4-08
太陽は高く、空は青い。
四角く切り取られた青空から注ぐ朝日があたたかく、閉じた瞼を白く染める。
ちょうどあの時もこんな気持ちだった。
「ねえ」
呼びかけられ、瞳を閉じたまま軽く声を上げてそれに応える。
「あのとき、私とあなたが会ったとき。あなたは、どんな気持ちだったの?」
どんな、か……。そうだな、ちょうどこんな気持ちだった。
声の主は不満そうに、だがどこか面白そうに声を沈めた。
「こんなって、どんな? ちゃんと言ってくれなきゃ伝わらないよ。ねえ、もう一回。あのとき、どんな気持ちだったの?」
ふふ、と笑い、彼女の頬に手を伸ばして、
「レイ?」
レイ?
ゆっくりと瞼を開くと、頭上に見慣れた少女の顔。
いや――
「レイラ様」
「レイラ様、じゃないでしょ?」不満げに口を尖らせ、「人の膝を枕にしたと思ったらすぐに寝ちゃうし、なんか気持ちよさそうだったし、起こせないし」
レイラの柔らかい膝を枕にぼんやりと天井を見上げ、ようやく今まで自分が眠っていたことを自覚する。
夢、だったらしい。
窓の外から注ぐ日差しに目を細め、レイはらしくないと額に手を当てた。
「どうかしたの?」
心配そうに顔を覗き込んでくるレイラに微笑みを返し、深く息を吐く。
「何でもありませんよ。少し、夢を見ていました」
「夢? レイも夢を見るんだ。……きっと、いい夢だったんだね」
「え?」
レイラは視線を泳がせる。
「だって、目を覚まさなければよかったって顔してるから。私もたまに思うよ。ああ、あのまま夢を見ていられればよかったのにって」
沈黙。
やがて、
「そう、かもしれませんね」
短く返すと、目を閉じる。
さわさわと木々の揺れる音、遠くから聞こえてくる人の活動する音。どこまでも穏やかな時間のはずなのに、なぜだろう、どこか心が落ち着かない。
遠慮がちにレイラの指が髪に触れる。
「ほんとに、どうしたの」
「別に、何も」
それが嘘だということは自分自身がよく分かっている。いや、レイラも分かっているだろう。だが、何が『別に』なのか、何が『何も』なのかは分からない。理解できない。他ならない自分のことなのに――自分のことだから、か。
優しく髪を撫でる感触が心地よく、意識がまた眠りの淵に落ちかける。
髪を撫でる彼女の手をつかみ、ゆっくりと体を起こした。
「昔の夢を見ていました」
瞼を開いた先に映るレイラは、黙ってされるがままになっている。
「遠い遠い昔の夢。ある愚かな男の、……獣の話です」
何をするでもなく、ただ沈黙。静寂。
レイは思う。なぜこんなことを口にしているのだろうか。どうして。どうして自分はあの夢を見たのだろうか。
そして、なぜ、
「……聞かせてくれる?」
レイは少しの沈黙の後再び瞳を閉じ、話し始めた。
*
あるところに、ひとりの男がいました。
その男は人と同じ姿を持ちながら人ではない、人を超える力を持つものでした。
人に非ざる姿と力、そして獣の心を持つ男は、悪魔と呼ばれる存在でした。昏い闇に閉ざされた世界と同じように、男の心も闇と同じ昏い色をしていました。
彼は誰も信じることができなかったからです。
家族や近しい友人にすら線を引き、笑顔を向けながらも彼は誰も信じてはいませんでした。彼は他に比べて優秀すぎたのです。
思い込んでいたのでしょう、彼は自分と他とは違うと。そうしなければ彼は自分を失くしてしまいそうで、恐ろしかったのです。
誰も彼には追いつけませんでした。みな彼を何か違うものを見るような目で見、敬い、線を引かれていることを知りながらもその先には踏み込もうとしませんでした。
人の姿と同時に獣の姿を持つ男は、誰かと談笑しながらも「自分はひとりである」ことを忘れることはできないでいました。
ある日彼は森の奥へと出かけます。いつも自分を苛む「ひとり」の意識から少しでも逃れたくて、彼は一人でそこを訪れます。
そして、不思議なものを見つけます。
それは薄く金色の光を帯びて輝く、ひとりの少女でした。
男は戸惑いました――自分しか知らないはずの場所に少女が居たことではありません。その少女が、見たこともない光に包まれていたことではありません。
少女が、何も知らないのに、知らないからこそ、彼が他人に対して引いていた線を軽々と越えてしまったことに、です。
戸惑いながらも彼は、彼女が自分の世界と対極を為す世界から何かのはずみで迷い込んでしまったことに気付いていました。そしてそれを放っておけば世界のバランスが崩れるかもしれない、ということにも。
