第5章 光の雨の降る夜に

第5章 1

 金銀細工でふんだんに装飾された紫檀の盤上には、白水晶と黒水晶を彫り出した大小様々な駒が並べられていた。

 わずかに逡巡を示した細い指が、白い駒のひとつをひらりと摘む。その動きを興味深げに見つめていた赤い瞳が、無遠慮な驚嘆の声とともに大きく見開かれた。

『……これは驚いた』

 いささか芝居がかった科白に、磨き上げられた駒よりも滑らかで白い面が上がる。

『ちょっと教えただけなのに、いい攻め方をする。大した才能だね』

 美しい盤を載せた――これもまた精緻を極めるモザイクが施された卓に投げ出した腕を起こし、ケレスは黒い駒のひとつを無造作に取り上げてみせた。

『さすがはヴァイナスの血……と言いたいところだけど、ハラーレはてんで駄目だったからねぇ。戦場ではあれほど強いのに、盤上ココではもうひどいのなんの。実戦で勝てないを、よく晴らしたものさ』

 くつくつと笑いながらも油断なく駒を進めるケレスの声に、やや緊張を孕んだ翠緑玉エメラルドの瞳が上がる。血の気よりも蒼さの勝るセレナの貌を面白そうに見返しながら、少年はひょこりと肩を竦めた。

 帝都ランスの中心にそびえる皇宮は、広大な本殿とそこに付属する四つの高楼からなり、中でも東端にそびえる尖塔は一際美々しい威容を持つことで知られている。

 俗に‘東の塔’と称されるその建物は、外部はもちろん、内部もまたありとあらゆる煌びやかな装飾に彩られていた。現在セレナとケレスが向かい合っている客間――‘月のきざはし’と呼ばれる高層階にある部屋のひとつもその例に漏れず、金銀玉を惜しみなく使った職人の技に埋もれている。

 しかし、いかなる雅の海に囲まれようとも、そこはあくまで鳥籠の中だった。

 全ての部屋には私民しみん――ルナンでは、貴族や皇族に世襲的に仕える使用人をそう呼ぶらしい――が控え、乙女の一挙一動をさりげなく……しかし抜け目なく監視している。本殿につながる唯一の回廊にそびえるのは、堅固な鉄扉と柵。塔の中は比較的自由に動き回ることができるものの、外に出ることは件の私民やケレスによって丁重に……しかし確実に阻まれている。

 そのような事実上の幽閉状態に置かれ、はや一週間。セレナの内に溜まった不安と緊張は澱のような物憂さとなり、常に思考の端々をたゆたっている。その憂いは、ただでさえ饒舌でない彼女の口を、さらに重いものにしていた。

『……心ここに在らず、といったところかな』

 かたんと硬い音を立てて駒を置き、ケレスはするりと目を細めた。

『まぁ、無理もないよね。何せ、何もかもが急だったもの。調度が気に入らないとか、私民がうるさいとか……困ったことがあったら、言ってごらんよ。相談に乗るよ?』

『…………』

 甘い響きとは裏腹に隙のない科白に、セレナの貌はますます緊張を増した。

 気を張り続けたせいか、冴え過ぎた頭がひどく重い。瞼の裏に集まった嫌な熱さを持て余しながら、セレナは紫の差し色が入った白いドレスの膝へと視線を落とした。

 儚げに俯いた横顔を、熟れた果実のような眼がひたりと射る。

 絵画の御使いさながらに愛らしい少年の微笑はしかし、目の前の悩める乙女をどこか冷たく諦観しているようにも見えた。

『……やっぱり、少しお疲れのようだね』

 一瞬沈みかけたセレナの思考をすくい上げたのは、相も変わらず軽い調子の科白と……続いて響いた小さな物音だった。

『‘金枝きんしきざはし’――東のココの最上階の部屋の鍵さ』

 思わず上げた視線の先に在ったのは、掌にすっぽり収まってしまうほど小さな、しかし恐ろしく煌びやかな鍵だった。

 黄金を鋳出した持ち手は細やかな花の模様で埋め尽くされ、その隙間を縫うようにして大粒の紅玉ルビー――即ちルナン皇家を象徴する赫い貴石が散りばめられている。

 困惑に揺れる乙女の貌を知ってか知らでか、依然として軽い微笑みを浮かべたまま、ケレスは再び言葉を紡いだ。

『もとは――現皇帝の妹君の居室だったのだけど、二十年前に不慮の事故で亡くなられてね。今は、彼女の蔵書を納めた図書室になっているのさ。憂さ晴らしになるかどうかは分からないけど……気が向いたら、覗いてごらんよ』

『でも……』

『大丈夫だって』

 多分の逡巡が含まれた呟きを事も無げにいなし、ケレスはひらひらと手を振ってみせた。

『自由に使って構わないって、あのひとも言っていたし。それに……きっと楽しめると思うよ?皇妹殿下――サリッサ=ルキア・カルタラス様は、とても優秀な呪法士じゅほうしでね。古今東西の貴書や珍書を、山ほど蒐集していたのさ。フィルナ西王国の‘無翼の魔女’としては、一見の価値があるんじゃない?』

『…………!!』

 苦笑とも揶揄ともつかぬ薄笑いに、柔らかな白絹に包まれた肩が跳ねる。

 悪戯っぽいウィンクの後にするりと細められた目が、大きく見開かれた緑色を捉えた。

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