第2章 まだ名前はないけれど
2-01
不意に意識が鮮明になった。
目を覚ますと、まず最初に目に入ったのは見慣れた自室の天井だった。どうやらベッドの上に横たわっているらしい。
カーテンを閉めてない窓からは橙色の灼けつくような西日が入ってきており、今はもう夕方だということをうるさいくらいに主張していた。
むっくりと起き上がるとレイラは制服を着たままで、なぜだろうとレイラは首を傾げる。一体誰が私をここまで運んできたのだろう?
どうも記憶が曖昧だが、ふとレイラは自分の喉がひどく渇いていることに気がついた。
とりあえず居間で水でも飲もうか。
ベッドから降り、ドアを開けて最初に目に入ったものに、レイラは思考停止する。
目の前の大きな窓の外にある木の枝に、やけにでかい黒い鳥と、銀色の毛並みの狗がちょこんと佇んでいる。
「……」
レイラは思わず考え込んだ。
え? なにあのでっかい生物?
どこかで見たことがあるような気がして、レイラは首を傾げる。答えはすぐに出た。おそらく昨日保健室から出る時に見かけた、自分を見ていたあの動物たち。あんなのはそういないはずだから、きっと同じに違いない。
でもどうしてこんなところにいるのだろう?
窓を開けると獣たちと目が合った。さてどうしよう。餌になるようなものはあったっけ?
ふとレイラは銀色の狗の毛並みに目を留める。あの鋼色に鈍く輝く毛並み、あれは、使い魔と名乗ったあの銀髪の青年の髪の色と同じではないか?
「あ、もしかして」
べリアスはあの二人を獣と呼んでいた。そして目の前にいる同じ色をした獣たち。信じられないような思い付きだったが、ほとんど確信に近かった。
レイラが声を掛けようとすると、銀色の狗が先に口を開いた。
「目を覚まされましたか」
喋った。しかも聞き間違いのしようのない流暢な言葉を操って。
以前のレイラだったら卒倒していただろうが、ありがたくもないことに今のレイラには突拍子もないことに耐性がついてしまっていたのでなんとか耐えることができた。
あの青年と同じ声をしているということは、自分の推測は当たっていたということなのだろう。
レイラは下を極力見ないようにしながら尋ねた。
「はい、大丈夫です。運んでくださったんですか? ありがとうございます」
銀色の狗は首を振った。
「礼を言われることではありません。当たり前のことですから」
当たり前という言葉はなんだか居心地が悪かったが、今は噛み殺すことにする。
「あの、どうしてそんなところに?」
再び尋ねたレイラに、黒い鳥が間を置かずに答えた。
「入れと言われなければ勝手に足を踏み入れることはできない」
「あ……」
そうなのか。そう言えば、彼らは使い魔だと言っていた。よく分からないが使い魔は使役される存在だと言っていたし、彼らがそう言うならそうなのかもしれない。
少しばかり申し訳ない気持ちでレイラは彼らを誘った。
「えっと、そんなこと知らなくて。その、ごめんなさい。よかったら入っていただけますか?」
獣たちは顔を見合わせ頷くと頷きあい、窓からレイラのいる廊下へと飛び込んできた。
レイラはうなだれる。
「あのー、できれば玄関から……」
二匹の獣は瞬く間に見目麗しい美青年へと変化した。
銀髪の青年が真面目な顔で頷く。
「心得ました」
*
レイラは昨日のように二人を居間に招き入れた。どうやら飲み物は必要ないといった趣旨のことを言っていたので、失礼かなとは思いながらも飲み物は出さなかった。
沈黙が流れる。が、今日は昨日よりは重苦しい雰囲気がなくなっていた。
そういえば、とレイラは気になっていたことを訊いてみる。
「お二人とも、変身できるんですね」
銀髪の青年が穏やかな笑みを浮かべながら軽くうなる。
