馬鹿とはこういう奴をいうのかもしれない。


 だが、主はこいつを救いたかった。


 コウには分かる。

「違うだろう」

 黙っているところを見ると、どうやら図星らしい。

 やれやれ、とコウは天を仰ぎ見る。

 何でこんな奴に俺は―――

 脳裏に、レイラの顔が浮かんだ。

 泣いていた。

 好きだからと、呟いていた。

 コウには分かった。なぜ彼女が泣いているのかも、なぜ彼女が突然ここから離れる決心をしたのかも。

 何となく分かった。

 べリアスのことについては詳しくは知らない。しかし予想はできた。引き金になったのはレイなのだ。

 それくらい分かる。

 俺は、ずっとレイラを見ていたのだから。

 初めて二人で話した晩から俺の気持ちは決まっていた。何に換えても守りたいと、できるならずっとそばにいたいと思った。

 だから分かった。

 その気持ちが誰に向いているかなど、すぐに。

 だからこそ、コウは願うのだ。


「なあ」

 レイはただ黙って雨に打たれている。

「お前はなぜレイラを守ろうと思った」

「……それは、」レイは目を泳がせる。「リゼラ様の御命令だから」

 違うだろう?

 お前も俺と同じはずだ。でなければ、

 ――でなければ、ずっと自分はひとりだと思い込んでいたお前が、あんなに優しい顔で笑うはずないんだよ。

 俺は知ってる。

 お前がまだ魔界にいた頃、お前はいつも笑っていた。

 心のない、冷たい空っぽな笑みをいつも浮かべていた。

 お前がレイラの前で笑うときは違った。いつも同じ、穏やかな顔だった。いつも同じ顔をして騙していたのはレイラじゃない。

 お前だよ。

 レイが騙していたのは自分自身。自分の気持ちは主従の枠を越えないと、自分で自分を騙していたんだ。

 コウは目元を和ませた。

「本当に義務感だけで守っていたのなら、お前はレイラの心を守るためにどんな嘘でも吐いたはずだ。使い魔に定められているのは“主への忠誠”ではない、“主の命令への忠誠”だからな。

