九人目 九尾狐

 前にチラリと話したと思うがうちの保険医は九尾狐だ。

 横浜ヨーコという巫山戯ふざけた名前。

 名前だけではなく性格もフザケている。

 おっとりしていると言えば聞こえは良いが神様の悪戯としか思えない冗談みたいな目に遭う。誰かに罠を仕掛けられているんじゃないかと疑わしくなる程自損事故(世間ではそれを災難と言う)に遭う。

 これが自然界に生きる狐ならとっくに猟師の罠にヤラれてお陀仏だろう。

 それでも本人はいつも本気だから参ってしまう。

 「鬼倒く〜ん。」

 長めの白衣を踊らせながら彼女が駆け寄って来た。

 ピンクが入った茶色い髪の毛に色白、少し釣り上がっているのにボンヤリ視える目元。

 いつも笑みを浮かべている。

 「はい、なんですか?何を何処にしまったか判らない?高い棚の物を取って欲しい?ベッドメイクが出来ない?

 今日の用事はなんですか?」

 彼女はウフフフと楽しそうに笑って俺の肩を付いた。

 「そんな難しいお願いしないわよ〜。

 包帯が巻けないの〜。」

 両手を合わせて、「お願い〜。」と言ってくる。

 こんな調子だ。

 人間を騙すとか、人間を喰らうとか、そう言う伝説からは最も遠い存在に感じるヨーコ先生。

 どうして保険医になったのか?尋ねた時の

「九尾狐が人間になる為には1000人の心臓を食べると言われているの〜。なら、私は1000人の心臓を助けようと思って〜。」と言う回答が真っ直ぐで、愛しさを感じた。

 だが、1000人の心臓を助けたかったのなら心臓外科医を目指すべきだったのではないか…というこの方向性のズレも又先生らしい。

 

 保健室には先生が大切にしている植物が沢山ある。開いている窓から心地良い風が吹いて緑が揺れる。

 青々しい匂いが気持ち良い。

 「これ〜、面倒くさくて〜。」

 使用された残りの包帯がグチャグチャに絡まり一つの籠の中に放置されていた。

 「だから、包帯の残りまでなんで伸ばすんですか?巻いてある状態のまま置いて置けば良いって前も言いましたよね?」

 少し苛立ちを表しながら包帯の先を探る。

 「『前も言った』って言わないでぇ〜。

 言われたけど〜、転がっちゃうんだもん〜。包帯を巻いてあげてる時にコロコロコロ〜って行っちゃったら、巻いてあげてるのを止めて、転がった包帯を止めに行く方が良いか、先に包帯を巻いてあげてる方が良いか…包帯を巻いてあげる方が正しい〜。

 ねぇ?だからコロコロコロ〜は後回しになるの〜。」

 俺の前に跪いて両腕をクルクル回して、「コロコロコロ」を表現するほんわか狐を薄い眼で見ながら包帯の一つを巻いていく。

 「だけど本当〜助かってるの〜。

 鬼倒くんが来てくれて〜。あんまりキチンとお話してくれる生徒が居ないんだもの〜。」

 先生のテンポ…と言うかワールドは眠くなる。

 「生徒が怒り出すんですか?」

 一つ、包帯がまとまった。もう一つを取り出すには絡まりを解す必要がありそうだ。

 「私と話してると〜面倒くさくなるんですって〜。」

 そうだろうな。俺だってそうだ。

 「そういう年頃です。」

 (…かどうかは知らないが。)

 「困る〜。用事頼みたいのに〜。」

 「保健室を利用する生徒の目的は先生に用事頼まれる為じゃなく、怪我や病気、教室に居たくないからでしょ?

