4-06
気が重かった。
ドアノブを回すのを躊躇った理由はそれだけではないと、分かってはいた。
「……ただいま」
玄関に足を踏み入れた瞬間、階段を駆け下りる凄まじい足音と共に二人の使い魔の悲鳴のような叫びに迎えられ、正直面食らった。
「レイラ様!」
「無事か!」
その剣幕に思わずたじろぐ。
「へいき、だよ」一歩下がる。「平気だよ。……なにかあったの?」
レイが蒼白な顔で口を開いた。
「数時間ほど前でしょうか、べリアス殿下の使い魔が、」見る間に表情が悲しげに歪んでいく。「べリアス殿下とレイラ様がっ……!」
口にするのもおぞましいとでも言うようにレイは口元を押さえ、よろよろと壁に手をついた。
レイが必死に自分を落ち着かせようとしているのがはっきりと分かる。
数回の深呼吸の後、何かを振り払うかのように口を開いた。
「デ、デ、デ、……デートを」
レイラは目を見開いた。
その反応でそれが真実だと悟ったレイは、この世の終わりを目にしたかのような絶望をその世にも麗しい白面に浮かべ、魂が抜けてしまったかのように呆然と立ち尽くした。
レイラはうつむく。
「何もされなかったか?」
いつもより幾分かの険しさを滲ませた無表情でコウに見つめられ、レイラは押し黙る。
何もされてはいない。
だが。
知られたくないと思い、レイラは首を横に振った。
「別に、何も。荷物持ってもらったくらいで」
笑みを浮かべるレイラを一瞥し、コウは珍しくため息をついた。
「なぜあいつと一緒に居た?」
責めるような声音に首をすくめる。
「……ごめんなさい」
コウは腕を組んだ。
目元に険を宿らせて見下ろしてくるコウに何も言うこともできず、ただ首をすくめてうつむくことしかできない。
「……あまり心配させるな」
長い沈黙の後にため息混じりに呟きレイラの頭を軽く叩くと背を向け、コウは背を向けて廊下の向こうに消えてしまった。
口の中で、もう一度ごめんなさい、と呟いた。
ふと肩に温かいものを感じた。
「お食事の用意が出来ていますよ。お疲れになったでしょうから、もう今日はゆっくりお休みください」
どうやら呆然自失状態から立ち直ったらしいレイが微笑んでいる。
肩に置かれた手に自らの手を重ね、レイラも微かに微笑みを浮かべる。
――あなたの使い魔は……
胸に鋭い痛みがはしる。
刹那に脳裏に甦った言葉を心の底に沈め、レイを見上げた。
「うん。ありがとう」
レイはいつもの穏やかな微笑みでそれに応えた。
*
あたたかい。
湯船に浸かりながら、レイラは小さく息を吐いた。
無口ながらも夕飯の用意をしていてくれたコウ、何かと気遣ってくれたレイ。二人の優しさがあたたかい。
そう、ふたりはいつもこんな自分に優しくしてくれる。
だけど、それは。
「私が、主だから」
主。
自分は主で、二人は使い魔。
レイラが魔界の貴族の血を引く娘だというただそれだけで彼らは自分に仕え、時には身を呈してまでも守るのだ。
それはすべてレイラが二人の主だから。
「分かってるもん」
レイラは一人呟く。
分かっている。役目、義務。彼らが自分を守ろうとしているのではなく、守らなければいけないのだと、そんなことくらい。
分かっていたはずだった。
それならばなぜこんなにどうしようもなく胸が苦しいのか。
湯船に背をもたれ、天井を見上げた。
お湯のやわらかな温かさは体の疲労を癒しても、胸の中までは癒してはくれないらしい。暗雲が立ち込めたような重たい冷たさがわだかまるばかりで、知らずレイラは胸を押さえた。
『あの獣は魔界において犯さざるべきと定められた大罪を犯した。決して赦されることのない罪を』
耳を塞いでも心を閉ざそうとしても消えはしない。
レイの犯した罪、それが何なのかもその重ささえもレイラには分からない。知りようもない。
ただひとつだけ分かること。
自分が、哀しいと感じていることだ。
『彼があなたに仕えているのは、彼が犯した罪に対する罪滅ぼしなのですよ』
なぜ、哀しいと感じる必要がある?
なぜ、心が悲鳴を上げる?
