第6章 7
薄衣が擦れる清かな音色に重なったのは、深く澄んだ晩鐘の響きだった。
わずかに冷たさを増したそよ風に薙がれ、丘陵に沿って広がるオリーブ畑が、そしてその彼方に茫と霞んだ森の影がざわざわと揺れる。その牧歌的な風景をごくぼんやりと眺めながら、ハルはもはや何度目かも知れぬため息を零した。
横に控えるのは、己同様、寝室の出窓の外を見遣ったまま坐す銀髪の従兄弟。
夕から宵へと変わり始めた空を静かに仰ぐ青年達の貌には、どうにも形容できない、複雑な疲労が張りついていた。
「……どうするんだよ」
ぽつりと漏れたアースロックの呟きを、若草の香りを含んだ風がさらっていく。その残滓をそれとはなしに聞き流しながら、ハルは再び深々と嘆息した。
――オトトイ、フィルナ連合が
ほんの数時間前、シネインが紡いだ言葉が鮮やかに耳朶をあぶる。
ただただ絶句し凍りついた己等を見据える少女の瞳からは、先程のおどけ調子が嘘のように拭い去られていた。
「確かなスジからの情報ダカラ、間違いナイと思ウ。このママだと、一月もしないウチに開戦よン。五年ぶりの、戦闘再開ネ」
「そ……んな……」
呆然たるアースの視線を正面から受け止め、少女はきっぱりとした口調で言の葉を継いだ。
「今度は、小競り合い程度ジャ済まナイはず。総力戦ヨ。文字通り血で血を洗ウ、トンでもないオオゴトにナルでしょうネ」
まるで対岸の火事を語るが如き醒めた口上とともに、シネインはひょこりと首を竦めた。
「……ソウなったら、
「じ、自分の領地を守るために、仕える主を裏切るっていうのか!?」
「……っていうのガ、ヒトツめの理由」
思わず声を上げた銀髪の青年を制し、シネインはおもむろに細い腕を組んだ。
「もうヒトツの理由は……ヤバいと思ったノ。純粋にネ」
「やばいって……一体何がやばいんだ?」
「……ワカラナイ、のよン」
どうにも解せないといった表情のアースから視線を逸らし、少女がふと目を伏せる。
桃花をそのまま染め出したようなその両眼には、幾許かの惑いと……そして、隠しきれない猜疑の念が渦巻いていた。
「……ルナン貴族ニとってイチバン大切なのは、イエの血を守る事。簡単ニ聞こえるカモ知れないケド……私タチみたいな下級貴族ニとって、ソレは実はスゴく難しい事なの。特ニ、戦場では尚更ネ。実際、主戦論者は高位貴族のゴク一部ダケ。大半は、日和見主義者なのヨ。それも、ドッチかと言うと、トッテモ消極的な、ネ」
どこかコミカルな調子で肩を竦めながら、シネインは不意に声を落とした。
「……五年、休戦できたのヨ?無駄ニ争わなくてイイなら、このママでイイじゃナイ。ヤらなきゃコッチがヤられる……ソレこそフィルナが攻めてキタとか、ソウいう確かな理由があれバ、納得もデキル。でも……今回の
かすかに細められた紅玉の瞳に気づいたのか。ゆっくりと顔を上げたハルの面を、危うげに輝く濃桃色がひたりと捉えた。
「ワザワザ挑発シて、ド派手ニ戦争シかけて……。皇帝陛下は、一体何をするツモリなのか。仮ニ戦に勝ったとシて、ソノ先ニ何を見ているのか。彼が描こうとシている明確なミライっていうのが、何ヒトツわからナイのヨ。どんなに考えてもネ」
「……人の上に立つ奴なんて、皆そんなものだろう。特に、一国の王ともなればな」
眉を顰めるシネインを横目に、ハルがぼそりと言の葉を漏らす。
我知らぬ苛立ちに一瞬揺れたその脳裏を、御前試合の日に見た、謹厳なまでに眩しく白い衣の裾がふと過った。
「治者の言葉は、諸刃の剣だ。使い方を間違えれば、自分どころか国そのものを潰す事になる。心の裡をおいそれと他人に曝すような、馬鹿な真似はしねぇよ」
「……知ろうとスル者を、次々闇に葬ルような事をシてマデ?」
「葬る……?」
突如飛び出した物騒な語に思わず漏れたハルの声を、ため息にも似た呟きがすくった。
「
「…………」
「対象ニなったのは、貴族ダケじゃナイ。自分の親族マデ、徹底的に潰したノ。おかげで、
再度言葉を失ったふたりを、醒めきったチェリーピンクが射る。
困惑と驚きに揺れる彼らの貌を覗き込んだシネインの面には、どういうわけか、不気味なまでに完璧な無表情がはりついていた。
「何モ語らズ、誰モ寄せ付けズ……そんなトップが統べル国ニ、どんな未来がアル?好きカッテに使い倒されるなんて、ワタシはイヤ。だから……ソレをひっくり返シてヤろうと思って、
「未来……」
「ソウ、未来」
ぽろりと零れたアースの呟きに力強く頷き、シネインはおもむろに纏めた髪へと手を伸ばした。
はねた巻き毛の一房から細い指が抜き出したのは、一見ピンと見間違う程小さな巻物。しゅるりと音を立てて開かれたその内には、蟻のように小さく細かな飾り文字がびっしりと書き込まれていた。
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