 『用事頼めない』じゃないですよ!?」

 包帯が彼方此方で結ばれて大混雑も良い所だ。

 知恵の輪を解く様に一つ一つ引き抜いていく。

 「怒らないでぇ〜。鬼倒くんの悪いところ〜。」

 「俺、割と気長ですっ!」

 やっと一本抜けそうだ。

 「最近鬼倒くんをなかなか捕まえられなくて〜困ってたのよ〜。」

 最近の俺は大守さんや花園先輩に振り回されて昼休みですら一人で過ごす事が出来なかった。

 「今日は〜、貯めた用事を全部お願いし〜ちゃお〜!」

 「包帯巻くだけって言ったじゃないですか!?」

 このスクランブル交差点の混雑解消ですらこんなに手間が掛かるのに冗談じゃない。

 嬉しそうに両手を打ち先生が棚の一番下の段にある大きなタンクに手を掛けて

 「よいしょ〜。」

 とそのまま倒れていった。

 「何やってるんですか!?」

 先生を助け起こそうと脇に手を差し込む。

 「あ〜〜〜〜〜〜!!!

 鬼倒くん!急にいなくなったと思ったら保険の先生に何イヤラシイ事してんのよ!!」

 背後から奇声。

 振り返ると真っ赤になった大守さんが此方を指さしている。

 「簡便してくれよ…。」

 面倒事に面倒事が重なる。こんな最悪な事はない。

 

 「大守さんはハーブティーで良い〜?」

 「はいっ!」

 先生はウキウキと紙コップ(検尿用じゃありませんように。)に熱湯を注ぐ。

 「先生の手伝いに来たならそう言いなさいよ!」

 大守さんはブツブツ零しながら包帯を巻いていく。

 「こんな事しに出たんじゃないよ!コーヒーを買いに出たら先生に捕まったんだ。」

 業務用の消毒液を小さな容器に移していく。

 「助かるわぁ〜!鬼倒くん以外にも用事頼まれてくれる生徒が居てくれるなんて〜。

 今年の一年生は優等生揃いね〜。」

 空気を読まないヨーコ先生だけは幸せそうだ。

 「先生って狐ですよね?」

 大守さんの言葉に、紙コップを持ってきたヨーコ先生は

 「九尾よぉ〜。狐とはちょっと三段階位違うの〜。」

 大守さんのオデコを突いた。

 「きっ気付いてましたしっ!

 九尾の方が狐より香りに品があるんですっ!その違い位ちゃんと判ってますから!」

 負けず嫌いの大守さんは先生の言葉を真に受け真正面から向かっていった。

 俺は言い合うつもりは更々無い。

 疲れるだけだ。

 業務用の消毒液を容器を棚に戻して引戸を閉める。

 「んまぁ〜あ!そうなのぉ〜?知らなかったぁ〜!教えてくれてありがとう〜、なんてお利口さんなのかしらぁ〜!

 こんな優等生見た事無いわぁ〜!

 大守さん、本当に貴女、凄い娘なのねぇ〜!」

 ヨーコ先生は大袈裟な程手を叩いて大守さんに抱き着いた。

 大守さんは見る見る間に顔を赤く染め、先生の腕の中で言葉にならない声で「あうあう」繰り返した。

 「鬼倒くんはコーヒーで良いんでしょ〜?

 折角、先生オススメのハーブティーなのにぃ、鬼倒くん、コーヒー派だからつまらないわぁ〜。」

 薄い紙コップは触れるのも口を付けるのも熱い。

 「あ、美味しい!」

 大守さんが小さく漏らした。

 「まぁ〜あ!大守さんは良い子、良い子〜。そう言ってくれて嬉しいわぁ〜。」

 ヨーコ先生は大守さんのオデコにオデコを当てて頭を撫でている。

 大守さんはいつもの強気はどこへやら。

 真っ赤になったまま脚の間に両手を突っ込み肩を尖らせている。

 「先生はたまにはお社へ帰られるんですか?」

 話すネタも無いのでなんとなく尋ねてみた。

 先生は眉をハの字に下げて

 「私は落ちこぼれだもの〜。

 社の門すら開いて貰えないわよぉ〜。

 一つでも術が使えるようになる様言われたけど〜私の方向性と異なるんだものぉ〜。」

 九尾の術となると人を騙すとか化かすとかそういう類だろうか。

 「先生の方向性って?」

 大守さんの至極真っ当な質問に思わず身を乗り出した。

 「ウフフフフフ〜、私〜、保母さんになりたいのぉ〜。」

 俺と大守さんの動きが同時に止まった。

 「先生、それは人間界でのゆくゆくの夢、将来の話…でしょうか?」

 九尾としての生き方ではなく…?

