第5章 4

『……確かに、その通りだ』

 短い科白とともに、赫い瞳がするりと細められる。

 風さながらの疾さで身を翻しながら、男はただ言の葉だけを投げてよこした。

『忠告に感謝しよう。急ぎ行動する必要がある故、これにて失礼する。支配者殿――貴殿も参られよ。全員が揃わねば、話し合いも出来ぬ』

『……分かったよ』

 驚きの余韻を引きずりながらも抜け目なく光るケレスの眼が、毅然と顔を上げたセレナを射る。穏やかに眼を伏せたその横顔に、じっと視線を注いだまま、少年は再び静かに口を開いた。

『‘生ける戎具ヘルファリアム’と女神シュリンガの下僕を従えた、大層風使い。僕にはどうにも見当がつかないけど……君は、どう?心当たりはあるかい?』

 柔らかな囁き声に遅れること数瞬。明るい翠緑玉の瞳が、空笑いを張り付けた少年の貌を捉える。

 僅かに首を傾げて瞬きしながら、セレナは宵にほころぶ夕顔のようにわらった。

『いいえ』

 優雅を体現したかの如き白皙の笑貌は、いっそ絵画よりも絵になったに違いない。

 名画を鑑賞するには虚ろに過ぎる双眸は、乙女のおとがいを、肩を撫で、ゆるゆると降りていく。その視線が、行儀よく揃えられた膝上へと行き着いた時……少年の愛らしい唇は、再び蠱惑の笑みに歪んだ。

『……邪魔したね』

 ひらひらと手を振りざま身を返し、ケレスは弾むような足取りで扉へと向かった。

 尾のように揺れる鮮やかな緑衣の裾を、音もなく歩を進める漆黒が追う。

 ふたつの背が扉の向こうに消えた後も、セレナはただ真っ直ぐに前を見つめ続けていた。

 その緑瞳ひとみに、燦爛さんらんたる陽の如き光輝と……そして、かすかに仄めくひとひらの闇を宿して。




 高い靴音に重なったくすくす笑いは、高い天井の暗がりに紛れて消えた。

『ああ、予想外。全く以って予想外だよ。最高に面白いねぇ』

 ゆらゆらと揺れる小柄な影が、火灯りに染まった白亜の壁を軽やかに進む。

 東の塔と主殿を結ぶ回廊にわんわんと響く声は、まるで何かに浮かされたかのように弾んでいた。

『あの目、あの口ぶり、それにあの笑い方!!さすが、彼の血を引いているだけある』

 なんてプライドだろう――鼻歌混じりにそう呟きながら、ケレスはうっそりと微笑した。

 鮮烈な色彩とともに脳裏に蘇るのは、艶然と微笑み腰掛けた雅やかな少女の像。柔らかなドレスに埋もれるようにして膝に置かれた白いその手は、かすかに……しかし確かに震えていた。

『本当なら、取り乱して泣き喚きたいだろうに。何が何でも弱みは見せたくないんだろうねぇ。深窓のお姫様とたかをくくっていたら、見事にしてやられたよ』

『取り乱す……?』

 後ろを歩くルスランが漏らした呟きを知ってか知らでか、赤く大きな瞳を細め、ケレスは再び言葉を継いだ。

『片割れともども、つくづく興味深い。本当、将来が楽しみだよ』

『……話が見えぬ』

『はぁ?』

 短い科白とともに、規則正しい足音がぷつりと止まる。

 怪訝そうな面持ちで振り返った少年の顔を見据え、ルスランは訝しげに目を細めた。

『先程の会話のどこに、姫が取り乱す要因がある?たかが一賊の行方など、彼女には何の関わりもなかろう。それに……片割れとは、一体何のことだ?』

『……知らなかったの?』

 思わずきょとんとした表情を浮かべたまま、ケレスはひょこりと肩を竦めた。

『関わりなら大いにあるよ。君が撃ち落とした風使いの彼と、セレナ姫の間にはね』

『何……?』

 わずかに鋭さを増したピジョン・ブラッドを戯れめいた視線で制し、少年は薄い唇を三日月のようにつり上げてみせた。

の名前はハラーレ=ラィル。ハラーレ=ラィル・ヴァイナス。‘ルナンの死神グライヴァ・リ・ルナン’を父に、フィルナ西王国の王女を母に持つ――正真正銘、セレナ・ヴァイナス姫の双生児ふたごの兄上さ』

 詠うような言の葉の響きに、切れ長の瞳がわずかに見開かれる。

 一瞬視点を失ったルスランに一瞥もくれぬまま、ケレスは再び軽やかに歩み始めた。

 かつかつと遠ざかる足音とは逆方向へと向けられた赫が捉えたのは、先程彼自身が破壊した扉の残骸。

 死んだような静寂の中に取り残された瓦礫の山と、その向こうに伸びる回廊を、ルスランは例の如く黙したまま、ただ静かに見つめ続けていた。

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