2-04


「……失礼します」

「おうよ」

 別にあなたに言ったわけじゃないんだけどな、と思いながらも、レイラは特につっこむことはしなかった。

「あ」

 先客がいたようだ。保健室にいた女子生徒が振り返る。

「おう佐藤、どうした? 授業始まるぞ?」

 佐藤と呼ばれた女子生徒は物言いたげな顔をしていたがやがて小さく頷いた。

「……そうですね。じゃ、行きます」

「遅れんなよ?」

「大丈夫ですよ先生じゃあるまいし。また来ますね」

 佐藤はレイラに一礼すると、静かに保健室を後にした。

「いいんですか?」

「なにがだ?」

 いやいや、とレイラは背の高い小鳥遊を見上げた。

「……まあ、いいですけど」

 本気でわからないようだ。あれはどう見ても、この男目当てで待ち伏せしていたのだろうに。首を傾げる小鳥遊にレイラはため息をつく。何と言うか、意外だ。

 頑張れ佐藤さん。

 レイラは名前も知らなかった女子生徒に心の中でささやかな応援を送ると、のんびりと椅子に腰かける小鳥遊を見つめた。


「あの、私授業に出たいんですけど」

 気にすんなって、と小鳥遊は軽く手を振った。

「名簿見たけどよ。お前、今まで一回も学校休んでないんだろ? どーも教室の様子見てっと、居心地いいってわけじゃなさそうなのにな」頬杖をつきながら笑う。「逃げなかったってことだろ。立派だよ。よく戦った」

 レイラは言葉に詰まった。

「でもな、そんなに気ぃ張ってっといつか切れちまう。だからな、少しは手を抜くことも覚えろ。少しは休め。何も周りみんな敵ってわけじゃないぞ?」

 優しげに笑う小鳥遊の笑顔が胸に痛かった。

 隠していた気持ちを見抜かれてしまった気がした。

 確かに自分にとって学校なんていうものは決して居心地のいい場所ではないし、好きになれるようなところでもない。親もいなかったし、休もうと思えばいくらでも休むことはできた。

 でも、それをしなかったのは。


 負けたくなかったからだ。


 そう、負けたくなかった。居心地が悪いからと逃げ出したくなる自分に。

 他人に勝つことよりも、自分に勝つことの方がよっぽど難しいとレイラは思う。月並みな言い方でも、それは真理だ。

 いつだって自分の中には、逃げ出したいと思う自分と負けたくないと思う自分がいて。

 いつも、逃げてしまったらどんなに楽だろうかと思っていた。

 それでも、負けたくなかった。逃げたくなかった。居心地が悪いことを理由に逃げてしまったら終わりだと知っていた。一度逃げてしまったら、もっともっと楽になりたいと思ってしまう。だから。