 「子供に優しい九尾を目指したいでぇ〜す。」

 (方向性…と言うより質問と答が噛み合ってない気がするが…まぁ、この際このヒトのレベルではソレを理解する事も難しいとして…。)

 「子供に懐かれる術を身に着ける…とか?」

 今日の大守さんは冴えている。

 褒めて伸びるタイプらしい。

 「じゃあ、うち来ます?うち、まだ幼い妹が居ますよ?」

 実は只単に桃果を自慢したいだけだったりする。仕方無い。桃果の可愛さはワールドニュースで世界中にアピールして欲しい位なのだから。

 「えぇえぇ〜、年頃の男性のお家にお呼ばれされてしまったわぁ〜。」

 明らかに誤解を含んだ、先生の照れに、

 「妹見せたいダケですからね?」

 ツッコんでおいた。

 「じゃあ、私も行く!前に鬼倒くん、私に皆でご飯食べる楽しさ教えたいって言ってたじゃない?」

 「え?」

 そうだっけ?

 「あらぁ〜、私を家に招いておきながら、大守さんをご家族に紹介しようとしてたなんてぇ〜、鬼倒くんって案外タラシなのねぇ〜。」

 身に覚えの無い批難を受けながら居心地悪くコーヒーを一気に煽る。

 「大守さん、試験中だけど勉強しなくて大丈夫?」

 「丸一日勉強しないと点が取れない程私馬鹿じゃないわよっ!」

 いつもの大守さんが戻ってきた。

 「先生はまだ勤務中でしょう?」

 生徒が帰宅した後、保険医が何をするかは知らないが…。

 「それなら大丈夫〜。」

 先生は白衣を脱ぎ捨て、姿見の前に立つ。

 白衣を脱ぐと先生が意外にグラマラスな事に驚いた。

 少し高めのヒールとタイトスカートで大人な女性の雰囲気が出ている。

 先生は姿見に自分を映すと、ゆっくり鏡から退いた。

 姿見には先生の姿が映ったまま。

 やがてソレが鏡の外に出てきた。

 「先生!凄い事出来るじゃないですか!?」

 大守さんは手を叩いて大賛辞を送った。

 しかし、先生はもう一人の自分に白衣を着せながら

 「消し方が〜判らなくて〜、毎回実家に送るの〜。」

 やっぱり先生だな…と思わさせる発言をした。

 「実家でどうなってると思う?」

 大守さんが小声で尋ねてきた。

 「即ゴミ捨て場行きだろ…。」

 「私はストレス発散のパンチングマシンになってると思う…。」

 どちらにしてもお気の毒に…。


 最寄りの駅に降り立つ。

 「静かな所ねぇ〜。」

 先生は両腕を開いて豊満な胸を押しげも無く晒した。

 「もうすぐお昼だし、なんか買って行こうか?」

 大守さんって思っていたより気遣い屋なんだな…と思う。

 「気にする事ないよ。大家族だから飯は大量に造ってあるから。

 あ、でも女性を二人も連れて帰ったら母が驚いたらいけないから連絡だけさせて?」

 スマホを取り出す。

 「鬼倒くんってぇ〜家族想いって言うか〜、ちょっとマザコンの気があると思わない〜?」

 「想います〜!気を抜くと『お母さん』って言うんですよ?」

 二人の筒抜けの会話を拳を握りながら聞き流す事にした。

 「あ、母さん?