「変身、といいますか……、あれが悪魔としての本来の姿なのです。今は人の姿を取っていますが」ちらりと隣に座る黒髪の青年を一瞥し、「私はマルコシアスという悪魔で、本来の姿は翼を持った銀色の狼です」
あれは狼だったのか、とレイラは納得する。いやでも狼なんて普段から見慣れてるわけじゃないし間違えても仕方ないと自分に言い訳しながら、うっかり犬なんて言わなくてよかったと思う。
黒髪の青年を示しながら、
「こいつは“バルバトス”という悪魔で、まあ言ってしまえば黒い鳥です」
黒髪の青年が銀髪の青年を無表情ながらもものいいたげな顔で眺めた。どうやら自分で言いたかったようだ。
ふとレイラは疑問を抱く。
「その、マルコシアスとかバルバトスっていうのが名前じゃないんですか?」
「いえ、それは個人というよりも種族の名前です」
レイラはそっか、と頷く。
外からはどこからか犬の声。
レイラは二人を見つめる。言いたいことがあるが言い出しにくい、というかこんなこと言えないというかどう言えばいいのか分からない。
レイラの葛藤を見抜いたのか、銀髪の青年が助け船を出してくれた。
「あの、何か言いたいことがおありで?」
「あ、はい! えっと」しばし黙り込む。大きく息を吸い込み、「あの、あなたがたは、誰の使い魔なんですか?」
銀髪の青年が笑顔のままさらりと答えた。
「あなたのものです」
レイラは赤面する。お前のものだ、とはっきり言われてしまうとどうにも照れくさい。
レイラはひとつ咳ばらいをし、雑念を振り払うように首をぶんぶんと振ると、訝しげな顔をする青年たちに向きなおった。
「私、結婚なんて、正直考えられないんです」
「ええ、そうでしょうね」銀髪の青年と黒髪の青年が頷きあう。「私たちは、あなたのために存在します。あなただけのために」
黒髪の青年も同意する。
「俺たちは、お前のためにいる。
言え、望みを。俺たちはそれを全力で守る」
レイラは立ち上がった。
それにつられるようにして二人の青年も立ち上がる。
レイラは意を決し、胸の中にあった思いを口にした。
「守って、もらえますか。
一度追い出しておいて、虫のいい話だとは思います。でも、」
あのとき。
ベリアスから助けてくれたときに感じた気持ち、まだ名前の付けられない何か。
許してくれるというのならそれに甘えたい。私にも傍にいてくれる誰かがいるもかもしれないと思いたい。
「私には、あなたがたが必要なんです」
二人は力強く頷いた。
「いつでもお守りします、姫」
「ああ、全力で守る」
レイラは笑った。二人の青年も微笑む。ぎこちないながらも、黒髪の青年も。
銀髪の青年がおもむろに口を開いた。
「姫、我々使い魔は名前を持ちません。それは、仕える主が決まったときにその主から名前をいただくためなのです」
「それは、どうして?」
黒髪の青年が微かな笑顔を浮かべたまま、ため息交じりに銀髪の青年の言葉を継いだ。
「名を付けられることで俺たちはその名に縛られる。主に仕え、尽くすと誓うために俺たちは名を持たない」
銀髪の青年は真剣な眼差しでレイラを見つめる。
「姫、私たちに名を付けて欲しいのです」
レイラは戸惑う。名前をつけろと、そんな急に言われても。
「え~と、」考え、「……思いつきません」
「いいのです、レイラ様につけていただけるのなら、どんな名前でも」
何でもいいと言われてしまうと逆に困る。
やっぱり、名前というものには意味がこもっていないとだめだよなぁ、とレイラは頭を抱える。でも意味といっても…
レイラはひらめいた。名は体を表すという言葉もある。それなら、
銀髪の青年を見ながら、
銀髪、銀色、ギン、……ギンさん?
いやいやいやいや、とレイラは頭をぶんぶん振る。そんな犬じゃあるまいし。
いつまでもレイラが悩んでいると、黒髪の青年は少しだけ眉をひそめる。
「あまり深く考えるな。べつにこの国のような名前でも構わない」
この国の名前?
