268 焚書
オレたちとヒトモドキの戦いはまさに一進一退の攻防……と呼ぶにはいささか刺激に欠ける展開になった。オレたちは守っているだけだし、ヒトモドキも積極的に攻撃に出てこなかった。
たまに背面に回り込んで壁を乗り越えようとしたり、柵をどけようとしたりしただけだ。全部阻止できたけどな。
やっぱりこういう戦い方は苦手みたいだな遊牧民。平地という変化の乏しい環境に慣れきったお前たちにとって環境をコントロールすることで自分たちが優位に立つオレたちの戦い方は覿面に効く。逆に言うと準備無しで戦ったら木っ端微塵に粉砕されるのはこっちだけどな!
「さあて。どうだ翼?」
「今少し、でしょうか。まだ統率が保たれています」
もうわかっていると思うけどオレたちの狙いの一つ目は持久戦。動き回っているあいつらと守って動いていないオレたちなら疲労の差は歴然。スポーツだろうが戦争だろうが体力を無駄づかいして足が止まった奴からくたばっていく。加えてこっちが有利な部分はまだある。
「はい! お乳をどうぞ!」
茜から翼にしぼりたての豚乳が渡される。
「これはご丁寧に」
翼はごくごくと喉を潤す。同じような光景はこの陣地でしばしば見かけられる。あらかじめ水や携帯食を持ち込んでおいたためだ。動かないメリットはこの辺りにもある。こっちはあらかじめ長期戦を想定しているけど、向こうは一撃離脱が信条のはず。水筒くらいは持っているかもしれないけど、これだけ暑いのに動き回っていれば喉が渇くどころか脱水症状や熱中症になってもおかしくない。
それでもまだしつこく魔法を撃ちまくっているのだから奴らの根気はなかなか大したものだ。ただあまり追い込みすぎると逃げるかもしれないからその時は――――おや?
「報告。何やら指揮官らしき黒服の聖職者同士が何やら言い争いしています」
壁の上から双眼鏡で敵陣を覗いていた蟻からの報告だ。
「おやおや。イライラして口論になるとは。カルシウム足りてないんじゃないか」
さんざん籠城されて思うように攻撃できなかったのにここでも自由に攻めれないならストレスもたまるよな。思う存分騎兵突撃できるとおもったか? 残念!
「敵に好きな戦い方をさせないのが戦術ってもんだろ」
「しかり。必勝の戦術など存在しません。己が全力を出せば勝てるという思い込みは愚者かとびぬけた強者しかできない考えでしょう」
「気が合うな。じゃあ、そろそろかな?」
「ええ。では茜殿。例の物を投げ込んでください。それに伴い数人を陣の外に」
「はい!」
茜は自分の毛を魔法によってカウボーイの投げ縄のようにぶんぶん振り回す。その先には玉のような何かが括りつけられている。
「とおお!」
毛に括りつけられた何かはハンマー投げの要領で放物線を描いて飛んでいった。その飛距離はゆうに二百メートルを超える。予定通りヒトモドキには届かなかったそれは地面にぶつかると
「さあ、それじゃあ楽しい楽しい演劇会の始まりだ。まずはオレたちから心のさっぱりこもってない贈り物を受け取ってくれよ?」
トゥッチェの民の間ではやはりと言うべきか、直ちに総攻撃を仕掛けるべきだという意見が強く、族長に直談判したものもいる。
一般の信徒の間には露骨に族長の弱腰をなじる声もあったが、それでも命令に逆らおうとは誰もしていなかった。ある物が投げ込まれるまでは。
投げ込まれた何かは何度目になるのかわからない攻撃に備えていた遊牧民から少し離れた場所で弾け、中身を衆目の目に晒した。その中身は……。
「……あれは……本か?」
「そんなことがあるわけがないだろう。魔物なんかに本を作れるはずがない」
「いや、しかしあれは本……いや、まさか……」
明確に攻撃だとわかっているならこんな呑気な会話はしていなかったが、誰一人傷つかず、続く攻撃もなければその意図をいぶかしむのはおかしくもない。そしてたった今ばら撒かれた物の正体をその信仰心の篤さから正確に看破した誰かがいた。
「ま、まさかあれは聖典ではないのか!?」
その言葉に反応してどよめきが一気に広がる。火に投げ込まれた油のように燃焼を加速させる。
セイノス教徒にとって聖典はもっとも貴い書物で、たとえ擦り切れてぼろぼろになっても肌身離さず持ち歩き、聖典の項の一つでも傷つけようものなら一晩中神と救世主に許しを請うほどに聖典とは神聖で何物にも代えがたいのだ。
その聖典を魔物が持っている? そんなことはありえていいはずがない。
ダッと数人が馬首を巡らせる。誰からも命令されていなかったがそれを咎めた者もいなかった。ばら撒かれた本を大事そうに抱え、涙ながらに訴える。
「間違いない!これは聖典だ! あいつら、あの薄汚い蟻! 聖典を奪いやがった!」
その言葉が起こした現象は燃焼などという化学反応では表せない。
爆発。
そう呼ぶほどに劇的な反応。すでに中天を過ぎた太陽さえも吹き飛ばすほどの激烈な怒声や激昂が聞こえる。
そう。蟻が神聖な聖典を作ることなどあり得ない。だからこの聖典はどこかから奪ったに違いない。そう考えるのは実に自然だった。
そしてのこのこと陣地から出てきた蟻は懐から書物を取り出すと――――それを引き裂いた。また別の蟻は地面に書物を投げ出すと地面にこすりつけるようにぐりぐりと踏みつけにした。
屈辱、侮辱、汚辱。
ありとあらゆる恥が遊牧民の脳裏を駆け巡る。
ぎりぎりと、奥歯をかみしめる音が陣内を覆ったのは気のせいではない。顔には血管が浮かび、目は血走り、敬虔なるセイノス教徒である彼女らの怒りが陽炎さえも生じさせんばかりだった。
誰もが今にも突撃し、この世の正義を広め、悪逆なる魔物を討たんと欲していた。大地が傾き、かけ出せば決して止まることがないという錯覚に襲われていた。
弓につがえられた矢のように今にも放たれようとしていたが、かろうじて残っていた理性でそれを押しとどめていた。
そしてもちろん押しとどめている理由そのものである一人の女性にありとあらゆる視線が注がれていた。もちろん族長である。
族長はほんの少し目を閉じ、黙考した後、チャーロと視線を交わした。その一瞬後、遂に待ち焦がれた命令が発せられた。
「全軍突撃」
太鼓持ちが革を突き破らんばかりに打ち鳴らす。肺腑の底から絞り出された声は地平線の彼方まで聞こえそうだった。
矢は、放たれた。
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