レイが自分に仕えているのは罪滅ぼし。だから何だというのだろう。レイにどんな理由があったにせよ、そこには義務がある。意思ではない、他人から課せられたものが。
どんな理由があろうと、自分は守られている。
いや、守って欲しいと言ったのだ。疑心暗鬼に囚われて他人を信用することもせずにひたすらに自分を“ひとり”に追い込んでいたくせに。
彼らの、義務を全うしようとする責任感に付け込んで。
哀しいなんて、寂しいなんて言う権利は無い。
自分が求めたのは意思じゃなかった。紛れもない義務を、自分は求めていたのだから。
「……」
膝を抱えた。
水面に反射している自分の顔はひどく歪んでいる。
ひどい顔だ。
ふ、と息を漏らした。
いや、違う。そんなのは後付けの理由に過ぎない。
ただ純粋に、そばにいて欲しかった。守って欲しかった。胸の中にあった孤独に気づかないふりをしながら過ごしていた私は、それだけでよかった。
でも、今は。
『彼があなたの傍にいるのは自分を満足させるためだけです。決してあなたを守るためではない』
「うるさい」
そんなこと、分かってる。
誰だって自分の為に生きる。純粋に他人の為を思うことなんてない。だから分かっている。彼が自分のことを守るのは義務。そしてそれが贖罪の為であったとしても、彼が自分を守るという事実には変わりがない。
私が、主だから。
胸が苦しかった。目の奥が熱くなった。
これは涙なんかじゃない。
「わがままだな、私は……」
自嘲する。
誰もを拒絶し続けたくせに、一人でいたいと願い続けてきたくせに。
そばにいてくれた人が自分を守ってくれた、それが彼自身の為だと分かった途端に後悔する。
無いものを求め続け、手に入ればもっと欲しいと渇望する。なんてわがままなのだろう。
沈痛な面持ちで膝を抱えていると、扉越しの控えめな声が聞こえてきた。
「レイラ様?」
レイだ。
驚いて振り返ってみたが、不透明なガラスに隔たれた扉には人影は映っていない。おそらく脱衣所の向こうの扉から声をかけているのだろう。
「なに?」
平静を装ってレイラは応える。
「……いえ、その。お体の具合でもよろしくないのかと」
くぐもった声が心配そうな色を帯びる。
パネルに表示される時刻を見ると、レイラが風呂場に入って確認した時刻からとうに一時間は過ぎていた。
気づかなかった。
「大丈夫だよ。もう上がるから、その……」
「分かりました。お待ちしています」
レイの気配が遠ざかっていくのを確認し、ようやく体の緊張を解いた。
レイ。
レイラは唇を噛み締めると湯船からそっと上がり、バスタオルを身に纏った。
*
「どうしたの、そんなところで」
風呂あがりのレイラが目にしたものは、レイラの部屋の前に表情を曇らせて立つレイだった。
平静を装って笑いかけるレイラに、レイは黙って壁に預けていた背を離し、重い口を開いた。
「レイラ様、……ご無事で何よりでした」
いつもより力の感じられない微笑みでレイは軽く一礼する。
「大丈夫だって言ったじゃない。本当に、平気だから」
レイは表情を緩めないままについと視線を窓の外に滑らせた。
空気が湿っぽかった。時期的にもそろそろ梅雨に入る頃だということもある。
梅雨が嫌いなレイラはそれを考えるだけでも気が重い。季節に文句をつけても仕方がないが、嫌いなものはどうしようもない。
真剣な眼差しでレイはレイラを見据えた。
「レイラ様、べリアス殿下は三王家の魔王だということをお忘れになったわけではありませんよね?」
「それは、」うつむく。「……そう、だけど」
「危険だと分かり切っていて、それでも殿下と過ごされたと。そういう訳だと解釈してもよろしいのですか」
責めるような口調に、レイラは目を合わせることはできない。
危険かもしれないと分かっていて彼の申し出を受けることを承諾したのは事実だ。弁解のしようもなかった。そこには、たしかに自分の意思があったのだから。
レイがため息混じりに呟く。
「…そ…んなにべリアス殿下を気に入られたということですか」
冷たいともとれるその言葉にレイラは弾かれたように顔を上げる。
「っ、ちが、私は……」息を呑んだ。
レイが険しい顔でレイラを見つめていた。
いつも穏やかに微笑みを浮かべる彼からは想像もできないような、初めて見る表情だった。
心持ち斜めに引き結ばれた口元から細い息が漏れる。
「私が心配しないとお思いになりましたか」
伏せた睫毛に影が落ちる。
「他の男とレイラ様が過ごされて、私が平気でいられるとお思いでしたか」
黄昏よりも鮮やかな血色の瞳がレイラを映す。