男の住む世界では、迷いこんでしまった世界の者は見つけ次第始末するようにと、固く決められていたのでした。
ですが彼はそのままその場を去り、そのことは忘れることにしました。
魔力に溢れる地に生身の者が存在し続けることはできない、放っておけば自分が手を下さなくても命を落とすだろう、と自分に言い聞かせて。
数日が経ち、彼は〝忘れていた〟はずの地に足を踏み入れ、そこにいたのは――
あの、男が見放して忘れたはずの、少女でした。
少女は男を見つけるなり、小さく声を上げ、うつむきました。
泣くのだろうか、と男が思っていると、彼女は、意外なことに、
怒ったのです。
自分を見つけておきながらこんなところに置き去りにして、助けるとかせめて食料を与えるとかまともな奴ならそうするだろうと言って、男に怒鳴ったのです。
彼はその理不尽な言いように少なからず腹を立てました。腹を立てながら、彼は驚きました。
自分が腹を立てている。まともな感情が自分にも宿っていた、ということに。
自分は獣の姿を持っていて、人の持てる力を超えた能力を持っている。まともな奴ではないのだとか、言い返すべきことはたくさんあったのかもしれません。
でも彼はそうしなかった。
彼は謝ることはありませんでしたが、自分しか知らない、魔力に侵食されることのない小さな屋敷に彼女を連れていきました。
それは優秀な彼が作り出した、誰にも知られることのない優秀な家でした。
それまで怒りを顕にしていた少女は一変、嬉しそうに笑って言いました。礼と、ずっと不安だったこと、寂しかったこと、そして、「いい人ね」と、彼にほんとうの笑顔で語りかけたのです。
それから彼は、事あるごとに少女に会いに行きました。食事を与えたり、つまらない話をしに行ったり、獣に姿を変えた自分の背に乗せて湖に連れていったり。男の獣の姿を見たとき、彼女は彼の予想に反して、彼をすごく綺麗だと誉めました。
絶対に、嫌われると思ったのに。
他の奴らと同じように、遠巻きに線の外から安全な位置で笑っているだけだと、思っていたのに。
なぜ、こんな世界にひとりで迷い込んでしまってそんな風に笑っていられるのか。
彼女は答えました。
あなたがここにいるから。
それだけで、男には十分でした。
なぜ彼女が自分にとって他とは違った存在なのか、なぜ彼女だけが自分の引いたこの線を越えられるのか彼は不思議に思っていても、その理由を深く追求しようとはしませんでした。
彼もまた、彼女がいればそれでいいと、思っていたのですから。
時が流れます。
いつものように彼は彼女に会いにいき、いつものように別れました。
彼は気付いていなかった。
彼は一族でも群を抜いて優秀な者。その彼が纏う空気が柔らかくなることを、望まない者がいることを。
彼が冷徹さを失うことを、快く思わない者がいることに。
時が流れます。
いつものように彼は彼女に会いにいき、そして。
信じられない光景を見ました。
〝いつも〟会っていたその場所に、たくさんの者たちがいたこと。
その者たちが、彼が見知った一族の者だったこと。
その者たちの手が、鮮やかな――赤い色に、染まっていたこと。
一族の者たちを押しのけて、死に物狂いでたどり着いた輪の中に、少女がいました。
その金色の光を失いかけた、赤く染まった、今にも息の絶えそうな、彼女が。
彼女は瞳に宿る弱々しい光で彼を捉えると、嬉しそうに笑い、最後に彼に謝罪の言葉を呟き、あの人たちを許してあげて、と囁き、彼に、
彼がずっと自分でも気付かないようにしていたその想いを告げて、
後に残ったのはどんどんと温かさを失っていく、彼女であった、最早彼女ではないもの。
これが一族のためだったとか、
これがお前のためだったとか、
これが世界のためだったとか、
聞こえてくる言葉の端々を彼女ではなくなってしまったものを抱えながら、彼は自分が壊れていくのを感じていました。
いや、壊れていったのではありません。
壊れていたのでしょう、初めから。
彼は人ではない――自分が獣であることを、獣であろうということを、獣でいようということを決心し、
気がついた時には、辺りは慣れ親しんだ者たちの、慣れ親しんだ匂いのする血で赤く染まっていました。
そして男は気がつきます。
その吐き気の込み上げてくるような匂いが、自分にとってはそうではない。その中に、あの少女の血の匂いが、混じっているということに。
自分は獣だと、明確に意識しました。
誰かの幸せを願っても、自分の手では決してそれを叶えることができない、相手を傷つけてしまうだけの獣。