 お前は、なぜレイラを守っていた」

 コウには分かる。

 なぜなら、コウは同じ問いをずっと胸に秘めてきたからだ。

 そばにいてくれればそれでいい、という言葉が、自分が使い魔だからかけてくれた言葉なのだろうか、と。

 だから。

 コウは音も無く一瞬でレイに詰め寄り、頬に拳を叩きこんだ。

「……っ!!」

 レイは一歩後退し、頬を押さえながら魂を抜かれたような顔でコウを見つめた。

「お前は自分に言い聞かせていただけだ。“自分が主を守るのは義務”だと。自分は何一つ大切に思うことはない、それは自分が獣だからだと」

 レイラも同じだろう。

 自分に“レイが自分を守っているのは自分が主だからだ”と言い聞かせていたのだろう。

 肌寒い。

 降りやまない雨が、刻々と気温と体温を奪っていくのがよく分かる。

「お前が騙していたものは何だ? なぜ騙そうとした? お前は…」

 ここから先は言わない。

 自分で気がつかなければいけないことでもあるし、何より口にするのが癪だった。

 コウは呆然とするレイを見つめる。

 迷いを示すように瞳が揺らいでいた。

 コウは穏やかに、微笑んだ。

 それは、俺にはできないことだから。


 後はお前に任せる。


「踏み出せ、最初の一歩目を。恐れるな。お前が恐れているものは何だ」

 レイは目を見開いた。

「逃げているだけだろう。獣だということを逃げ道にして、お前は目を背けているだけだ。目を背けるな、逃げるな、前を見据えろ」

 できることなら。


 俺が、行ってやりたいのに――


「お前にできることは、何だ」

 豪雨。

 強さを増し、暗さを増す雨の中、

「礼を言う」

 レイの瞳に光が戻っていく。

「ああ。本当なら、とても一発では足りないからな」

 決意の宿る瞳でレイは小さく笑い、コウに背を向ける。

 やるべきことは分かっていた。

 レイは目を閉じた。

 白い指先から刃のように鋭い鉤爪が伸び、鋼色の銀髪から狼の耳が生え、唇を割って牙が伸び、

 骨格が変化すると同時に鋼色の毛が体を覆う。

 銀色の狼は一度振り返りコウと視線を交わすと、鳥のような漆黒の翼を広げ銀色の光を纏い、空へ消えていった。


 それを見送り、コウは微笑んだまま僅かに眉を寄せた。


 俺にはできないこと。

 あいつにしかできないこと。


 どんなに望んで手を伸ばしても、俺の手には掴めそうにない。


 ようやくレイは気付いた――いや、

 気付かせたのだ、自分が。

 唇を噛んだ。

「何をやっているのだろうな、本当に」

 自嘲気味に笑う。


 もしもあの時俺が気持ちを伝えていたなら、何かが変わっていたのだろうか。


 コウはこの日何度目かのため息を吐いた。

 もしものことを考え始めたらきりがない。

 ならば。

 せめて彼女が幸せでいてくれるよう、そう祈ることしかできない。


 俺は、それでいい。



 *



 魔界の上空を、気配を探りながら滑空する。

 どう頑張ってもこれ以上速さは上がらない、だがレイはそれでも残った魔力を総動員して大気を操り、翼を動かす。

 一秒でも早く。

 自分は馬鹿だ。

 馬鹿なだけならまだいい。救いようのない馬鹿なのだ。

 自分の気持ちに気付かず、いや気が付いていないのだと嘘を吐き続け、彼女は言ってしまった。

 あのときもそうだった。

 また同じ過ちを繰り返してしまった。

 あいつの言う通り、俺は逃げていた。

 俺が怖かったのは失うことじゃない。“俺の目の前で失うこと”がたまらなく怖かっただけなのだ。

 失うことが怖かった。

 自分の手で守れないと思い知らされることが怖かった。

 だから、自分の目の届かないどこかへ行ってしまったのなら、自分を騙すことができる。

 「遠くへ行ってしまっただけ」だと。たとえ、それが失われてしまっていたとしても。

 何もできないなんて嘘だ。

 満月が視界を照らし、魔力で鋭敏にした嗅覚で気配を探る。

 俺は、自分は何もできないと自分に言い聞かせて何もしなかった、ただそれだけのことなのだ。

 俺は獣だからと、いつか見切りをつけられる。

 思い込んでいた事実が現実にならないうちに、自分から線を引いて自分を守っていただけだ。

 一緒にいると辛い。それは、そうかもしれない

 最初は笑うことすら忘れていた彼女が笑うようになった。

 それなら、今度は寂しそうなその笑顔が、本当の笑顔になるところを見たくなった。

 彼女が楽しそうな笑顔をつくることができるようになった。

 それなら、


 ……それならと、その笑顔を自分にだけ向けてほしくなった。


 怖かった。

 俺は誰も信じられない。自分さえ信じられなかった。この感情と自分が信じているものも、もしかしたらつくりものなのかもしれない。

 ひょっとすると、自分のこの感情は、獣の“本能”と呼べるものなのかもしれないと。

 求めるものをすべて傷つけ、壊し、蹂躙する獣の本性。

 俺は急に怖くなった。

 また失うかもしれない。またこの手で、自分の大切なものを失うことになるのかもしれない。

 だから俺は、分かっていても止めなかった。

 俺は馬鹿だ。

 確かにレイラといると辛い。かつて自分が救うことのできなかった、自分のせいで命を落とした彼女を思い出すけど。

 レイラと一緒にいる辛さとは違う。

 苦しいのだ。守れないことが、彼女の望む幸せをつくってあげられないことが。

 一緒にいられないことが、辛い。

 道は交わることはない。

 所詮人と悪魔、いつか彼女は俺をおいていく。

 俺はひとりになるだろう。死ぬことのない体で、俺はまたひとりで生きていくことになるのだろう。

 それでも俺は一緒にいたい。

 彼女の時間を、許されるなら共に過ごしたい。

 たとえ彼女が俺をおいていったとしても、俺はずっと、永劫の時の中で、あなただけを。

 道が交わることがないのなら、俺は彼女の道に寄り添って行く。

 義務でも役目でもない、俺の意志で。


 何よりも大切な愛しいものを守って、その気持ちを携えて俺は永遠を生きよう。


 だから。

 言い訳も理屈ももう要らない。

 レイラが寂しいというなら俺はそばから離れない。

 レイラが悲しいというなら俺はいつでも抱きしめる。

 俺はレイラの笑顔を、いつまでも守りたいんだ。


 不意に、めぐらせていた魔力の包囲網にレイラの気配が濃く映った。

 レイは急いでその気配の出所を探り、詳細を知るや否や舌打ちをした。

「これは……、王城か!?」

 誓約を済まされてしまえばもう打つ手はない。手遅れだ。

 が、新たな魔王族の気配はまだしない。

 広範囲にわたる綿密な捜索と大気の操作で魔力が底を尽きかけ、レイは一瞬ふらついた。

 落ちた速度を無理やりに上げ、レイは唸る。

「まだ、間に合う!!」

 レイは一度翼を打ち鳴らすと、遥か彼方に微かに見え始めた王城へと速度をさらに上げる。


 もう何も掴み損ねたりしない。

 レイは月明かりを背に天を疾る。


 愛しい人に会うために。



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