196 空を裂く

 ギリシャ火。

 東ローマ帝国で開発されたらしい兵器だ。らしい、というのはあまりにも情報が少なすぎるためにそう言わざるを得ない。この兵器は現在製法が伝わっておらず、それは東ローマ帝国が必死にこの兵器の情報を隠匿していたかららしい。

 だから今回オレが開発したこれが本当にギリシャ火なのかはもはや誰にも判断できない。

 というかもしも本当にギリシャ火を使っていた当人たちですら判断できないだろう。この兵器は混沌がカオスに混じり合ってできたわけがわからない兵器だからだ。


 ギリシャ火の主成分は諸説あるものの生石灰、硝酸、石油を分解したナフサであるとされる。それに樹脂などの増粘剤を添加し、炎の持続時間を延ばしたらしい。

 生石灰には水を加えると熱を出す性質があり、その熱を反応のスタートにし、ナフサを燃焼物とし、硝酸を酸素の供給源とする。

 ざっくりと水をかけても炎が消えない理屈を説明するとこうなる。それらの材料をそろえることはできないので様々な物質を代用品として使うことになった。

 生石灰はアンモニアソーダ法の途中で入手可能なので大急ぎで作らせた。

 ほかの材料は木酢液を蒸留して作ったメタノール、無水エタノールを酢酸カルシウムでゲル化……要するにキャンプなんかでよく使われる固形燃料のようなものにした。念のために燃えやすい硫黄やマグネシウム、樹脂、ラードなど、とにかく燃えやすいものを片っ端からぶち込んだ。

 そしてそれらを球に詰めてラーテルにぶつける。ラーテルの魔法によって分解されたそれらはミキサーでかき混ぜられたみたいに水と混じり合い、化学反応を起こして発熱し、発火する。

 これもまたラーテルに対する専用武器。もしもこれを二年前にも思いついていれば……そうじゃないな。

 ラーテルに負けた時、そして以前海に行ったときに水中や湿気た環境でも使える武器を少しずつ作り続けてできた兵器がこれだ。

「オレの、二年を、なめるなよ! ラーテル!」


 ラーテルの体には閃光と炎がまとわりついており、苦悶の声を上げる。背中に数発、腕に一発。ギリシャ火は確かに奴にダメージを与えている。

 だがそれで止まるような軟弱な生物でないことはよくわかっている。

 ラーテルは火が付いた腕を地面に突き刺し、さらに身を水浴びや泥浴びのように横たえる。それだけ聞けば牧歌的だがサイズがサイズだ。ただ火を消すだけで天災のような騒ぎになる。

 その対応は正しい。ギリシャ火の数少ない資料によると砂やお酢をかけると消えたと言われている。ただこのラーテルにとって不幸だったのはオレがすでに一度ラーテルと戦っていること。

 だからその行動はすでに予想している。

 ラーテルの背中からは再び炎が燃え盛る。ギリシャ火は水さえあれば再び燃える。恐らく<分解>されて小さくなったギリシャ火の原材料がラーテルの毛の隙間に入り込み泥浴びくらいでは落ちなかったようだ。そして毛皮はすでに水に濡れている。例え酸素が少量しか供給されなくても、例え温度が下がっても、水と材料が存在する限り再び点火する

 そして雨が降っているがゆえに森に飛び火する可能性はなく、むしろ全力で炎という武器を使える。雨だからこそ使える炎を用意していた。

 とはいえいつまでも炎が消えないわけじゃない。熱を発生させればさせるほど、ろうそくのように燃焼物は消費する。だからこの機に決める!


「突撃! 千尋! 準備しろ!」

「待ちくたびれたぞ!」

 豚羊の群れを先頭にし、続いてラプトル、後方に弓を持った蟻が迫る。この弓もただの弓じゃない。水酸化ストロンチウムや生石灰などの水に反応すると高熱を発する物質を矢じりに装着してある。

 これなら分解されても熱によってダメージを与えることができる。ラーテルのサイズからするとスポイトで熱湯をかけられたようなものかもしれないけどそれでもわずかにダメージは蓄積していく。牽制や陽動くらいの効果はあるはず。

 人間の場合、体の30%以上にⅡ度の熱傷を負う、またはⅢ度の熱傷を体の10%に負うと重症と判断されるらしい。少なくとも背中の炎は間違いなくⅢ度の深い火傷になっているから、まっとうな人間ならもう動けなくなっているだろう。今はまだラーテルは生きているけど、傷は浅くないはずだ。火傷で仕留められればよし! 無理でも千尋が率いる蜘蛛が別動隊として待機しており、隙を見つけて爆弾でとどめを刺す。

 ここが勝負どころだ!




 巨大な獣は思考する。

 ぎろり、と眼下の敵を睥睨する。

 何故この小さな虫は戦うのだろう。何故これほどの力の差がわかりきっていても抗うのだろう。何故――――自分は戦っているのだろうか。

 決まっている。あの子たちのためだ。だから。

 決して負けるわけにはいかない。




 ラーテルは火傷していない方の腕を噛むような仕草をした。……? 何の意味がある? いや、今は突っ込むだけだ!

「いけえ!」

 そのまま一直線に突っ込んでいく。もしも逃げ出せば再びカッコウの空爆で足を止める。最悪そこら辺の石を落とすだけでもブラフとしての効果はある。

 ラーテルは怪我をしていない腕を少しだけ後ろに引く。

「砂かけに注意しろ! ひるむなよ!」

 ラーテル唯一の飛び道具である砂かけは厄介だ。しかし今回は軍団の規模が違う。全員が息絶えるまでには奴ののど元に食いつけるはず。味方の血で道をこじ開ける。そうでもしなければ、勝てないことはもう全員がわかっている。

 ラーテルが腕を振るう。しかしそれはただ空を裂いただけだった。何にも触れていない。奴の魔法は触れなければ発動できない。

 にもかかわらず――――突撃していた味方の体は切り裂かれ、宙を舞った。

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