 今、駅なんだけど前、連れて行った大守さんと、学校の女性の先生連れて帰っても良い?」

 『え!?どうしたの?何かやったの?』

 母の焦りの声。

 「違う!違う!」

 『妊娠させたとか、怪我させたとかじゃないわよね?あ!』

 『も、も、も、も、も、も、も、桃次郎!!!オマエいつ人様を妊娠させられる様になったんだ?

 言えよ!赤飯炊かなきゃなんねぇだろ?』

 あ〜…面倒くさい人、出てきた…。

 二人を振り返ると俺のマザコン説で盛り上がりニヤニヤしていた。こんな楽しそうな二人に「やっぱり連れて行きたくない」とも言えず、唯、「俺の親父は阿呆だから…。」を念仏の様に刷り込んだ。

 家の前に両親揃って立っている。

 「どうも始めまして!私、桃次郎の母、鬼倒桃姫と申します。」

 母は深々と頭を下げた。

 親父は先生に手を差出しながら

 「どうも、鬼倒桃次郎の父…ウッッッッッオゥエエエエエエエエエエ!!!」

 も、突然嘔吐した。

 「くっっさっっっ!何?イタチ?キツネ?タヌキ?すっげーーークセェ!!この小娘なんて比じゃねぇ!オォォォエェェェェェ!」

 そう言っては俺達を背に嘔吐を繰り返す。

 「うちの桃次郎が何か失礼致しましたでしょうか?」

 (お母さん…俺はアンタの旦那程失礼をした事無いよ。)

 不安気に尋ねる母の向かいでいつもの様にほんわか笑う先生の笑顔がいつもとは質が違うのを読み取った。

 「この先生は九尾狐。」

 鼻から口から目からあらゆる汁を垂れ流した親父と、母が二人で顔を見合わせた。

 

 「まぁ、私ったら早合点してしまって…ごめんなさいね。」

 縁側に小さなテーブルを置いて(何故縁側か、親父が食卓で嘔吐しない為それ一択。)その向こうで微笑う母。

 「そ〜だよ、オマエ、妊娠とか言うか…オォォオエェエッ!父ちゃんてっきり…ウォォオォォォオェェェェエッ。」

 親父は何度もえづきながらも其処から離れようとしない。

 「パパ、私、お鍋掛けっぱなしかもしれないわ。ちょっとだけ見てきて頂けないかしら。」

 肩を震わせながらえづく親父に母はそっと声を掛けた。

 「わがった…。いっでぐる。」

 親父の背中が見えなくなるや、母は先生に深々と頭を下げた。

 「大変失礼致しました。…言い訳にはなりますが夫は鼻が利きますもので…本当に無礼をお許しください。」

 先生の笑顔がやっといつものものになる。

 「良いんですぅ〜。よく、獣クサイとか、洗濯物の生乾きのニオイがするとか山でも言われてましたからぁ〜。」

 (山でも?それじゃ…狐無関係で先生の衛生面の問題なんじゃ…。)

 「実は私ぃ〜、小さい子が大好きで大好きで〜、そのお話を致しましたら〜、鬼倒くんが是非うちの妹の面倒を見て欲しいと言ってくださいましたもので〜ぇ。」

 先生は両手を組んで夢心地の様にウットリと口にした。

 「そうでしたか。少し、お待ちくださいね。」

 母が立ち上がると、息を止めていたように大守さんがプハーッと息を吐いた。

 「相変わらずアンタのお母さん、圧が凄い…。」

 「そうなの?あんまりヨーコ先生と変わらないよ?結構母親、抜けててポンコツな所あるから。」

 親父に言わせればソコが堪らないんだそうな。

 「お茶は熱いンと冷たいンどっちが良い?」

 いつもの様子で親父はドスドスと急須と麦茶の容器を持って現れた。

 「よぉ!獣臭娘!オエェッ…相変わらずアンタからは色んなあやかしのウオェッ…ニオイがすンな?ハァハァ…いい加減にしねぇとオォォエェッ…駄目だ…もう吐くモンねぇ…胃液上がってきそう…反逆されるぜ?」

