第1章 6

『はじめてフィルナここに来た時のこと……覚えています?』

 不意に投げられた質問に、ハルが軽く首を傾げる。細められた赤い瞳にふと灯ったのは、郷愁にも似た色だった。

『……とりあえず、驚いたな。皆、父上や俺と奴らばかりだったし……目が合った奴には、何かすげぇ顔で睨まれるし。一体ここは何なんだって、正直ビビったぜ』

『……私も、同じです。何もかもが、恐ろしくてならなかった。あの時は何も知らなかったけれど……明確な敵意というものを見たのは、初めてでしたから』

 ただ訥々と紡がれる妹の科白に、青年が再び口を噤む。

 伏せられたその視線を知ってか知らでか……儚さを纏った乙女の声はしかし、意外な程にしっかりとしていた。

『でも、その中で……母様は、端然と背を伸ばしていました。私達の手を握って、真っ直ぐ前を見て。まるで、何かに挑もうとでもするかのように』

 手に加わった僅かな力に、ハルはゆっくりと面を上げた。

 曇りかけた双眸を覗き込む翠緑玉エメラルドの瞳は、ただ静かに凪いだまま。しかし……その内に宿る鮮やかなまでのたおやかさと、そして自信に満ちた強い光は、先程思い起こした母のそれに大層よく似ていた。

『母様は……よく言っていました。フィルナ人もルナン人も、根本は何ひとつ変わらないと。どちらも、ただのエリアに生きる民。その事を何よりも明確に証明しているのが……私達ふたりだと』

『…………』

 沈黙を守る青年の目を薙ぐ感情の波は、まだどこか荒い。やるせない翳が渦巻く紅玉ルビーの輝きを真正面から捉えながら、セレナは再び口を開いた。

「……歴史は繰り返すものではなく、覆すもの。だから惰性を打ち壊して、争いの連鎖を断ち切って……いつかエリアを繋いで欲しい。フィルナもルナンも、その‘思い’は同じはずだから……」

 詠うように吟じられたのはルナン語ではなく、常日頃聞きなれたフィルナの言葉だった。

 アクセントも調子も違う言の葉は、どちらも穏やかな響きに溢れている。

 ようやく表情を緩めた兄をその双眸に捉えながら、セレナは白百合のように清かな……それでいて、驚く程したたかな微笑を浮かべてみせた。

「でも……そのためには、周りの声も聞かなくては」

 ふと居心地悪げに身じろぎしたハルが、落ち着きなさげに視線を彷徨わせる。

その手を穏やかに……しかししっかりと捕まえたまま、セレナは滔々と言の葉を継いだ。

「上辺の言葉に惑わされるなんて、虚しいだけです。きちんと向き合って……一度、落ち着いて話をしてみて下さい。アースロックが言いたい事も、コーザ様のお考えも……そうすれば、きっと分かるはず。そっぽを向いてしまっては、何も始まりませんよ?」

「……簡単に言ってくれるなよ」

「……あら」

 苦虫を噛み潰したような兄の科白をさらりと流し、セレナは事もなげに緑瞳を瞬かせた。

「困難だからこそ、やりがいがあるのでしょう?」

「……かなわねぇや」

 儚げな雰囲気に気を取られると、時に思わぬ不意打ちを食らう。ごく近しい者のみがその威力を知る大輪の微笑に、ハルは思わず目を細めた。

 あらゆるものを糧に変えてしまう双子の妹の強さは、浮き沈みの激しい彼の感情を不思議にも鎮めてくれる。たったひとり残された大切な‘家族’は、ハルがその心を許せる数少ない相手でもあった。

 青年の拳から緊張が抜けた様を感じたのか、たおやかな拘束がかすかに緩む。

手に絡んだ白い指をさりげなく……それでいて繊細な仕草で解き、ハルは静かに椅子を引いた。

「……そろそろ行く。アースかシェザイアが来たら……」

「うまく言いくるめてくれ、ですか?」

 思わず目を見開いた兄を見上げ、セレナは少しだけおどけた調子で肩を竦めてみせた。

「もう慣れっこです。ひねくれ者の兄上を持つと、苦労しますもの」

「…………」

 人差し指を唇に当てたセレナが、片目を軽く瞑ってみせる。

 その仕草に思わず苦笑しながら、ハルはすっくりと立ち上がった。

「また、ヴィスクのところですか?」

「ああ。何なら、一緒に来るか?しばらく会っていないだろう?」

「……今日は遠慮しておきます。読みかけの本をそろそろ片づけてしまわなければならないし……そのうち日を改めて伺うと、伯母様に伝えておいて下さい」

「分かった」

「……ハル」

 踵を返しかけた青年の背を、不意に発せられた呼び声が止める。

 振り向いたハルの目が瞬時に結んだ像は、花のような声とともに柔らかく微笑っていた。

「気をつけて」

 真っ直ぐに伸びた翠と、少し斜に構えた紅色。

 同じ輝きを持ったふたつの視線は優しく交わり……そしてふわりと離れた。

 後ろ手に素早く手を振ったハルが、跳ねるように走り出す。

 リズミカルな足音とともに遠ざかっていく兄の背を、セレナはただ穏やかな顔で見守っていた。

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