レイラは再びひらめいた。
漢字がある。
たくさんの意味を含むことば。同じ読み方でもさまざまな意味がある。そうだ、それなら考えやすいかもしれない。
今度は黒髪の青年を見つめる。
煌めき、光り、幸せであるように。煌、光、幸。
レイラは口を開く。
「あなたは、コウ」
青年たちは恭しく跪く。
コウは顔を上げ、レイラを見上げた。
「主に忠誠を誓う」
銀髪の青年を見つめ、
「あなたは、レイ」
零に、すべての可能性を秘めて。またその麗しい姿から、麗、と。
レイも顔を上げる。
「この身を尽くしてお守りいたします」
レイとコウは立ち上がった。
レイラは笑い、二人の使い魔を見上げた。
「よろしくお願いします、二人とも」
二人の使い魔は、しっかりと主を見つめ、頷いた。
と同時に頭上の蛍光灯の明かりが消える。
「あ」
二人の青年は頭上を見上げる。
蛍光灯が切れてしまった。
が、レイラの身長では脚立に乗ってぎりぎり届くか届かないかだ。それに高所恐怖症であるレイラはできればそんな真似はしたくなかった。
いつもならば下を見るな下を見るなと自分に念仏のように言い聞かせながら頑張るのだが、ここはひとつ、初仕事ということで。
レイラはもうすっかり日も沈んだ薄暗い部屋で、契約したばかりの二人の使い魔に頭を下げた。
「すみません、さっそくで悪いんですけど…蛍光灯、換えていただけませんか?」
薄暗くてよく見えないが、レイは首を傾げたようだった。
「けいこうとうとは、何ですか?」
レイラは結局蛍光灯の説明と換え方の伝授に、数十分を費やした。
*
風呂からあがり、レイラはひとりバルコニーで夜空を見上げていた。
月は満ち、仄かな青白い光を放っている。まるで心を奪われたかのように月を眺めていると、突然背後に気配が降り立った。
レイラは振り返る。
「……レイ、さん?」
ついさっき自分がつけたばかりの名を口にすると、レイは穏やかな微笑みを湛えて静かに一礼した。
「あまり夜風にあたらないように。お体が冷えてしまいます」
レイラは笑う。
「はい、気をつけます」
レイは物言いたげな微妙な顔をする。
「あの、別に敬語で話される必要はないのですよ? 私たちは使い魔、姫様の配下の者なのですから」
レイラは唸る。敬語をやめろといわれても、
「そういうの苦手で。……年上の方ですし」
それを聞いてレイは笑った。レイラは何がおかしいのか、とレイを見つめる。何かおかしいことでも言っただろうか。
いえ、とレイは首を振り、再び微笑む。
「年上、と申されましたが」指を口元に当てる。「私は魔界の時間で千年近く生きておりますから。年上扱いされたのは初めてですよ」
「千年!?」うわぁ、とレイラは感嘆した。「レイさんって、意外とおじいさんなんですね」
レイは吹き出す。
「ふふ、言われてみればそうですが」目尻に浮かんだ涙を拭い、「魔界とこの世界では時間というものの概念が根本的に違いますから。それに私は悪魔の中ではまだまだ若い方ですよ?」
ほら、とレイはレイラの手を取って自分の頬に当てた。
レイラは慌てて手を放す。
「そ、そそそそうですねっ」
「ですから姫様、敬語を使われなくても」
頷きながらレイラはひらめいた。
「あの、私も敬語使わないように努力します。だからレイさ、……レイも、その“姫様”っていうのをやめてくだ、くれない、かな」
しどろもどろに話しながらレイラはレイを見上げる。
レイは目を見開いていた。
「ええ? ではなんとお呼びすればよろしいのです?」
「名前で」
ふう、とレイはため息をついた。
無理なことを言っているのかもしれないが、レイラにとってはその呼び方ほど恥ずかしいものもない。できれば、というか絶対にやめてほしい。
そんな思いが通じたのか、しばしの沈黙の後レイは渋々頷いた。
「分かりました、努力いたしましょう。レイラ様」
様というのもやめてほしいのだが、まあそれは仕方ないと諦めるしかないだろう。
レイラは軽く微笑むと、再び月を見上げた。
レイは目元を和ませる。
「昨日お会いしたときとは、随分様子が変わられましたね」
レイラは苦笑した。たしかにそうだろう、昨日までの自分は決して笑うことなどしなかったし、人と進んで会話したりもしなかった。
「いろんなことが、ありすぎたから」
レイラは俯いた。思い出されるのは幼いころの記憶。
「……私、お母さんが行方不明になってから、あ、お母さんはモデルやってて、かなり有名だったから、失踪したとか、かなり報道されたの」