 親父は大守さんを震える指先で指差した。

 頭にタオルを巻いて角は隠しているものの大守さんやヨーコ先生には既に正体はバレている。

 ゼェゼェ肩で息をしながら胡座をかいて大守さんに向き合う。

 「お嬢ちゃん…アンタ…オゥッ…そんなにニオイばら撒いて…オゥッ…アンタ、自分の身に危険が及んだ時の対処は出来てンのか……ダメだ!!オォォォォエェェェッ!」

 (折角、格好いい事言おうとしたのに決まらない残念な親父。)

 母が大きなお盆に料理を載せてやって来た。

 両手には割箸。

 「桃果、ただいま!

 お手伝いしてくれるの?」

 桃果は恥ずかしそうに母の後ろでモジモジ始めた。

 「大した物はありませんが…。」

 鮭のチーズ焼きの横に揚げじゃがとニンジンシリシリ。トマトと生ハムのマリネを見て、もうそんな時期かぁ…と思う。

 ご飯では無く塩むすび。きっと朝、親父に仕事があり、母なりに気を使ったのだろう。 

 「桃果、ヨーコ先生にご挨拶は?」

 母に言われたが桃果は母の背中に回ったままだ。

 「はじめましてって言わなきゃ。」

 母に頭を撫でられ親父と母の間に身体をねじ込みながら、

 「でも〜、でも…もは…はっかちぃの。」

 呟いた。

 出た!!桃果オモカワ語録「はっかちぃ」!!!恥ずかしいの事だ。

 俺は堪らなくなって両手で顔を覆い両足をバタつかせた。

 「桃果は可愛いの最上級だからにいにはヨーコ先生に自慢したかったんだ!!でもはっかちかったのか?はっかちがる桃果は特別可愛い!!にいにの所においでっ!抱っこしたげるから!」

 桃果が駆け寄って俺の膝に飛び乗る。

 頬を親指と人差し指でムニムニしながら

 「はっかちかったらずーっとにいにのお膝に居たら良いよ!」

 可愛さを遺憾なく堪能した。

 「鬼倒くんって〜マザコンって言うより〜ファミリーコンプレックス、ファミコンなのねぇ〜。」

 ヨーコ先生がこっそり大守さんに言ったのが聞こえた。

 「そうなんですよ。コイツ、ちょっと格好いいとか思ってただけにめちゃくちゃ残念。唯のイケメンなだけのイタい奴になってますからね。」  

 イタいなんて失敬な…。俺の心は桃果で溢れかえっているだけだ。

 其処まで考えてふと一人の寂しそうに微笑う孤独な従姉妹、桃香を思い出した。

 自分の桃果への愛情は強過ぎる事は確かだが、自分がシスコンじゃないと言う証明の一つだ。

 「可愛いモノに罪は無いよ。」

 なんて綺麗事を口にして誤魔化す。

 「桃果ちゃんの好きな物はなぁに〜?」

 先生は桃果に気に入られようと積極的に話し掛け始めた。俺の膝の上で俺の鮭のチーズ焼きを頬張っていた桃果が

 「もははもう若くないかや…キヤキヤの石をあちゅめてぅの。」

 と言った。

 そう言えば、プラスチックみたいな軽い石が家の彼方此方に落ちていて、時々親父が踏んで叫んでる事がある。

 ヨーコ先生は右手を広げてギュッと握って手首を回転させると掌を広げて見せた。  

 其処にはピンクの石。

 「わぁ〜しごい!」

 桃果が俺の膝から降りようとしたので俺も負けじと

 「あ〜ん、あ〜ん。」

 食で釣る。

 今の俺には桃果を留めるだけのアイテムが無い!

 先生はもう一度、手を握って手首を回転させ、又、掌を広げた。

 今度はピンクとブルーの石が二つ。

 桃果は奇声を上げてその場で俺の膝の上から跳び上がった。眉間に桃果の角が刺さった。

 「痛〜っっっ!」

 俯く俺に親父が

 「バチが当たってやんの〜!オゥッざまぁエェェェエッ…。」

 えづきながら馬鹿にしてきた。

 親父はちょっとずつ俺達から距離を取り、居間から俺達を眺めている。こんな姿は無職のオッサンの呑気な一日の様子みたいで見苦しい。

  「桃果ちゃん、お手手貸して?」

 そう言われるとあれだけ「はっかちがっていた」桃果は先生の所まですっ飛んで行って両手を出した。

 先生が自分の両手を桃果の掌に被せて、掌を広げた時には透明や紫、黄色や緑、色んな色の石が桃果の掌から零れ落ちた。

 「しごい!かか!どーしお!とまなない!!とと!たしゅけて!」

 母は感心して手を叩いている。

 親父は何を思ったのか蜜柑の皮を桃果の手の下にあてがった。

 「それは流石に無理だろ。」

 「アハハ、パパってば!」

 「ホント、父親としては駄目な男ね…。」

 蜜柑の皮を揺らしながら落ちていく彩りのプラスチック達。それを嬉しそうに両手で抱えようと必死になる桃果に飛び付きたくなる。

 「アハハ、凄いな桃果、お金持ち…ウオエェェェェェッ」

 ヨーコ先生も嬉しそうだ。

 すっかり懐いた桃果が俺の膝に戻る事は無く、桃果はヨーコ先生からご飯を分けて貰っている。

 「良く噛んで〜。カミカミカミって30回はしなきゃ〜いけないのよぉ?歯と歯がごっつんこ〜ってなるでしょお〜?」

 桃果が咀嚼しながら笑顔で頷く。

 咀嚼する桃果も可愛い!笑顔の桃果も可愛い!唯、その笑顔の先に居るのが俺じゃないのが許せない…。

 「鮭とチーズって合うんだぁ〜。」

 大守さんが感心した様に呟く。

 「合うわよ。これにレモンを搾っても美味しいし、軽く一味を振っても美味しいんだから。高いから普段は鮭なんて食べられないんだけど先日、お客様がくださったのよ。」

 うちが子沢山で親父が元無職なのを知っている近所のお年寄りがこうやって親切に何かとしてくれる。お返しに親父や母が近所の掃除をしたり見廻りをしたり、買い物代行をして持ちつ持たれつの関係を保っている。

 これらは鬼ノ国の難有い教の賜物だ。

 桃果はすっかりヨーコ先生にベッタリだ。

 「ヨーコてんて〜!」

 と絵本の朗読を催促したり母から教わったのだろう童謡を一緒に歌って踊れとヨーコ先生に強要した。

 桃果は「人魚姫」の絵本がお気に入りでいつも母にせがんでいる。俺や親父にはせがまない。俺も親父も人魚姫の話の良さが判らないからだ。凄く好きになった人を置いて一人去ってしまう哀しきヒロインにどうしても同調してあげられない。鶴女房も然り、だ。

 親父なんて初めて鶴女房を読んだ時、「この女は何でこんなに愛してくれた男を置いて去っていけるんだ!!」と泣きながら語った。我が家の「読んではいけないおとぎ話」の一冊だ。「桃太郎」にだって「お供が凶暴過ぎる!」とか「爺ちゃんと婆ちゃんへのお礼がしたけりゃ肩でも揉んどけ!」とか散々文句を垂れたがそんな人が身内、と言う「身内」文句に今は軽く自慢したりもしている。その内、「クラブ鶴姫」とかに行って鶴女房の子孫から鶴女房の本音でも聞けば考えもちっとは変わるだろう。親父はそういう易い男だ。但し、母に口を利いてもらえない上、寝室が別、と言う罰を受ける勇気があればの話だ。そんな勇気、ある訳ない親父のせいで可哀想に俺の弟や妹は「鶴女房」を知らない。(お礼はお爺さんお婆さんへの「鶴の恩返し」ならオッケーみたいだが。)この話にツーパターン在って良かった、と思った瞬間だ。