 “自分”に負けて、自分が自分でいられなくなってしまうのがたまらなく怖かった。


 誰も認めてくれないなら、せめて私だけは私を認めていたいと、そう思った。

 唇を噛んで立ち尽くすレイラの頭を引き寄せ、小鳥遊は優しくレイラの頭を叩く。

「頑張ったな」

 しばらくの後、レイラは小さく頷いた。

 たぶん私は、ずっと誰かにそう言って欲しかった。


 さて、と小鳥遊は勢いをつけて立ち上がった。

「茶でも飲むか? せっかくだし少しくらい休んでいけよ」

「……お言葉に、甘えます」

 小鳥遊は鷹揚に笑うと、がちゃがちゃと音を立てながらカップなりポットなりを用意し始めた。

 外からの日差しが入り込む、白い暗闇に満たされた保健室。それは今まで苦しんでいた場所とよく似ていたけれど、ここは暖かい。

 ぼんやり外を眺めながら、レイラはグラウンドの賑わいを聞いていた。

 とそこへ陶器のこすれる雑音が混じる。おわっと言う声とか。

「先生?」

 小鳥遊にはレイラの声は聞こえていないようで、何やらひとりでぶつぶつ呟きながらポットとにらめっこしている。

「なんだ? 何が悪いんだ? ここか?」

 嫌な予感。

「分っかんねぇな、……いっそ」その髪が夕陽色の火の粉を纏い、

「ちょ、ちょっと待ってください!! 私がやりますから火は出さないで!」

 慌ててレイラは止めに入る。

「ん? そうか?」

「はい、ぜひやらせてください!!」

 そうか、じゃあ頼むと椅子から離れる小鳥遊にレイラは安堵し、慣れた手つきでお茶の用意をし始める。

 小鳥遊は感心したように歓声を上げた。

「うまいもんだな」

 カップを用意しつつ、

「慣れてますから。ずっとひとりだったし」ポットのお湯の温度を確認する。「お茶好きなんですけど、誰も淹れてくれる人いませんから。自分でやるしかなかったんです」

 相槌を打った小鳥遊が、にやりと笑う。

「そういえば、普通に話すの初めてだよな」

「……」

 そりゃ、今までに交わした会話といえば花束がどうとか、嫁がどうとか。まともな会話とは言い難いのではないだろうか。

 レイラの沈黙を肯定ととったらしい小鳥遊は椅子にもたれかかりつつ、

「どうだ、俺の花嫁になる気になったか?」

「遠慮しておきます」

 レイラはテーブルに用意した二人分の紅茶を置くと、小鳥遊から少し離れた椅子に座った。

「なんで!?」

 小鳥遊は本気で驚いているらしい。

「なんでって、」紅茶をすする。「結婚がどうとか、考えられませんよ。私まだ十五歳ですから」

 法律的にも結婚できる歳じゃないしと考えるあたり、私も夢がないというか現実的だなあと思う。

「そうかそうか。つまり、俺の努力が足りないと」

「え?」

「だってそうだろ? 俺が、歳なんてどうでもいいと思わせるくらいに惚れさせればいいわけだ」ひとり納得したように頷いている。「なるほどな」

 レイラは半分呆れ、半分感心して小鳥遊を見つめた。


 何を言い出すかと思えば。


 だが彼には冗談を言っているような様子は見られない。本気でそう言っているのは明白だった。

「どうしてそんなに、自分に自信を持っていられるんですか?」

 気がついた時には声に出してしまっていた。

 小鳥遊は一瞬目を見開いたが、すぐに笑顔でレイラを見る。

「どうしてって、簡単だろ? 自信なんて自分で作り出すものなんだよ。俺はこんなに頑張ってるから大丈夫だってな。自信がないってのはただ単にそいつが自分の努力不足を認めてるだけだと、俺は思うけどな」

 紅茶を口に運ぶ小鳥遊を見つめながら、レイラは思った。

 ただの自信家だと思い込んでいたが、違ったらしい。

 その自信の裏には、確かな努力があって。

 自信ありげに笑う彼が、レイラにはまぶしく見えた。


 じっとレイラに見つめられ、小鳥遊はカップを置いて実に色気のある微笑みを浮かべる。

「な? 俺はいい男だろ?」髪をかきあげる。「お前が俺を選んでくれるなら、俺は何よりもお前を大切にする」

 レイラは不覚にも赤面してしまう。

 うつむいてそれを隠しながら、

「そっ、それは大魔王になるために私が必要だからでしょう? そんなの、私は嬉しくない」

 沈黙。

 グラウンドから聞こえてくるざわめき。

 しばらくの後、

「…あ、ああ。そうだったな」

 やけにうろたえたような小鳥遊らしくない頼りなげな声が、そのざわめきをかき消した。

 レイラは、そっと小鳥遊の様子を窺った。


 何かを思い出そうとしているかのように、小鳥遊は呆然とレイラを見つめていた。


 小鳥遊が何かを口にしようとしたそのとき、

 チャイムが授業の終わりを告げた。

「じゃ、じゃあ私行きますね」

 チャイムが鳴ったのを幸いとレイラは立ち上がる。

「待て」いつの間にか背後にまわっていた小鳥遊がその手をつかんだ。「……座れ」

「え? いや、私は」

 半ば無理やり椅子に座らされ、レイラは屈みこんだ小鳥遊を見下ろした。

「いいから」小鳥遊は慣れた手つきでレイラの脚に巻かれた包帯をほどく。

 かすかに走る痛みにレイラは小さく顔をしかめた。ほとんど痛みはなくなっていたが、刺激されるとやはり少し痛む。

 何をするのかと警戒するレイラに、小鳥遊は鷹揚な微笑みを浮かべながら脚の傷に手をかざした。

 その手が緋色の炎を纏い、炎が傷口に吸い込まれるようにして消えていき、

 気がつくと傷痕はきれいに消えていた。

「そら、いいぞ」

 さっさと離れて紅茶の後片付けをし始めた小鳥遊の背中に、レイラは再び立ち上がりながらぎこちなく礼を言った。

「あ、あの、ありがとうございます」

「ああ」

 小鳥遊はそっけないともとれる態度でそれに応え、あとは何も話そうとしない。

「……じゃあ、私はこれで」

「おう、遅れんなよ」

 それだけのやりとりを交わし、レイラは保健室を後にした。



 レイラのいなくなった保健室で、小鳥遊はひとり呟く。

「なんてこった。落とすつもりが落とされる、か」

 救えないな、と小鳥遊は自嘲するかのように口元を歪めた。

「……せめて」


 せめて、あいつが来る前に。



 そう呟くと、小鳥遊は白衣を翻した。


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