第2話
「ここより我らが手配している城下町の宿まで四半時ばかりと聞いてる。儂は先の関所で引っ掛かった後続の者を待って黒河の番所で改めを受けなければならない。時間がかかりそうだ。申し訳ないが我らより先にこの方を宿まで送り届けていただけないだろうか」
大膳達に破落戸どもを引き渡した後、もう良いかと帰ろうとすると初老の武士に声を掛けられた。その武士は田崎と名乗った。本多家の縁者である少年の護衛としての身分をあかしたが、それ以上の詳細は語ろうとしなかった。それを聞くのは大膳の役目であろう。大膳にどうするかと目顔で問うと、こちらからも少年を送り届けて欲しいと頼まれた。
では、と少年を促すと、田崎から離れることを不安には思わないのか、案外素直についてくる。抱えたり背負ったりするような年齢ではないが、やや振る舞いに心もとないところがある。手を取ってみたところ嫌がるそぶりも見せなかったので、そのまま手を引いて歩くことにした。子どもらしく柔らかな手で、固いところが一つもない手だった。
「刀を抜かずに相手を倒せるのですか」
番所で師範に頼まれていた包みを受け取って城下の街灯りの中に入った頃、ずっと黙っていた少年が口を開いた。なにか話そうと少し前から言葉を選んでいるようだったので、かえって修之輔も話しかける契機をつかみ損ねていたところだった。
「場合による。今回は相手がこちらを侮っていたので上手くいった。そもそも城下近くでむやみに刀を抜くのは禁じられている」
「鞘のまま太刀を振るうには特別の技量が必要でしょう。何かその技に名を付けておられますか」
言葉の使い方、選び方にこの少年の賢さが見えるようだった。声がわりの途中か、ときおり掠れるが案外しっかりしていて聞いて心地よい声音だった。
「沙鳴き、と名が付いている。この鞘と相手の太刀が擦れる時、川辺の砂浜に群れる千鳥が鳴く声に似た音がするというのが理由だが、名付けたのは俺ではない」
「さなき」
少年が音を確かめるように繰り返した。
これを鞘から抜かれていない剣と相手が見れば、油断が生まれる。しかし鞘をつけたままの刀剣は切れない代わりに重い打撃を相手に与える。捕縛するだけならそれで何とかなることが多い、そんなことを話しながら歩く道のりは、来た時よりも短く感じられた。
城下にある古い神社が見えてきた辺りで足を止め、田崎に聞いた宿はこの角の先、と教えると、少年は足を止めたまま歩き出そうとしない。何かあるのかと引いていた手を離すと、お願いがあるのです、と切り出された。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか。本日のお礼をしに、日を改めて伺いたいのです」
そう云われて、相手も自分も名を名乗らないまま手を繋いで歩いていたことに気がついた。
「秋生修之輔だ。城下の道場で師範代をしているので用事があればそちらに」
その修之輔の答えを聞いて、少年は俯きがちだった顔をぱっと上げた。
夜の灯りにその容姿が浮かび上がる。凛々しく整う眉に二重のはっきりとした目には睫毛の影がかかり、形よく紅く引き締まる唇はこの少年の血筋の良さと勝気な本質を現わしていた。
未だ幼さが残る丸みを帯びた顔の輪郭は、成長すれば清廉な青年の面差しになるだろうが、今は上気した頬が小動物のかわいらしさを思わせる。
「その道場に入門させていただけないでしょうか。私は」
少し言い澱む間があった。
「私は本多弘紀と申します」
だがすぐに少年はそう、名乗った。
まずは親か、身元を預かる者の依頼状を持ってくるよう申し伝えると、弘紀は何度も頷いた。最も重臣本多家の縁戚の者であるならば、こちらが入門の申し出を断ることができる筋ではなかった。宿の者に弘紀を預けて外に出た。
師範に明日、薬を渡す折に、新たな入門志願者がいることを伝えなければならないと思い、けれど厄介ごととは感じなかった。今さっき別れたばかりの弘紀の顔が思い出されて、胸の内に小さな灯がともったような、懐かしいような、そんな心地がしたのを修之輔は思い出した。
「修之輔様、支度が整いました」
弘紀がこちらを覗き込んでいるのにようやく気づいた。先ほど結わえてやった頭髪の束が尾のように揺れている。昨年に比べ幾分背も伸び顔立ちも大人びてきたが、首筋や腕の線にまだ柔らかいところがある。肩も腰もまだ修之輔に比べて薄く細いが、しっかりとした体のつくりは将来、頑健な体の土台になるだろう。
「ではまず素振りから」
その修之輔の指示で朝の稽古が始まった。
年少者の指導は昼前に終わる。武士の子弟たちは屋敷に戻って昼食を取った後は家人の手伝いをしたり、手習いをする。子どものうちから規律正しい生活をおくらせて文武両道を奨励する黒河藩の風紀を好ましいと感じる者も多いが、窮屈と思う者もまた多かった。
特に大人になる一歩手前の若者たちにとって息抜きとなるような場は限られており、道場は、そんな若者たちの鬱憤を晴らす場でもあった。