 親父は人魚姫の表紙を見るや眼を吊り上げ、字の通り眼の色を変えて

 「そんな『この世で最も不幸な話』は読んじゃ駄目って言ったでしょ!?それなら『シンデレラ』にしなさいっ!!」

 声を上げた。(大人気ない…。)

 「桃太郎くんは私が耳を塞いでいてあげる。」

 母がそう言うと親父は畳を滑る様に走ってきて母の膝の上に頭を乗せた。

 「鬼倒くんの家が変わってるの?それとも鬼が変わってるの?」

 大守さんの疑問は最もだ。

 「俺も知りたい所だよ…。」

 一番他意の無い言葉を選んだ。

 ヨーコ先生の声は静かな森で流れるせせらぎのようなゆっくりと落ち着いた声で、人の緊張を簡単に解せる効果があった。

 いつもは面倒な用事ばかりを頼んでくるので苛々苛々対応してしまっていたがそれをとても勿体なく感じる様な穏やかさがあった。

 親父はえづき疲れたのか先生の声のお陰か人前も憚らず母の膝の上で寝息を立て始めた。

 黙って親父の頭を撫でていた母が

 「私に、何か言いたそうね?」

 大守さんに微笑みかけた。

 言い当てられた事に多少の居心地の悪さを感じながら、大守さんは母の機嫌を伺う様に上目遣いに

 「どーしてあやかしと一緒になったんですか?」

 そう呟いた。

 母はゆっくり微笑う。

 「私が一緒になったのはあやかしじゃないわ。桃太郎くんよ。」

 親父は変わらず阿呆面晒して眠っている。

 「私達が悩んでる違いと言えば『生きる長さ』かな。」

 母が寂しそうに微笑う。

 「桃太郎くんはとても優しいヒトなの。

 困ってる人を今迄沢山助けてきた。人間との違いで苦しんだ事も沢山あるでしょうけどそれでも私の前では笑ってくれてるの。

 そんな彼が唯一泣いたのは、自分はいつまでも若いままなのに私の方が年老いて先に死んでしまう。それからどうやって生きていけばいいんだって事。だからうちは子沢山なの。子供が彼の生きる希望だから。