呆然と立ち尽くしていると、そこに現れたのは罪を裁く者たち。
彼はその者たちすらただの肉片に変え、その場から逃げ出すことができたでしょう。
なぜなら彼は獣であり、
一族の者たちの血を浴びることで、誰よりも、どんな存在よりも強い力と、死ぬことのない永遠の命を手にしていたのですから。
それから彼は牢獄に閉じ込められました。
深い深い地の底につくられた牢獄で彼は死ぬことも許されずに永遠を生きることを定められました。
彼は抵抗はしませんでした。しようとも思いませんでした。
罪の証である紅い血色に染まった瞳でただ昏い闇を見つめて。
果てることもなく、いつか本当に自分が“ひとり”になる時を、ずっと待ち続けるしかなくなってしまったのです。
*
何も言うことができなくなった。
日は傾きはじめ、黄昏に染まった空。
血色の空。
「男はそれから、長い時間をそこで過ごします。長い長い、気の遠くなるような時間の後で、一人の少女が男の牢獄を尋ねました。
少女は彼に、逃げるな、目を逸らすなと言葉を投げかけ、自分の配下になるようにと言います。
男はそれを受け入れます。
牢獄を出て、魔界の貴族である七臣家の娘、その少女に使い魔として仕えた後。自分がいなくなった後、娘を何としても守るようにと告げ、彼女は去りました」
話し疲れたのか、レイは起き上がると軽く息を吐く。
隣に腰かけるレイの横顔を見上げる。
「それがレイラ様の母上であるリゼラ様です」
ああ。
やっぱり、と思う。あれは彼自身の物語だったのだと。
「彼は――私は、彼女に返しても返し切れないほどの恩があります。ですのでせめて彼女との約束通り、あなたを何に換えてもお守りすると、誓いました」
約束通り。
「……レイが、犯した罪は」
顔を上げるのが怖かった。
今のレイの瞳を見るのが何よりも怖かった。
「魔界において犯さざるべしと定められた三つの大罪。聖界への干渉、同族殺し、王族殺し。私はその内の二つを犯しました。本来ならば消滅させられているはずの、それほどまでに重い罪です。……そうであったらどんなに良かったか」
深く重い息を吐く音が聞こえた。
「私はそれすらも許されない。同族の血を浴びた私には」
重く苦しい静寂だった。
聞かなければならなかった。訊かなければならなかった。
「……レイは、私といると、苦しい?」
恐る恐る、顔を上げた。
レイのどこまでも静かな血色の瞳と目が合った。
「あなたは似ていますね。リゼラ様にも、……そして、彼女にも。
彼女には――イリアには、何もできなかった。私が殺したも同然です。私は自分が獣であること、人ではないことを知りながらも彼女から離れることができなかった。私の甘さが、弱さがそうさせたのですから」
ふい、とレイが顔を背ける。夕闇色の室内に満ちた橙色の光に、こぼれた鋼色の銀髪が物憂げに光を放つ。
「リゼラ様は、私に罪から逃げるなと教えてくれました。それがあるから、今私はここにいるのでしょう。ですが、それはなによりも辛いことなのです。レイラ様」
「……」
「私は使い魔です。主だけに忠誠を誓い、尽くすもの。主であるあなたの望みとあらば私はどんなことでもいたしましょう。私の務めですから」
「私は、確かに見た目は人に似ています。ですが本質は違う。ただ破滅と破壊とをもたらして悦ぶもの、それが悪魔、なのですから。
あなたと私は違う道を行く者。
決してその道が交わることはないことを、お忘れなきよう」
それが答えだった。
レイラは、そう、としか言えなかった。
そのまま、顔を伏せたまま扉を開け、
「……」
何も言わずに、部屋を後にした。
そのまま重い足を引きずって走る。ひとりになりたくて、だけど、
気付いてしまった想いが、そうしたくないと悲鳴を上げていて。
涙が滲んだ。
前も見ずに走り、何かに強くぶつかる。
「……主か?」
「…!」
コウに何も言うことなく、ただ脇をすりぬけるようにしてその場を去る。
分かっていたはずだった。それが義務で、役目だと。
でも自分は、理解しているようで何も理解していなかったのだ。
レイが、どんな思いで自分を守り、そばにいたのかさえ。
そして自分が、どんな気持ちでレイの隣に居たのかさえも。
気がつけば外は暗かった。
私は思う。
このまま消えてしまったなら、
ほんの少しだけでも、彼の痛みは消えてくれるのだろうか、と。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます