第10章 6

風領土バリンの、虹晶龍こうしょうりゅうだ』

 声も出せない青年を不意打ちするが如く、面白そうな響きを纏ったバリトンの声が響く。

 弾かれたように顔を上げたハルの視線の先──即ち、龍の巨躯からひらりと舞い降りてきたのは、がっしりとした体躯の背高い男だった。

『俺達も滅多にお目にかかれない、極上の騎獣よ。まあ……乗り心地は、いまいちだがな』

『あんた……!?』

『……よぉ』

 ついに絶句したハルを捉え、浅黒い貌がにいと笑う。

 相も変わらず派手派手しい装束に身を包んだレジェット・ジャルマイズは、広い肩をひょいとそびやかせてみせた。

『声は出るようになったか。さすが、のガキだ。頑丈に出来ていやがる』

 狼狽も露な青年の声に笑みを深め、レジェットがすいと目を細める。ハルの面を外れた視線は、彼の背後で阿呆の如く口を開けた青年少女を順繰りに映し……最後に、冷と佇む灰色の影の処でひたりと止まった。

『全員連れてきたか。さすが、仕事が正確だな』

『……当たり前だ』

 口笛でも吹きそうな調子の科白に応じたのは、やや低めの……しかし明らかに男のものではない声音。

 その響きに瞠目した三人──シネインだけは、どういうわけか顔を青くしていたが──を知ってか知らでか。灰色の騎士──否、女騎士は端然たる言の葉を返した。

『お前の方は。間に合ったのか?』

『……何とかな。所謂、危機一髪ってやつだ』

 どこか苦い嘆息とともに、レジェットがふと視線を上げる。

 その先に在ったのは、青白く輝く龍の背にくったりと投げ出された黒い影。大きさからすると、成人したヒトであろう。頭からつま先までをすっぽりと包んだローブの隙間からは、長い黒髪と生白い肌とがわずかに覗いている。

 しかし……その半ば以上を覆うようにして巻かれた布の彩と、わずかに漂う鉄じみた香りは、彼ないし彼女が少なくともではないことを、何より如実に物語っていた。

『一応生きてはいるが、ひでぇもんだ。せめて応急処置くらいはしてやりてぇが……』

『残念ながら、時間はないと』

『……その場にいた奴らはとりあえずが、何せ西の塔だ。バレるのは時間の問題よ』

『こちらも状況は同じだ。急いだ方がいい』

『……待て!!』

 いささかげんなりとした応酬に割って入ったのは、鋭く割れた掠れ声。

 目の前で繰り広げられるやり取りに、ようやく目が覚めたのか。振り返ったレジェットを睨むようにして見据えながら、ハルは再び声を上げた。

『一体、何の話だ!何が目的で、俺達を、北の塔から連れ出した?あんた、支配……っ!?』

『馬鹿!声が高い!!』

 大きな手でハルの口を塞いで締め上げながら、レジェットは焦りの滲んだ早口を零した。

『ここは、東通路の東端──皇宮の、私民の詰め所の真下だ。大きな音を立てたらバレる。気持ちは分かるが、少し声を落とせ!』

『…………!!』

 むせ込んだハルの表情を知ってか知らでか、大男は大きく息をつきながら、再び灰色の女騎士──此方は黙したまま、一片たりとも感情を見せることはなかったが──へと向き直った。

『お前もいい加減、それを外せ。わざわざ怪しまれるような真似はよせっての』

『……失念していた』

 言い訳ですらない言とともに肩を竦めた灰色が、厳めしく鎧われた手を頭へと遣る。

 わずかな金属音とともに外れた兜から零れ落ちたのは、鋼のような黒髪と……そして、精悍ながらも繊細な造形美を保つ女の貌だった。

いていた故、名乗りが遅れた。私はフィリックス・キクス──この国の、風の‘支配者’だ』

『ギャー!!やっぱりィィィ!!』

 端然たるアルトをかき消したのは、先刻のハルの糾弾に勝るとも劣らぬ絶叫。

 その響きにわずかに眉をはね上げながら、フィリックスはその音源──即ち、青い顔で頭を抱えたシネインへと向き直った。

『……そうびくびくするな。少なくとも、を問い質すつもりはない……シネイン・ユファス公』

『………!!』

 穏やかな調子に含まれたひとひらの皮肉に、シネインがびくりと顔を引きつらせる。

 脱兎の如き素早さでアースロック──こちらも、どういうわけかしっかりと硬直していたが──の背後に隠れた小さな姿を知ってか知らでか。フィリックスは、静かにハルへと視線を移した。

『先程の質問だが、残念ながら、答えている時間はない。今は、別の話が先だ』

 鋭い緊張を纏った彼女の気配に、一旦矛を収めたのか。無言で力を抜いた青年を見遣り、レジェットはようやくその腕を解いた。

『……一度しか言わねぇから、よく聞けよ』

 絞られた紅玉を過ぎり、派手派手しい軍衣の袖がゆらと閃く。薄闇い中でなお鮮やかな赤橙が示したのは、先程その持ち主らが現われたのとは反対のうろだった。

『さっきも言った通り、ここは皇宮の真下にある通路のひとつだ。中心部は相当に入り組んでいるが、ここまで来れば後は簡単。右の路を真っ直ぐ進めば、お前らが昨日目指した東門はすぐそこよ。後ろのちっこい嬢ちゃんは知っているだろうが……その先には、森がある。ちょっとばかしでかい騎獣に乗って駆けても、そうは見つからねぇくらいには深い、な』

 低く唸った龍の背を素知らぬ体で撫で撫で、レジェットは再びバリトンの声を紡いだ。

『森を出たら、一気に上空へ昇れ。幸い、今日は雨だ。雲に紛れちまえば、そうはバレねぇ。なるだけ高く上がったら……後は、とにかく急ぐことだ。勝負は、帝都ランスを出られるか否かだからな』

『…………!?』

 思わず瞠目したハルに応じたのは、飄然としてはいるが恐ろしく真剣な色を宿した沈黙。

 その刃物めいた鋭さは、レジェットの言を継いだアルトの内にも同様に含まれていた。

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