第10章 4

「……仮定の話は、好きじゃない。それでも……お前らが、見つかる前に。俺が、を片付けていれば。少なくとも、逃げ切るだけの、時間は稼げた。そう、だろう?」

「あ、あいつ……?」

 唐突にフィルナ語で振られた問いかけに、アースは思わず上擦った声とともに瞠目した。

「‘森’で会った、黒ずくめの男だ。お前が、いる間に、もう一度、戦った」

「何だって……!?」

 はっと顔色を変えたアースの声に、しかしハルは相も変わらぬ無表情だけを返した。

「そんな、どうして……!?皇宮ここに出入りが出来るなんて、一体、何者……!?」

「俺が、知るかよ。ただ……結果は、ご覧の通りだ」

 おそらくは相当に失血したのか、嗤笑とともに肩を竦めた従兄弟の面は、蒼を通り越して白くなりかけている。しかし……その中で燃え立つ紅玉ルビーの瞳は、まるで噴き上がる直前の焔の如く、激しい熱量を湛えていた。

 ぎらぎらしく渦巻く深紅の中に仄めくのは、自嘲と……そして怨嗟にも似た屈辱の色。

 かつて見た事もない感情を宿すハルの視線が孕む意味をようやっと理解しながら、アースはただ呆然と絶句する他なかった。

「雪辱のチャンスを、にした俺に、人の事を、とやかく言う資格はねぇし、言うつもりもねぇ。ひとつだけ、分かっているのは……俺達は、失敗したってことだけだ。それも、身から出た、錆のおかげでな」

「…………」

 青年が投げた淡々たる言の葉の網は、薄暗い牢内を今度こそ沈黙の海へと沈めた。

 牢の格子戸を囲む壁際にそれぞれ座した三人の上に降り掛かる重苦しさは、まるで各々の心の裡を容赦なく燻り出そうとするかのようで。

 思わず目を伏せたアースロックが、再び静かに嘆息する。しかしながら……その物憂げな残滓は、唐突に響いた金属音により、無遠慮にかき消されることとなった。

『……こりゃあ、驚いた』

 ほぼ同時に顔を上げた青年少女の目の前で、洋灯の小さな光が皮肉のように揺らめく。

 頑丈な牢格子に隔てられた、その向こう側。半ば開いた石扉から、のそりと姿を現したのは……締まりのない禿頭を光らせた、中年の男だった。

『ぎゃあぎゃあ騒いでると思いきや、静かなもんだ。早くも葬式の準備ってかァ?』

 おそらくは、牢の見張り役か何かであろう。下卑た嗤いとともに此方を見下ろす男の科白に、シネインがきっと眉をつり上げる。

 嫌悪を丸出しにした少女の視線をひょいと躱し、男は濁った目を剥いた。

『他の房も散々見て回ってきたが、どいつもこいつも景気悪く黙り込みやがって。全く、お貴族様の気取り屋加減には、反吐が出るぜ。なァ、反逆者さんよォ?』

『……何の用ヨ!』

『おおっと、怖ぇなァ!』

 斬りつけるような少女の科白に大仰に驚き、男は酒焼けした酷いだみ声で嗤った。

『でもよォ、そんな脅しは通用しねぇぜ?には、封呪の仕掛けがしてあるんだ。一度入っちまえば、呪法は絶対に使えねぇ。どんなにお偉いお貴族様も、ただの囚人よォ。ざまぁねぇなァ!』

『……っ!』

 手を振りおどける禿親父の動きに会わせ、太鼓腹に巻き付いた鍵束がじゃらじゃらと音を立てる。歯噛みするシネインを格子越しに覗き込んだ牢番の貌は、だぶついた加虐の高揚に醜く歪んでいた。

『そんな威勢も、今のうちだけよ。北の塔ここの最上階にいなさるってこたァ、かなりの様だ。日が変わる頃には、もれなく西の塔へご招待。そうなりゃあ、澄ましたツラなぞしちゃあいられねぇぜェ?お嬢ちゃんよォ?』

『……!』

『ニシの……トウ?』

 ひゅっと詰まった少女の声を遮ったのは、たどたどしくも純粋な疑問符。突如肩を強張らせたシネインの様子に、アースロックはいよいよ不審げに眉を寄せた。

『知らねぇのかい?こりゃ、傑作だ……!!』

 再び響いた哄笑に、暗がりに潜んだハルがするりと紅い目を細める。その存在に気づいているのかいないのか。黄ばんだ歯をむき出した男は、再び割れただみ声を上げた。

『噂に名高い、‘終末のはこ’──お貴族様の、よ。一体ナニをされるかは、入ってからのお楽しみ。だがなァ、滅多な事じゃあびくともしねぇお貴族様アンタらでも、三日と保った奴はいねぇとよォ!出られるのは、だけ。あの死神グライヴァ公ですら、二日も経たずにバラされちまったって言うんだからなァ!恐ろしい話だぜ』

『グライ……!!』

 どうにか聞き取れた言葉の意味を解したアースが、思わずはっと瞠目する。恐ろしく静かな背後の気配を振り返ることもできずに凍った彼を、駄目押しのようなにたにた嗤いが打った。

『今いなさるも、今日中にはに変わる。そうなりゃ、アンタらにお呼びがかかるって寸法さァ。さて、お嬢ちゃんにお坊ちゃん、アンタらは、どこまで正気でいられるかねェ……?』

 ぐふぐふと鳴る下品な声は戦慄のようにアースの背を駆け、首をざわりと撫で上げる。‘森’で出会った男に撃たれて以来、久しく忘れていたその感覚は、彼に恐ろしく絶望的な現実と……そして残酷な未来予想図を突きつけた。

 おそらくは、隣のシネインも同様の心持ちであったに違いない。ともに強張った顔で沈黙したふたりを、相も変わらず嫌らしい視線がねっとりと見下げる。

 そのだらしない口元が、今再び嘲りの声を吐き出そうとした、その刹那。

 樽のような男の体は、まるで奇術か幻術の如く、その場から綺麗にしていた。

『ファッ……!?』

 間の抜けた少女の声に重なったのは、派手な破砕音と……そして潰れた蛙のような悲鳴。

 呆然と棒立ちしたアースとシネインの背後で、ハルが弾かれたように立ち上がる。驚きにも成らぬ色を湛えた紅玉が映したのは、ひび割れ砕けた黒い石壁。そして……その中央に劇画の如くめり込みかけた、牢番の姿だった。

 ひとまず死んではいないのか、ぴくぴくと痙攣する禿頭が、地に落ちた洋灯の火勢に合わせててらりと光る。誰ひとり言の葉を発せぬ空気の中……雨音を侵したのは、踵が床を打つ甲高い音だった。

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