昼を過ぎると年長者が道場へ顔を見せるようになる。年少者のうちには修之輔に信奉する者もいるが、修之輔より二、三歳程度年下の彼等にとって修之輔は憧憬の相手ではない。隙あらば己の力が上であることを示したがる年ごろの若者達を相手にするのは、年少者の相手とは違った気苦労があった。
なかでも
その師範はこのところ藩の上役からの依頼で、城内の役職に就く者たちに古今の思想書の講義しに行くことが多くなり、また城内に行けば顔見知りから私宅に招かれて剣の稽古をしたりと、なにかと留守がちであった。修之輔が師範代を務めるこの頃は、利三をはじめとする数人の若者にますます増長が見られた。
利三たちは徒党を組んでやって来て、素振りなどせず、すぐに仲間内で打ち合いを始める。修之輔は特に教えることもないので放っておき、教えを求めるものに指導するのを優先していた。
「竹刀稽古だけとはまったくつまらない」
「いかにも、実戦につかえないカビの生えた稽古だ」
「太刀も振るえぬ腰抜けが教えているようではそれも仕方ないか」
「いずれ俺が道場を建てるぞ。こまいのを相手にせいぜい寺子屋でもやるんだな」
「いや、修之輔殿なら誰かの閨に忍べば役職を貰い放題では」
「おっとそれ以上はそなたの御役目が危ういな」
勝手な事ばかりを言ってはばからない利三らに眉を顰める者も多いが、表立って彼等を窘める者はいない。彼らが道場にやってくる時間が年少者の稽古の時間と被らないことがせめてもの救いではあった。
「いるか」
午後から降り出した雨が夜にみぞれになった翌朝、昼前にふらりと道場に大膳がやってきた。そろそろ本格的な冬がやってくる。
「役目が忙しくて、こっちにもなかなか顔を出せない。変わりはないかと思ってな」
今日の午前は稽古がない。修之輔が一人、道場で木刀を振っているところだった。
「特にこれと言って変わりはないが」
「そうか。最近、利三はどうだ。相変わらずか」
大膳によると彼等は城中でもなにかと評判が良くないという。師範が修之輔に稽古を任せて足繁く城中に通い講義を行っているのも、忠義や道徳に欠いた者が増えてきたからだとも言うが、そういう連中がまともに講義を聞くものだろうか。
「そういう者ばかり城内に増えてもいっこうに仕事が捗らない」
若手の取りまとめを任されている大膳にとっても頭の痛い問題のようだ。
「修之輔、仕官するつもりはないか。気心の知れたお前がいれば俺の仕事もかなりやりやすいのだが」
「仕官するつもりはない。剣を教える以外に俺が何かをできるとは思えない」
「そうか」
大膳はあっさり引く。以前から何回か繰り返されているやり取りだった。用事はこの後だろう。
「本多弘紀がここにきて、一年ぐらい経ったか」
「そうだな。なんだ、弘紀のことか」
「まあな。あいつは、どうだ」
どう、と言われても返答に困る。剣の腕前は年少者の中では最も秀でていて、だが無駄に元気で毎日転がり回っている、と答えた。大膳はふん、だかうむ、だか分からない音を鼻から出した。
「そのような顔で誰かのことを語る修之輔も珍しいな」
聞かれたから答えたまでだが、そういえば弘紀の話をするときは自然、笑みが出る。
「あの動きや言動を見聞きしていると可愛く思える。このあいだも」
続けようとする修之輔の言葉を遮って大膳が言った。
「その弘紀だが、あいつは本多様の縁者という話だよな。どうも該当する者がいないのだ」
「どういうことだ」
大膳の言葉の意を理解するための間が、一瞬、生じた。
「先日この家中の名簿を確認する仕事があったのだが、本多様の近しい縁者に藩の外に出た者はいない。弘紀自身はもちろん、親に当たる者が見当たらない」
「もっと前に遡るのではないか」
「あまりに遠い血縁なら、今、この領地内に入れることはありえない」
黒河が人の出入りに特に厳しいことはよく知られている。腕を組んで考える大膳に修之輔は一呼吸おいて言葉を選んだ。
「上の方々の考えは俺には分からないが、俺がここで見ている限り、弘紀に何か後ろ暗いことがあるようには見えない」
一年前、抜かれた刀に怯えていた弘紀の姿がよみがえる。道場に通い始めてしばらくは、ふとした折に動きが鈍くなる時があったが、今はそのような素振りは全くない。むしろ暗さが消えて、生来のものであろう明るさが増している。
「問題は無いということか」
「ああ」
それより、と修之輔は表情を少し緩めて、言葉を続けた。
「役目が忙しいとはいえ、このようにここに寄るぐらいの時間があるのなら稽古をしていってはどうだ。年かさの者の中には大膳と打ちたいと言う者が何人かいる」
「そうか。うん、まあ、そうだな。修之輔がそう言うなら、近い内に時間を作ってここにまた顔を出す」
「年が明ければ総稽古がある。肩を慣らしておいた方が良いぞ」
そうだな、今度来たときは稽古の相手を頼む、と言い残して大膳は持ち場に戻っていった。今戻らなければ昼飯を食いはぐれる時間だった。午後の稽古を終えた後も修之輔は日が暮れるまで一人で素振りを続け、いい加減道場の中が暗くなったところで道場の裏手、同じ敷地内にある自分の住居に戻った。
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