不登校JSと女子大学生の恋慕交じる平穏な日々
やまめ亥留鹿
1 出会い、ドキドキなJS
「あーもう! しね!」
空に向かって力の限り叫んで、外の空気を震わせるのは気持ちがいい。
気持ちがいいのだから、胸の奥にどうしようもなく鬱屈した感情が生まれたなら、それを声にして弾けさせなければ勿体ないというものだ。
まあ私の場合、冷静さと怒りの衝動がせめぎあった結果がコレなだけなのだが。
ベランダから室内を振り返る。
電源がついたままベッドに放置されたスマホが、夕暮れ時の薄暗い部屋の中で
ふいとそっぽを向き、手すりに肘をかけ、頬杖をつく。
柔らかな風が、正面から顔に吹き付けた。西の空にオレンジ色がじんわりと滲んでいる。
「今日も平和だなあ」
遠くの景色を眺めながら、今度は小声で呟いた。
つまるところ、私はスマホゲームにイラついていただけなのだ。
どうして私というやつはこうも情けないちっぽけな人間なのか。もっと落ち着いて、たおやかに事態を受け止めたいものだ。もういい大人なんだから、ね。
こうなる度に内省することを、今回も例外なく考える。
この反省は次に活かされることはない。経験上知っている。
と、その時だった。
マンションの隣の部屋とのベランダを仕切る左側の
続けて、
「お姉ちゃん、お口悪いよ」
幼く、それでいて、『鈴を転がすような』と形容することが実にしっくりくる声が聞こえた。
ちなみに、この私に妹と呼べるような家族は存在しない。私はれっきとしたひとりっ子だ。
お隣さんは二年くらい前に引っ越してきていて、そういえば、小学生の女の子が住んでいたんだっけ。ほとんど、というよりも全然顔を合わせたことはないけども。
なんてことを考えながら、衝立のおかげで視認できない女の子に向かって、私は応答してあげることにした。
「私はねえ、ここで叫ぶのが好きなの。遠い景色を眺めながら大声出すと気持ちいいよ」
少しの間があって、衝立の向こうからジリっと音がした。コンクリートと砂が擦れ合う、どこか心地のいい音。
「他の部屋の人に迷惑だよ。いつもいつもうるさいもん」
うーん、これはごもっとも過ぎて言い返す気力も起きないわ。
というかいつも聞いてたのね。あはは、恥ずかし。
「お姉ちゃん、なんで叫んでたの? 何か嫌なことでもあったの?」
「えっ? えーっとねえ、そういうわけじゃないけど」
「じゃあどうして叫んでたの?」
さすがに、ゲームでイライラして叫んでます、なんて小さい子に恥ずかしげもなく言えるはずがない。
さて、何と言おうか。
無言で考えを巡らしている間、女の子は静かに待ってくれていた。
演技っぽくため息をついてから、口を開く。
「ほら、うまくいかないことがあるとさ、モヤモヤーってして、胸の奥が気持ち悪くなるでしょ? それを無くしてあげないと、心は疲れちゃうのよ。だから私は叫ぶの」
「やっぱり、嫌なことがあったんだ」
うーん……まあ、そういうことにしておこう。
別に間違っちゃいないしね。
「お姉ちゃんは何歳なの?」
「んー? 十九歳だよ」
「わっ、大人だねえ」
私の返答に、女の子はあからさまに喜色を示した。
その反応がなんだか面白くて、私はわざとらしく偉ぶってみることにした。
「ふふん、そうよ、大人なのよ。だからもっと敬いなさい」
「うわあ、嫌な感じ。子どもみたい」
子どもみたいで悪かったな!
「お姉ちゃんは、大学生?」
「うん、そうだよ」
「ふーん……大学って、楽しい?」
女の子の問いに、思わず考え込む。
私の大学生活って、果たして楽しいのだろうか。
はて、はっきりと『楽しい』とか『充実してる』だなんて意識したことはない。
「……普通かな」
末に出たのは、そんな曖昧な、しょうもない答えだった。
「ふーん……友達いないの?」
「失礼な、ちゃんといますけど」
「でも、全然おうちから出てないよね」
「私はこのお部屋が大好きなの」
本当だよ。友達がいないから極力外出しないとかじゃないから。
「平日もおうちにいることあるし、大学生って暇なの?」
「大学生はねえ、とーっても忙しいのよ」
「……嘘つきがいる」
本当だもん! 今年まではフル単で頑張ってるんだから! 来年からは持て余す暇を楽しむぞ!
