第4章 5

『……クソ野郎が』

 ぞんざいな仕草で得物を消したハルの声に、ようやく平生の色が戻る。

 しかし、次の瞬間……従兄弟の元へと踵を返しかけたハルが耳にしたのは、傷ついた森を撫でる、涼しげな夜風の歌ではなかった。

「…………!?」

 おさまらぬ土煙を縫い響いたのは、我知らず小枝を踏み折ったかの如く小さな音。

 再度弾けた音を辿って顔を上げ……ハルはそのまま絶句した。

 先程彼自身が築き上げた生木の墓標――その表面が、まるで霜が降りたように白く凍り始めている。

 ぴしぴしと音を立てて盛り上がった氷脈は瞬きする間に瓦礫の山に這い広がり……瞬刻の後、硬い音を立てて一気に砕け散った。

「……そ……んな……!」

 アースロックの唖然たる呟きの中、重い軍靴に踏みしだかれた苔が、植物らしからぬ硬い音を立ててばしりと弾ける。

 触れたそばから凍りつく地面を気にもかけず、はゆっくりと身を起こした。

 薄闇の中で不気味に浮かび上がったのは、皮膚ごと裂かれて無残に変色した漆黒の軍装。

 体中に細かな傷を負ってなお無表情な男の顔には、ダメージの跡どころか感情の漏れ出る僅かなひびすらなかった。

 切り傷と血に覆われた右のかいなが、無駄のない動作でゆっくりと掲げられる。

 裂けた袖から覗く手首にはめられた細い腕輪が、月光を浴びて美しくも妖しい輝きを放った。

「……逃げろ!!」

 思わずフィルナ語で放たれたハルの叫びが空気を震わせるや否や……冷え冷えとした闇は、鞭のように絞られた凍気に引き裂かれた。

 絶対零度の烈風に薙がれた丈高い樹木は瞬時に氷の彫像と成り、玻璃はりのように煌めきながら次々に爆裂していく。

 襲い来る吹雪から必死で逃れたのも束の間、氷の欠片を払って躍り出た刃を危ういところでかわしながら、ハルは呻くように言の葉を紡いだ。

『……冗談、だろ……ッ!』

 火花を散らして噛み合った刃が、ぎりぎりと鈍い音を立てる。

 驚愕に激しく揺れるハルの視線を知ってか知らでか……幾度か瞬きしたピジョン・ブラッドは、相も変わらず嫌味なまでに凪いでいた。

 襲い来る漆黒の刃は相も変わらず冴えに冴え、咄嗟に喚んだ剣を変貌させる隙すらない。

 再び切り結び始めたふたりを映した湖面の月が、凍える呪力ちからの余波に怯えるようにして震える。

 冷え切った夜気と激しい狼狽は、ハルの平常心と余裕とを少しずつ……そして確実に奪っていた。

『…………!?』

 甲高い音とともに跳ね上がった薄紫の刃が、華麗な弧を描いて宙を舞う。

 瞬時に風へと還った得物もそのまま、一度大きく退こうとしたハルの策はしかし、凍りついた地面に縫い止められた右足によって呆気なく潰えた。

 水術に依る分厚い霜から突如這い出た氷の触手に、紅玉の瞳が大きく揺れる。

 何とか振り解くべく風の力を集めようとしたと時には……もう遅い。

 残像すら引かずに翻った常闇の太刀は、悲鳴のような音を連れて一息に振り抜かれていた。

 転瞬……ふたりの間で弾けたのは、真昼の雷にも似た閃光。

 閃光弾のように炸裂した光は、強烈な冷気とともに拡散し、周囲の空気を一気に凍てつかせる。

 限界まで見開かれたハルの瞳に映っていたのは、己の眼前でぴたりと静止した黒い刃と……それを阻むようにして幻出した、分厚い氷の壁だった。

『ニげロ!!』

 下手くそなルナン語の叫びに、甲高い破裂音が重なる。

 大太刀が氷壁を叩き割ったのは、足首の戒めを砕いたハルが大きく退いたのとほとんど同時だった。

 弾けた破片は煌めきながら空気に溶け、細氷のように舞い上がる。

 儚くも美しい奔流越しに立つ人影をみとめた男の視線が、不意にするりと酷薄な色を帯びた。

『……水の術士。私民ではなかったのか』

 切れ上がった赫い瞳が真っ直ぐに射抜いていたのは、遥か後方で両手を付き出した姿勢のまま固まる、短髪の青年の姿。

 あまりの恐怖に声すら出せないのか、まるで瘧にかかったように震え始めたアースロックが、息を呑んで後退る。

 情けなく色を失くしたその横面を、氷さながらの言が再び冷ややかに打った。

『……どうやら、そのほうにも聞かねばならぬことがあるらしい』

 呟きを拾ったアースの瞳が見開かれた時……黒い影は、既に氷塵を蹴散らし飛び出していた。

 未だ硬直から抜け出せぬ身体がそれでも横に動いたのは、まさに勘の賜物であったに違いない。

 すぐ横を行き過ぎた刺突に頬を裂かれ、アースロックは声にならない悲鳴を上げて仰け反った。

 翻された刃はすぐさま風を纏い、崩れかけたその脚を実に巧みにすくい上げる。

 今度は避けきれず、したたかに転げたアースの視界に映ったのは……冷徹なまでに峻厳と輝く双月と、その光を受けて輝く漆黒の刃だった。

『…………沈め』

 驚愕と恐怖が貼り付いた目が、どこまでも冷ややかな虚ろの視線を映して凍る。

 刃が空を割り、鋭い風切り音が耳へと突き刺さったのを最後に……アースロックの視界は、鮮やかな闇の色に呑みこまれていった。

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