言葉を切り、レイの様子を横目で窺う。レイは黙って聞いていた。
レイラは続ける。
「それで、私のお父さんも私が小さい時に死んでしまったらしくて、よく覚えてないの。頼れるような親戚もいなかったし、というか知らなかったし。私はその時、独りになった。
周りの大人たちはお母さんは男と逃げたんだって言って、他にもひどいことを言われたりして。
それで私は思ったの。ああ、私は独りで生きていかなきゃならないんだって。それから私は人と関わることを止めた。目立つことも怖くなった。だから、“人と関わらない一匹狼で強い自分”を演じて、寂しくないって、ずっと自分をだましてた。でもそれが結局裏目に出たというか、目はつけられるし、嫌がらせはされるし……」まあ、自業自得なんだろうけどね、とレイラは自嘲する。
他人から見れば、自分はただお高くとまっているようにしか見えなかったのだろう。
レイラは一度息を吐く。
「でも、そんなこと関係なく私に関わろうとする人たちに会って、
正直馬鹿らしくなった。
まあ理由は結婚がどうだとかアレかもしれないけど、変な意地張って、意固地になって、……あの人たちを見てて、少しだけ羨ましかった。私もあんな風になれるかなって。
そしたら今度はレイとコウが私を守るって言ってくれた。
嬉しかったよ。私はここにいてもいいよって言ってもらえたみたいで。たとえそれが役目だって分かっても」
しばらくの沈黙。
レイラは急に恥ずかしさがこみあげてきて、照れ隠しに笑った。
「あはは、何言ってるんだろうね。……会ったばかりなのにね」
レイラはレイを見上げ、照れ隠しの笑みが引いていくのを感じた。
レイは、慈しむような優しい眼差しでレイラを見つめていた。
「役目だけではありません。私は、心からお守りしたいと思っています。
それは、敵からかもしれません。他の魔王からかもしれません。
ですが今は、あなたを“寂しさ”から守りたい」ね、とレイはレイラの手を取り、自分の頬に当てた。「笑ってください、レイラ様。私はあなたの笑顔が見たい。そんなに悲しい目を、なさらないで。これからはずっと私がそばにいて、お守りします」
レイラは気恥ずかしくなり、手を引いた。
レイがくすりと笑いをこぼし、ますます恥ずかしさがこみあげてきたレイラは、話をそらそうと試みる。
「あ、えーっと、あの、三王家の人たち、唇? がどうのって言ってたけど、」おいおいこの話題はますます恥ずかしいぞ、と思いながらもなんとなく引っ込みがつかなくなり、俯きながらもレイラは続けた。「あれって、どういう意味なのかな」
レイは思案顔で口元に手を当てた。そんな些細な動作でさえ、この麗しい美貌ですると様になる。
「昨日、大魔王となるためには託宣で定められた娘を妻にしなければならないと申し上げました」覚えておいでですか? と問われ頷くと、レイは満足そうに目を細めた。「結婚、というのは、魔界で式を挙げた上で、“誓約書”に署名することを指しますが、」レイは首を傾げてみせる。鋼色の銀髪が肩からこぼれ落ち、月明かりに煌めいた。「それよりも意味のあることがあるのですよ。……それは」
レイはレイラにずいっと顔を寄せ、自分の唇を指でなぞってみせる。
「口づけを、かわすこと」
めまいがした。
「選ばれた娘の口づけには特別な力が宿ります。大魔王は任期の五百年間死ぬことはありません。その妻と子供たちもね。それは、娘の力なのですよ。ですからまあ正直なところ、三王家の魔王の間では、唇を奪うという行為が実質の次期大魔王決定、ということに」
そうだったのか、とレイラは今更ながらに恐ろしくなった。あのときとかあのときとかあのときとか、うっかり奪われてしまっていたら今頃どうなってしまっていたのだろう。
レイは真っ青になったレイラの顔を覗き込み、安心させるようにレイラの頬を両手で包んだ。
「裏を返せば、唇さえ奪われなければ大魔王は決まらないというわけです。唇さえ守り切れば」まあ机上の空論ですが、とレイは呟く。「大丈夫、お守りしてみせます。あなたがそれを望む限り」
レイラはレイを見上げ、震える唇で言葉を紡いだ。
「でもそれって、うっかり奪われてしまったら、死ぬこともできずに、五百年間好きでもない相手と、」
レイはレイラの瞳を覗き込み、ふわりと笑う。
「……そうならないように、私がいます」
とそこで背後を顧みて底意地の悪い笑みを浮かべると、ぱっとレイラから離れる。
「そして、あの素直じゃない使い魔も」