などと心の中で思った時、ふと違和感を覚えた。なぜこの女の子は、平日の私の動向を知っているのだろう。
何か口にしようとすると、先に女の子が言葉を続けた。
「私はね、友達いないよ」
胸の奥底をつんざくような感覚が、私を閉口させた。
しかしそんな感覚とは裏腹に、女の子の落ち着いたその声は、不思議と明るく感じた。
「私にはね、友達ってダメみたい。性格も考え方も周りと全然合わないし、無理して近づこうとしても、その無理してる私自身をね、馬鹿馬鹿しく思っちゃうの。結局、だったらもういいやって、私の方から離れちゃう」
「そう……寂しくない?」
「寂しいよ。寂しいからもう学校にも行けないの。学校に行ったらね、私だけがひとりきりなんだって、もっと強く実感しちゃうから」
何か言おうにも、思いつく言葉はすべて無責任な励ましばかりで、これなら無言を貫くほうがずっとマシだ。
「お姉ちゃんは、ひとりきりでいて、寂しくない?」
「むしろ好きかな」
「そっか。すごいなあ、大人だなあ」
「ふふ、もっと褒めて」
「はいはい」
すると、女の子は「よいしょ」と声を発した。今まで座っていて、立ち上がったのだろうか。
動く気配がして、不意に衝立の向こうの手すりに、白く細い指がかかったのが見えた。
そして、女の子がすうっと息を吸った。
「世の中のばーか!」
うむ、良い叫びだ。
腕を組んで、師匠のような気持ちで何度も頷く。……世の中のばかって何よ。
時間差でやってきた笑いを必死にこらえる。
そんな私をよそに、女の子が「えへへ」と可笑しそうに笑った。
「ほんとだ、気持ちいい」
「そうでしょうとも」
「でも、しねは良くないと思う」
「ごもっともで」
首を垂れて苦笑を漏らす。
目の端に、衝立と壁の隙間から女の子の白くて細い小さな手が出てきたのが見えた。
その手が私に向かってゆらゆらと揺れる。
「お姉ちゃん、お名前は?」
「
「ゆーかお姉ちゃん。私はねえ、
何気なく、私はななちゃんの小さな手に向かって腕を伸ばした。
腰をかがめて、ふと視線を下に向けた時、隙間からこちらを覗くななちゃんの丸くて大きな目に気が付いた。
思わず動きを止め、何か悪事でも目撃されたかのように
心臓が跳ね、私はおずおずと体勢を戻した。
ななちゃんがまばたきをする。長い睫毛が震えて、その奥の瞳が私の視線から逃げ出した。
同時に、ななちゃんもサッと手を引っこめた。
「……また明日ね、ゆーかお姉ちゃん」
そう言い残し、ななちゃんは急ぎ足で部屋の中へ戻っていった。
すぐに、大人の女性の声が聞こえた。ななちゃんのお母さんの声だ。お母さんの方とは、何度も顔を合わせている。綺麗で、愛想の良い人だ。とはいえ、廊下で出くわした際に挨拶を交わす程度だが。
私はまた、手すりに腕をかけ、遠くの景色に視線をとばした。
「また明日、か。また明日ね」
夜のとばりはすっかりおりきっていた。目に映る景色に浮かぶいくつもの人の営みを照らす明かりは、とても温かく思えた。
たった今の出来事に、私の心の奥がぽかぽかしているせいだろうか。
※※※※※※
私が住んでいるマンションのお隣には、なんだか面白いお姉ちゃんがいます。
よくわからないけど、ベランダでよく大きな声を出したり、独り言を呟いたりしているおかしな人です。
最初は、変な人だなーくらいにしか思っていませんでしたが、だんだんとお姉ちゃんの声を聞くのが毎日の楽しみになっていました。
不登校の私の、唯一と言ってもいいくらいの、人と関わる楽しみでした。
お姉ちゃんの声が聞こえた日は胸が高鳴るし、聞こえなかった日はひどく落ち込みます。
それくらい、私の中で大きな存在になっていました。
そして今日、私はついにお姉ちゃんに声をかけてしまいました。
ずっと勇気を出せなかったけど、ついに声をかけることができました。
少しの時間だったけど、お話ができて嬉しかった。
「ゆーかお姉ちゃんかあ……」
呟きながら、さっきのことを思い返します。
壁の隙間から覗いたお姉ちゃんの姿。これまで何度かこっそり見てきたけど、あんなに近くで、しかも目が合ったのは初めてのことで、すごくすごーくドキドキしました。
っていうか、
「うー、今もドキドキするよー、なんでー」
胸の奥がキューっとなる。変な感じ。
ベッドにうつ伏せになって両足をバタつかせても、一向におさまりません。
誰かと関わって、こんな変な感じを覚えたのは初めてだ。
ゆーかお姉ちゃんは不思議な人だなあ。
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