第2章 9
耳をあぶる熱気とともに鼻腔を満たしたのは、噎せるような花と炎の香りだった。
うねり逆巻く紅蓮の炎は、小さな門も、手入れされた庭も際限なく焼き尽くしていく。咲き誇る花々を飲み込んだ朱の渦の中で、焼けた岩壁ががらがらと崩れ落ちる。かつて自分の家だったものが崩落する轟音を背に、セレナはようやく蒼ざめた顔を上げた。
『セレナ・ヴァイナス姫か』
深いテノールの響きとともに、緋色の視線が乙女を穿つ。
火の海と化した庭園の中……わずかな距離を置いてセレナと向かい合っていたのは、黒一色の軍装に身を包んだ長身の男だった。
年の頃は、二十を幾つか過ぎた程だろう。
鋭く光る切れ長の瞳は、まるで最高級の紅玉――ピジョン・ブラッドのように
『私はルスラン。ルナン帝国の使者だ。我が至尊の君の
仮面のような表情をぴくりとも動かさず、男は手短に要点だけを告げた。
自分より頭ひとつ分以上も高い位置にあるその顔を、セレナがゆっくりと見上げる。強張ってはいるが真っ直ぐな
『……風を』
『……?』
炎を縫ったか細い呟きの声に、ルスランはわずかに眉を上げた。
『風を止めたのは……貴方ですか?』
『……貴女の呪力は水属性と聞いている。なぜ風の気が読める?』
ふと剣呑な冴えを帯びた赫い双眸に、セレナは硬い貌で沈黙だけを返した。
その反応を何と捉えたのか、指先までをも黒で鎧った右手が、ゆっくりと……しかし確かな意志を乗せて動く。立ち上る焔と張りつめた気色とが、乙女の
一触即発の空気を裂いたのは、彼らの背後で突如として響いた、甲高い呼び声だった。
「セレナお姉ちゃーん!!」
先に顔を上げたのはセレナか、それともルスランか。
色彩も孕んだものも全く異なる二対の双眸が捉えたのは、焼け落ちた門の向こう――花の小道を転がるように駆けて来る小さな影。銀髪のおさげを揺らして走る幼い少女の姿を認めた瞬間、セレナは、己の顔色が変わる音をまざまざと聞いたような気がした。
「大変、大変なの!ハルにいが、ハルにいがね……」
「……レナ!!」
切羽詰まったその叫びに、少女が足を止めた時には……もう何もかもが遅過ぎた。
闇色の腕に招かれ伸び上がった一条の緋が、咄嗟に手を伸ばしたセレナの視界を鋭く薙ぐ。転瞬、鮮やかに燃え盛る焔の鞭は、呆然と竦む少女目がけ、その
『……成る程』
真っ赤な火花とともに散ったのは悲鳴ではなく、爪が氷を掻く音にも似た冷ややかな律動。
相も変わらず冷厳と切れ上がった深紅の瞳は、緋色の鞭と少女……そしてその間に魔法のように割り込んだ青白い盾を見つめていた。
雪の結晶にも似た儚げな形象はしかし、よく見れば明滅を繰り返しながら細かに帯電している。ぱりぱりと音を立てて放たれるその光は猛る焔を塞き止め……そして同時に、その表面を触れた端からじりじりと白く変色させていた。
不可思議な変容の正体を朧げながらに示したのは、二色の境から微かに上がる蒸気。その存在を認めた赫が、するりと虹彩を絞った。
『……氷の雷。水と風の合成術か』
盾の向こうで立ち竦んでいた影が、不意にふらりと力を失う。驚きと恐怖で気を失ったのか……地面に崩れ落ちた少女の姿を視界の隅に捉えながら、セレナは硬い声と視線で応じた。
『……父の
『……‘重複者’か』
短い科白の響きとともに、熱持つ鞭が音もなく霧散する。それを見届けるようにして消えた氷雷の残滓を横目で捉え、ルスランはセレナに歩み寄った。
『風の沈黙は、あくまで一時的なもの。私が去れば、元に戻る』
反射的に後退った乙女の背後で、焼けた石壁が音を立てて爆ぜる。否応なしに足を止めたセレナを至近距離から見下ろし、男は再び低い声を零した。
『もっとも……その時には、貴女にも来てもらうことになるが』
硬度を増した赫眼の光に、セレナはびくりと身を竦めた。
『迎えの船は、市街上空で待機している。貴女が拒めば爆撃を開始するよう、既に命令を下してきた』
『………………!』
感情の欠片も感じられぬ科白が、色の失せた白い頬に驚愕の影を落とす。見開かれた翠の瞳を正面に据え、ルスランは再び平明な声を零した。
『戦の火種となりたくなければ、この手を取られよ。ヴァイナスの姫』
漆黒の手甲に包まれた腕が、炎を過ぎってゆっくりと差し出される。眼前の掌へと視線を落としたまま、セレナは我知らず両手をきつく握り締めていた。
混沌と化した思考の中、地面に伏せた少女を起点に、膨大な数の映像が具現化しては消えていく。いにしえの塑像の如く高潔な叔父の横顔、真面目で人のよい従兄弟の困り顔、沈まぬ太陽のような叔母の笑顔。
脳裏を過ぎる記憶の流れが最後に辿り着いたのは、少し
『……私が行けば他の者には何もしないと、約束して下さいますか?』
喉の奥から絞り出したような科白が、止まった時を再び動かす。うつむくセレナを見下ろしたまま、ルスランは相も変わらず凍えた声を返した。
『事をなるべく荒立てるなというのが、我が君の仰せだ。命には従う』
『……分かりました』
『行きます。仰せ通り……お連れ下さい』
引きつるように強張ったままの顔には、いまだ拭いきれぬ恐怖の色がある。しかし……淡く瞬く翠緑玉の瞳に宿っていたのは、半端な怯えなど全て塗り籠めてしまう程の強い光だった。
それはあくまで穏やかな、しかし恐ろしくしなやかで強固な、
恐怖と諦観の狭間に宿った確かなる闘志をみとめ、ルスランはゆっくりと切れ長の目を細めた。
『……
黒尽くめの男の指が、白魚の手をゆるりと握る。焦げゆく花の香りの中で、ルスランとセレナは無言のままに視線を交わした。
まるで恋物語のような美しいその絵に……しかし甘い夢はない。
契約の証として重ねられたふたつの手は、燃え上がる炎の中でただ冷たく凍りついていた。
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