柱の陰から、しまったという雰囲気が漂ってくる。
しばらくして決まり悪げに出てきたのは、不機嫌そうに眉を寄せたコウだった。
「コウ」
レイラが名前を呼ぶと、そっぽを向いていたコウは横目の視線だけ寄越し、しばしの沈黙の後何かを振り切るように息を吐き、宣言する。
「俺も、ま」
「ま?」
レイラは首を傾げた。
暗くてよくは見えなかったが、コウはどうやら赤面しているらしい。
綺麗な青味がかった黒髪をがしがしとかきむしったコウはもどかしそうに唇を噛んだ。
「だから、……守る。俺も」いや違う、とコウはレイラに向き直り、真剣な眼差しを向けた。「俺が守る」
声はだんだんと小さくなっていったが、レイラにはちゃんと聞こえた。
そのいかにも照れていると書いてあるような顔で明後日の方向を向いたコウに、レイラは笑う。
二人の使い魔は目を瞠った。
「ありがとう」
何度目かの感謝の言葉を口にしたレイラは、自分が笑っていることにも気づかずに、ただ二人を前に微笑む。
月は満ち、青白い光を放っていた。
その光はいつになく優しく、レイラを照らす。
二人の使い魔を、レイラはとても心強く思った。
*
レイラが眠りについた頃。
レイは、屋根の上に座って夜空を見上げていた。
この世界の空は美しい。晴れ渡る空はどこまでも澄み渡り、時に心を洗い流すほどの雄大な流れ。
不意に吹き抜けた強い風に煽られ、鋼色の銀髪が後ろに流れる。それを手で押さえながら、レイは仄かな光を放つ月を仰ぐ。
レイは目を細め、小さく息を吐いた。
自分が悪魔であり、罪に塗れた存在であるということさえ、この月が忘れさせてくれる気がした。
だがそれはあくまでも“気がする”というだけでしかないと、レイは十分に理解している。
消えはしないのだ。犯した罪も、この胸の痛みも。それは今でも燻っていて、どうしようもなくこの胸を焦がす。
この血色の赤い瞳は、その証。
罪に塗れたこの体が重くて仕方がない。いっそ捨ててしまいたいと思ったことは一度や二度では済まされない。だけど、それをしないのは――
レイは口元を歪めた。
しない、のではない。
できないのだ。
自嘲していると、違う、と心のどこかが否定する。
それは違うと。教えてもらっただろう? それが罪なら、これは罰だと。逃げるな、恐れるな、目を逸らすな、立ち向かえ。持てるものを捨てようとするのはただの傲慢な自己満足でしかない、と。だから、俺は―――
突然、背後に気配が降り立つ。
「何をしている、“シン”」
突然現れたコウに別段驚く様子も見せず、レイは振り返らないままぽつりと答えた。
「月をな、見ていた」
それを聞いたコウは何か言いたげな顔をしたが、結局何も言わないままレイの隣に立った。
レイは夜空を見上げたまま、そっと溜息をついた。
「私は姫に名前をいただいたんだ。せっかくだからそっちで呼んでくれ、コウ」
コウは視線をレイに向け、またすぐに戻す。やがて、
「……レイ、良かったのか、あんなことを言って」
レイはしばし考え、自嘲するように小さく笑う。
俯いたレイに、コウはさらに続ける。
「あの娘が三王家の誰かの花嫁にならない限りは、王族交代は行われない。誰のものにもならないなどと、そんなことできるはずが――」
コウは口をつぐむ。
レイが、いつもの穏やかさからは想像もできないような、冷たく鋭い視線で無表情にコウを見上げていた。
そのあまりの迫力に、戦い慣れしているコウですらなにも言えなくなり、身構えてしまう。
レイの顔に表情が戻り、いつものような微笑みを浮かべてコウを見る。
「正論だな」
コウは意識せず体の力を抜いた。気づかれないように息をつき、額に浮かんだ汗をそっと拭った。それほどまでに今のレイには圧倒されるような何かがあった。
レイがふふ、と笑みをこぼす。
「お前は名をいただいたといっても、どちらかというとロゼリウス家の使い魔だからな」夜空に視線を戻す。「だが私は違う。私は、レイラ様の使い魔だ」
コウは物言いたげな瞳でレイを見下ろしていたが、やがて短く嘆息すると身を翻した。
立ち止まったコウが小さく問う。
「約束、か?」
レイは否定し、強く断言した。
「いや、誓ったんだ」
コウはそれきり口を閉ざすと、何も言わずに夜の闇へと消えていった。
レイはひとり風を浴びながら、風に溶かすように小さく、小さく呟いた。
「必ず、守る」
それはまるで、誓いのように。
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