32話 流行病の正体 その2
説明はさほど難しくなかった。次亜塩素酸ナトリウムは混ぜるだけで、石鹸はターナ先生が砦で協力者を募っていたらしく、沢で使った事のある経験者が何人かいた。
「こいつは爽快だ。みるみるきれいになる!」
途中から飛び入り参加したオバラ先生は、泡だらけになりながら全身を洗っている。
まったく。泡立ちだけは前世のものと遜色ないとはいえ、もしこの石鹸で消毒出来なかったらどうするつもりなのだろう? 医者に倒れられるのは問題なのだが。
「この有様は何事ですか?」
様子を見にきたアンがちょっと怒っている。それもそのはずで、中庭は泡だらけだ。
「あー、ちょっと身体の消毒のテスト中。あとでちゃんと掃除するから今だけ許して」
全裸の男たちが泡だらけではしゃぎ出したのを見て、マイナ先生は物置に入って出てこなくなってしまった。
真っ赤になって引っ込んだ後は、次亜塩素酸ナトリウムの製造に夢中になっているらしい。
「まあまあ。ここの掃除は大変そうですね。水がもったいない」
中庭の端にある雨水用の溝にできたモコモコした白い山を見ながら、アンがため息混じりに呟く。
水がもったいない、か。逆に今の井戸水全部捨てる気合いがあれば、汚染を取り除けるのではあるまいか。
「それなんだけど、ちょっと井戸の水全部抜いていい? 今の水、もうそのまま使えないだろうし、井戸そのものを消毒したいんだ」
井戸の水を全部抜く。それが本当に可能かどうかはわからない。次々湧いてきたらそもそも水なんか抜けない。
だが、僕は化学の授業の無駄話をちゃんと聞いていた。
前世の水道水は次亜塩素酸ナトリウムを添加されていたし、プールの消毒に使われていたこともあったらしい。薄い濃度なら人体に害はないという事だ。
つまり次亜塩素酸ナトリウムを放り込んで消毒し、それから井戸の水をすべて汲み出せば、濃度は薄くなるので問題はなくなる。
「坊ちゃまがお決めになったなら、なさって良いのですよ。それに、井戸が元に戻るなら大歓迎です」
アンは僕に甘い。さっきは水がもったいないと言っていた気がするが。
「じゃ、ちょっと試すよ?」
僕はマイナ先生が作った次亜塩素酸ナトリウムを、半分井戸に放り込む。さっきより臭いがきついのは、僕が作ったものより濃いからだろうか。
「え?」
ィぃィィぃィィジィィィィ
言いようのない音で、井戸が騒いだ。
何が起きたのか、井戸を覗き込もうとした僕は、泡だらけのシーピュさんに肩を掴まれて、力づくで引き戻された。
井戸から何かが溢れてくる。灰色の煙、いや、霧だろうか?
「坊ちゃん、下がってくだせぇ! こいつぁレイスだ!」
レイスというのは前世の記憶が戻った晩に、僕を襲ったという魔物だ。夜にしか出ないと聞いていたのだが。
「何でこんな所でこんな時間にレイスが出るの!?」
領主の館の中庭で魔物に遭遇するとは思っていなかったので、みんな武装を外している。中庭はパニックになった。
薄い影のようなレイスは井戸から逃げるように溢れ出てくると、起き上がる。人間であるはずはないのだが、目の錯覚か、フードを被った人間に見えなくもない。輪郭がはっきりとしていなくて、不気味にユラユラ揺らめいた。
「触れたら魂を持って行かれますよ! 離れて!」
僕は魂を持っていかれた経験者だ。だが、奪われた瞬間は今でも思い出せない。
まぁレイスに襲われていなければ、前世の記憶は戻らなかった。そういう意味では恩があるわけだが。
レイスはそのまま空中に浮かぶと、もがき苦しむようにジグザグと飛び回り始める。
「うぎゃぁ!」
レイスは泡だらけの全裸男に突っ込む。が、男に触れた瞬間、レイスは弾かれたように方向を変えた。
「え? あれ? あれ?」
男はレイスに触れられたところを、ぺたぺたと触っている。どうやら無傷らしい。
「離れろ!」
日中だからだろうか。レイスは少しづつ小さくなってる気はする。
パニックを起こしているところから見て、レイスが陽の光を苦手にしているのは間違いない。
問題はなぜ、苦手な陽の光の元にわざわざ出てきたのか、という点だ。
「くっそ。効かねえ!」
誰かが弓を持ち出してきて射かけているが、矢はレイスの身体をすり抜けている。
レイスに物理攻撃は効かないというのは本当らしい。夜にまぎれてこんなのが出たら中々厄介だな。
「イント君、神術使おうか?」
マイナ先生が物置の扉から顔だけ出して聞いてくる。
「当てられる?」
聞き返すとマイナ先生は首を左右に振った。
「なら当てられるようになったらで良いや。ちょうど試してみたい事あるから」
多分、レイスは井戸にいられなくなって逃げ出したのだ。キッカケはもちろん次亜塩素酸ナトリウムの投入である。
ならば攻撃手段としても有効なはずだ。理想はスプレーだけど、こちらの世界ではまだスプレーを見たことがない。
「誰かがやられる前にやるしかないな」
次亜塩素酸ナトリウムの壺に、落ちていた手拭いを浸す。
レイスの動きはそれなりに速いが、妹のストリナほどではない。頑張ればかわせそうだ。
「いってぇ」
さっき感電して火傷した部分に次亜塩素酸ナトリウムが触れて、ジクジクと痛みはじめる。
ぼやぼやしていると村人がレイスにやられるかもしれないので、手拭いを握りしめてレイスに駆け寄った。
近づくとビュッと、霞んだ黒いモヤのような触手が目の前を掠めて、心臓が縮み上がる。魔物が相手の場合は、緩急をつけて動けというのが父上の教えだったが、なるほどこういうことか。
そのまま間合いギリギリから、手拭いを逆袈裟に振り抜く。
「ぎィィィィぃイ」
手拭いからは飛沫が飛んで、矢では何のダメージも通らなかったレイスが何の手応えもなく両断される。
身体ごと回転して、今度は横薙ぎ。それも抵抗なく胴体らしき部位を両断できた。
「よっしゃ!」
効果があったことを確認して、跳びのく。レイスは4つに分断されても死んでいないようだった。それどころか、それぞれがノロノロと逃げ出そうとする。
動きがノロいのは、消毒液が効いてるのか、小さくなったからなのか、どっちだろう?
『『貫け! 炎槍』』
そこに、オバラ先生とマイナ先生の神術が直撃する。そう言えば、神術の炎って何が燃えているのだろう?
そんなことを思いながら、次亜塩素酸ナトリウムの染み込んだ手拭いで残った小さなモヤを潰す。
村人たちも、僕が何をしているか理解したらしい。僕を真似して手拭いを手にして最後の小さなモヤを追いかけ始めている。
僕は深呼吸して、暴れる心臓を少し落ち着けると、マイナ先生のところに戻る。
「ほんと、イント君といると退屈しないね」
マイナ先生は苦笑いで、ガシガシと僕の頭を撫でた。
「でも、消毒っていうのがああいう意味なら、事前に言っといてくれると助かったかな」
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