 ねぇ、大守さん、『人と違う』と言う事はそんなに大きな問題じゃないと思って欲しいの。

 あやかしだって、好きであやかしとして生まれて来た訳ではないんだから。」

 ギャルになりたい慈、生真面目な和心くん、保母さんになりたいヨーコ先生、寂しがりの桃香…皆何処かズレてて愛しい。

 「でも…私は私の家をキチンと立て直したい!陰陽師として立派にやっていきたい!」

 母は大守さんの手に手を重ねた。

 「家を継ぎたい、立て直したいって言うのは素晴らしい事だわ。貴女は貴女の夢を貫けば良いのよ。誰かを傷付ける為じゃなく、誰かを護る為にね。

 その芯の部分をしっかり持っていれば貴女はきっと大丈夫!」

 母は明るく大守さんに微笑み掛ける。

 俺が大守さんに見て欲しかった母の強さ。

 俺も誇らしい。

 大守さんは恥ずかしそうに俯いてしまった。

 大守さんの中で何かが変われば良い。

 ヨーコ先生にひたすら遊んで貰って、桃果が眼を擦り始めた。

 「眠たくなってきちゃったのかしら。桃果、おいで。」

 母が両手を広げるも、桃果はグズッて母の所に行かない。

 先生の腕を掴んで指を吸い始めた。

 「まぁ、珍しい事もあるのねぇ!」

 先生にはきっとヒーリング効果があるのだ。

 先生は桃果を抱っこすると背中をトントンと叩き、身体を左右に振り始めた。

 「ねむれよい子よ〜。庭や牧場に〜鳥も羊も〜みんな眠れば〜……」

 先生の、シャンパングラスが触れ合うような心地良い高音の唄声に聞き惚れた。

 綺麗に澄んだソプラノ。

 胸の中でウワッと音が広がる様な感動を受けた。

 目蓋を閉じて聴き惚れた。

 頭の中に先生の歌声が回る。

 どうか出ていかないで。せめて俺の心が浄化される迄は…。そう思うと呼吸すら惜しくなった。


 やっと重たい目蓋を開けるも辺りは真っ暗。辺りを探るも真っ暗で何も見えない。

 どう言う事だ?太陽が滅んだのか!?頭はスッカリパニックになったがズボンのポケットからスマホを見付けて「時間確認」と言う冷静な行動がやっと取れた。

 0:35、表示を見て我が目を疑い締まっている雨戸に手を掛け少し空かした。

 やはり真っ暗。しかも恐ろしい程静かだ。

 机の角に足をぶつけたり慌てながら漸く電気を点けると大の字になって眠る親父の姿だけがいつもの米と酒の並ぶ座敷に転がっていた。

 「マジかよ…。」

 俺はこの日初めてテスト前日にしてほぼ何もしなかった経験をした。

 先生の睡眠誘導歌に流されるまま眠ってしまっていた。親父然り。

 ガーガー眠る親父のオデコを叩くと「フガッ」となったがそれでも眼は覚まさなかった。

 テストの出来を語るなら俺の桃果が俺にとってどれだけ大切かを語る方が意義があるし語りたい。

 親父はあれだけ先生の居た座敷で朝までガーガー寝てた癖に、その夜から家の中で飯が喰えなくなった。中庭にキャンプ用のテーブルを置いて独りで喰っている。

 親父曰く「獣クサイ」のだと言う…。「クサイ、クサイ」とウルサイ親父に桃士と桃美が「父ちゃんも大概臭いよ?」と返した。

 「匂いの質が違うの!俺の匂いは男の匂い!九尾の匂いはイタチの小便の匂い!」

 「そんな事無いって。同じ様な匂いだよ。獣臭い。」

 「オイこら!父ちゃんに向かって獣クセェってなんだ!?」

 「桃太郎くん、お代わり如何?。」

 「あっ、いただきます!桃姫さんっ。」

 今夜はすき焼き。

 〆のうどんがまた旨い。

 「桃太郎くんも沢山食べてねっ!」

 母が親父の所にお代わりの飯とすき焼きの入った大鉢の乗った盆を届けに行く。

 「有難うございます!桃姫さん!でも、出来れば白滝と豆腐ばっかじゃなくて俺にも肉欲しいなっ。」  

 鉢の中身を知って俺と桃士と桃恵は大笑いした。

 「桃太郎くん、豆腐は良質なタンパク源になるのよっ!」

 母が中庭に向かって声を掛けると、親父は「ヤッホーイ!!」

 と奇声を上げた。

 「先生に失礼言った事、そろそろ許してあげる?」

 母に尋ねられたので俺は当たり前の様に首を横に振った。

 「親父が『臭い』って傷付けた女性は二人目なのに許される訳ないじゃん。」

 母が自分の分の肉を親父に取ってあるのは知っている。それでも親父にはたまには自分の言う事が悪いせいで誰かを傷付けた、という事実を知って反省してもらわなければ気が治まらない。

 「桃姫さ〜ん!良質なタンパク質お代わり〜!」

 「ハァイ、今行きます〜。」

 いつもと何ら変わらぬうるさいながらも楽しい我が家…。やはり飯は大勢で喰った方が旨い。幾度となく繰り返し感じた事を又、再確認した。

 



 

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