280 束の間の終戦
何故?
どうして?
いつから?
そんな疑問が脳裏を駆け巡る。
それと同時に。
全細胞が凍り付くような恐怖が体中を駆け巡る。
それほどまでに銀髪はオレにとって恐怖の対象だ。
だがそれらの感情を全て飲み下し、一つの命令を発する。
「全軍撤退!」
それ以外に取るべき選択肢はない。あれには勝てない。勝てないなら逃げるしかない。
だが、翼の様子がおかしい。真っ先にその命令を下すべき翼が未だに硬直している。
「翼。どうかしたのか? 翼」
翼の表情をみて思わず息をのむ。普段の謹厳実直な様子とは程遠く、目には怒りと憎しみが渦巻いている。翼は過去に銀髪に仲間を殺されている。恨むのは当然だけどこれほどまでに激しい感情を見せるとは想像さえしていなかった。
「翼! 撤退だ! 聞こえてるか!?」
「撤退!? 何故ですか!? 奴は、奴だけは! あいつらの仇を取らねば!」
あいつら? 銀髪に殺された仲間のことか?
ぎりぎりと歯ぎしりする翼は今にも銀髪に特攻しそうだ。それはまずい。ここで一人でも突っ込めばその勢いのまま全ラプトルが攻撃しかねない。
たとえぶん殴ってでも止めるべきだ。もちろんここから殴ることはできないから、言葉でぶん殴る。
「翼。お前銀髪に殺されたいのか? それともオレに殺されたいのか?」
語気を弱めながらゆっくりと語り掛ける。
自分でも意味が通じていないという自覚はあるけど、こういう時は意味よりも勢いだ。これで冷静になれないなら最悪翼は見切らなければならない。
ややあって翼は口を開いた。
「……お見苦しい所をお見せしました。申し訳ありません。直ちに撤退いたしましょう」
よし。いつもの翼だ。落ち着いてくれたな。
「此度の抗命の罰は後ほど。今は火矢を持った騎兵を殿として全て撤退させましょう。最初の戦場の後始末は終わっていますか?」
火矢を持った奴を殿にすることでそいつらに注意を向けるつもりか。最初の戦場ではせっせと働き蟻たちが作業をしているけど……。
「流石にまだだ。でも急がせる」
「急ぎましょう。砦はどうなさいますか?」
「放棄だな。銀髪を止めるのは無理だ。兵は脱出させる」
砦を取り囲んでいた遊牧民たちはようやく異変に気付いたのか、野営地に向かっている。今なら脱出は不可能じゃない。
井戸や風車など敵に使われると困る道具を破壊してから脱出するので、時間はかかるかもしれない。
「場合によってはある程度の部隊をこの近くにおいておき、敵を誘導します」
この状況で一番まずいのは銀髪が硫黄の交易路を侵略することだ。それだけは何としても避けないと。
「頼む」
はあ。
思いっきり勝ち戦だったのになあ。あいつが出てきたとたんこれか。あー、腹立つなあ。
……いやちょっと待って。ホントにお腹っていうか胸がむかむかする。
「……悪い。誰か洗面器持ってきてくれ」
こういう時は本当に口を使わずに話せるテレパシーが使えてよかったと思う。
本日の教訓。
胃の内容物をアレした後は水が甘くなる。心底学びたくなかった教訓だ。
「見ろ! 邪悪な魔物が退いていくぞ!」
「今なら追撃することができる!」
誰もが期待に満ちた眼差しでチャーロを見るが、彼女は首を横に振った。
「まずはこの場を落ち着けるが先決です。被害の確認と負傷者の手当てを!」
ごくまっとうな指示によって野営地にはようやく混乱の鎮静化が見え始めた。
慌ただしく、しかし危機が去りつつあるこの状況で、ウェングは呆然としていた。
「未来が変わった……?」
自身の予知能力が万能でないことは知悉している。しかし、あれほど確固としていた未来が変わったことは一度もない。
間違いない。あれが伝え聞く――――銀の聖女。
隔絶した魔法……ああいや神秘の持ち主。彼女がここにいることなど知っているわけもないから予知できないのは当然とも言えるが……ただそれだけとはどうしても思えなかった。
その銀の聖女にはチャーロが跪き、礼を尽くしていた。銀の聖女には背の高い男性と、赤い髪の女性、ウェングと年の変わらない男が付き従っていた。
そのうちの一人、同じ年頃の男がこちらに歩いてくる。ゆっくりと歩いてきた男は口を開いた。
ただしそれは、この世界の言葉ではない。
「はじめまして」
「ああ、はじめまし……!?」
日本語だった。
「やっぱり君がそうか。時間がないから後で話そう。僕も君と同じ転生者だ」
絶句したウェングはうなずくことしかできなかった。
朝から始まった『後詰め決戦』は太陽が沈む直前に終結した。
トゥッチェ側の死亡者は一万を超えたが、それに反して負傷者は少なかった。負傷した兵はほぼ死亡した……というより自ら命を絶った。
対してエミシ側の死亡者は千を超えなかったものの、負傷者は少なくはなかった。無論トゥッチェ側よりは少なかったが。
戦術的には死者の数が圧倒的に多い側である、チャーロを始めとするトゥッチェの幹部らは自分たちの負けだと思っていた。
しかしエミシ側は砦の防衛という戦略目標を達成できなかった点から、この戦いはこちらの負けだ、そのように記録するように紫水は指示を出した。
いずれにせよ各陣営のトップたちの思考はここに至る。
『銀の聖女が現れなければどうなっていただろう』
歴史と戦いにもしもはないが、だからこそそれを夢想してしまうのはどうしようもない
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