ゆっくりと迫ってくる真紅の双眸にレイラは身動きすら取れなかった。
だらりと下げたままだったレイラの腕を取り、レイは自身の胸に引き寄せる。
「そうお思いなら、すぐに考えを改めていただきましょうか」
「……っ」
耳朶をくすぐる低い囁きにレイラは身体を強張らせる。
何かの呪縛のようだった。
腰に腕を廻し、髪を撫で、レイは囁く。
「あなたの無事が……、あなたが、何よりも大事なのですから」
自分の身体だというのに絡めとられたかのように動かない。離れたいと思うのに、もっとこうしていたいと思う。
どうしようもなく不安なのに、その胸の温かさが鼓動を速めさせる。
しかし、同時に甦るのは。
『犯した罪の大きさ故に、あまりにも大きな咎を負った獣。それは未来永劫消えはしない』
胸に刺さったまま、棘のように苛むのは。
違う。
胸を締め付けているのはこの言葉じゃない。
レイの背中に廻しかけた手を止める。
季節はずれの冷たい風が頬を嬲る。
私が主で、彼が使い魔だから。二人の間にあるのは主と従、それ以外は存在しないから。
「レイラ、様?」
レイが訝る気配がする。
私は何も知らない。レイのことも、もしかすると自分のことさえ、なにひとつ。
訊きたいことがあった。聞きたい言葉があった。
でもそれを訊いてどうするのかと、自分の冷静な部分は言うのだ。
「……何でもない」ふう、と息を吐く。「ちょっと疲れただけ」
言葉にして初めて気がついた。体が重い。一日歩いただけでここまで疲れるのかというくらいに体の自由が利かない。
レイが微かな笑いを漏らした。
「夜も遅いですし、お休みになられてはいかがですか? 明日も休日だと伺っていますが」
「うん」
レイから体を離し、
「おやすみ」
ドアに手をかけ、振り返る。
「お休みなさいませ。よい夢を」
ドアの向こうにレイが消え、ようやく体の緊張を解いた。
疲れていた。
何も考えたくなかった。
電気のない暗い部屋にひとり、いまはただこうしていたいと、そう思った。
*
「寝たか」
「ああ」
突如現れたコウに別段驚くこともなく、レイは機械的に頷いた。
耳を澄ますと微かな寝息が聞こえてくる。時折苦しそうに息を詰まらせるが、特にこれといった異常は見受けられなかった。
「どうしたんだ」
「随分お疲れのようだった」夜風に煽られる髪を押さえる。「昨晩の疲れが残っておいでなのか、あるいは……」
昼間行動を共にしていたべリアスの影響なのか。
彼は気配を消してはいなかった。逆に言えば、人間の姿でありながらも魔力を抑えていなかったということにもなる。あの気配はどちらかというと魔王に近いものだった。魔力を封印し人の姿を取っている間は魔力を発することは不可能に近いはずなのだが。
もしくは。
「魔力を抑えることができなかった……?」
あり得ないことではいないだろう。魔力は秘める者自身の可能性、言い換えればその者自身の感情とも言える。激しく感情が昂った場合、自然と漏れてしまうこともある。
だがそれとはまた種類が違うのではないだろうか。
あの気配にあったのは感情ではないだろう。もっと別の何か、例えるならば満月を迎えた魔獣たちのような――
「まさか、な」
仮にも魔王である者だ。魔獣であるなどということはあるはずはない。
一人思案に暮れるレイに冷静な声が掛けられる。
「俺が訊いているのはそのことではない」
「何だと?」
レイは腕組みをして口元を斜めに立っているコウに目を遣った。
「お前だ」
「……?」
どういう意味だとコウに視線で問いかけると、コウは軽く鼻を鳴らした。
「いや、気付いていないならいい」
ため息ともつかない短い息を吐き、コウは階下に下りていく。
「私が、どうしたのか……?」
無意識に手のひらを見つめる。
流れる魔力も、この血の色に染まった瞳すら、何ら変わってはいない。
どういう意味なのだろう。
「……」
夜風が冷たい。
レイラの体に悪いかもしれないと思い、音をたてないように気を付けて窓を閉める。
夜の黒に光が反射し、自らの顔が映って見える。
鋼色の銀髪にこの顔立ち。
腕に残る重みとまだ残るあたたかささえ、あの時から時間を止めたままで。
唯一あの頃と違うものと言えば、この血色の瞳だけだった。
消えはしない。
どんなに願おうと、足掻こうと、この痛みも、罪も咎も。
永久にこの痛みに苛まれて苦しみ続ける、それがこの罪に塗れた自分に科せられた咎なのだから。
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