第1章 死神の子
第1章 1
我らが尊き
御前に馳せ参じたるは、闇を纏いし紫の死
その大鎌の一閃は、瞬きする間に砂の数ほどの首を狩り取り
その
彼の狡猾な
~死神公の御出陣 ルナン俗謡集『エルヴァーン』より~
刻まれる鋼のリズムを耳のどこかでとらえながら、フィルナ西王国国王――コーザ・レティルは物憂げに玉座に腰掛けていた。
年の頃は三十路を少し越えた程であろうか。均整の取れた長身を包む儀礼用正装の白は、陽に映える銀髪と深い碧玉の瞳の色を見事に引き立てている。秀でた額を飾って輝く
御前試合と銘打たれた士官学生の武術披露は、別段今回が初めてというわけではない。陽気のよい昼下がり、王宮の庭で大勢の側近達とともに若者達の勇姿を眺めること自体も、決して悪くはない。
むしろ楽しみのひとつですらある催しを眺めているはずのコーザの表情はしかし、どういうわけか、複雑そうに曇っていた。
太古の昔、万物の母たる‘白き女神’の手により生み出されたと言われる広大な浮遊大陸‘エリア’。
その東岸に広がるフィルナ国家連合は東、西、南、北の四国によって統治されているが、各国にはそれぞれ王制が敷かれ、王が独自に政を展開している。
コーザ自身もその例に漏れることなく、時には国の象徴として、時には雄々しき指揮者として、民の為に力を振るってきた。
その五十年近くにも及ぶ尽力の甲斐あってか、「水の都」と称される首都レアルを擁する西王国は、フィルナ連合の中でも一、二を争う富国として名高い。
豊穣な自然の恵みはあまねく国を潤し、活気溢れる都市にはフィルナ中の商人が交易に集まる。賢君と名高い国王の支配は的確に国を導き、民は国家の一員たる誇りと希望を持って日々を過ごしている。
国が国であるにあたっての不安要素は、そこには何もない。
ただ一つの――しかしながら最大級のある脅威を除けば、フィルナ西王国はすこぶる‘平和’な国だった。
虚ろな瞬きを繰り返していたコーザの視線が、再び前へと飛ぶ。
禁裏に特別に設けられた円形競技場で剣を交えているのは、二人の若い男だった。
一人は立派な鎧に身を固めた、筋骨逞しい偉丈夫。身の丈程もあろうかという巨大な剣を軽々と振り回す姿は、若いながらも堂々たる武者振りを示している。
一方、もう一人は――相手に比べれば、圧倒的に貧弱な体躯の青年だった。
小柄な細身を鎧うのは、真っ白い士官服と刃の薄い長剣のみ。その様はいかにも頼りなく、むしろ憐れみめいた不安を抱かずにはいられない。
ほんの数分前に開始されたばかりであるにもかかわらず、既に、戦いの優劣ははっきりしていた。
小柄な青年が、大男を圧している。
太い腕で振り回される大剣の撃は、決して遅くも鈍くもない。しかしながら青年は、そのすべてを実に巧みに捌いていた。風を巻いて踊る手足の運びは、まるで羽のように軽い。
息を切らし始めた相手の姿にいい加減潮時を感じたのか、青年の太刀筋は、いよいよ冴えに乗った。
衰えを知らない
円の縁でたたらを踏み、ついに男の足が崩れる。その隙を嘲笑うかのように響いた高い靴音は、観衆のどよめきの中に溶けた。軸足をばねに舞い上がった青年の剣は、既に最上段に振りかぶられている。
その姿を仰ぎ見た敵手の瞳がようやく存外の恐怖に染まった、その瞬間。
彼は薄い笑みとともに、迷わず腕を振り下ろしていた。
「それまで!!」
鋭い静止の声に、岩砕の音が重なる。
王の言葉が発せられたほんの数瞬後、青年の手に握られていた剣は対戦相手の肩を掠め、おもいきり地面に叩きつけられていた。
「もう十分だ。双方、剣を納めるがいい」
へたり込んだままの巨躯にねぎらいの一瞥を遣り、コーザは静かに立ち上がった。
裾を払い玉座を降りたその背を、銀の鎧の騎士――シェザイア・リングルが追う。鷹のような目をした五十年配の男の表情は、いかにも軍人らしく謹厳に引き締まっている。大将軍としてフィルナ西王国軍を率いる彼は、コーザの信頼厚い腹心の部下でもあった。
控える人々の合間を縫って競技場に上がったふたりは、勝者である青年へと歩み寄った。しかし、その表情はどこか硬い。コーザとシェザイア、そして青年――向かい合った三者を見つめる観客のさざめきは、不思議な緊張となって会場を覆った。
「見事な腕だ。これからも精進するように」
妙な雰囲気を打ち消すかのようにして紡がれた科白に、青年がゆっくりと顔を上げる。
刹那……コーザの両目を正面から射たのは、見事なまでの緋の輝きだった。
いかにも負けん気が強そうな青年の瞳は、まるで血のように赤い。最高級の
‘白き女神’の祝福の証たる銀髪、緑瞳とは明らかに異なる、強烈なコントラスト。
淡い色味を纏ったフィルナ人が居並ぶ中、その妖しいまでの存在感は明らかに異質だった。
喧騒はいつしかすっかり静まり、観衆は皆息を詰め、眼を凝らして三人を見つめている。しかし、その奇妙な注目の中……当の青年は、怯むことなくコーザを見返していた。
謹厳に伸ばされるべき両腕は尊大に組まれ、立つ姿勢はどこか適当ですらある。王の御前に控える者とは到底思えぬその姿を目にしながら、コーザは静かに口を開いた。
「……ハル、何か不満が?」
「別に」
緑眼を射抜いた切れ長の瞳に、不意に不敵な色が宿った。
「他人の勝負を邪魔するとは、ずいぶんな仕打ちだと思っただけさ。あんたらしいな」
挑戦的な切口上に、コーザの眉がぴくりと動く。それに気づいているのかいないのか。ハルと呼ばれた青年は不敵な笑いを浮かべたまま、再び科白を吐き出した。
「……茶番は御免だ。こんな場所に引っ張り出すんなら、きちんと
軽く肩をすくめたハルがひょこりと掲げたのは、右の腕を隙なく覆った深紫色の
金属ならではの優美な曲線を描くその表面には、フィルナではあまり見かけない、しかし恐ろしく細やかな模様が彫り込まれていた。手の甲に当たる部分に嵌め込まれた宝玉は、
不意に厳しさを増したコーザの顔を面白そうに覗き込み、ハルはするりと目を細めた。
「そりゃあ無理か。未来の将軍候補さま方の大事な首を、俺に吹っ飛ばされるわけにはいかないもんな」
「時と場所をわきまえろ。ここをどこだと心得ている?」
節度を越えた士官候補生の態度に、シェザイアがとうとう声を上げる。
しかし、泣く子も黙るに違いないその恫喝は、ハルをますます
「ああそうか。なら、俺は帰らせてもらうぜ。こういう場所には、相応しくないだろう?」
答えも待たずに地を蹴った足が、ひらりと円を降りる。
再度声を上げようとしたシェザイアを制したのは、感情の揺らめきを寸分も感じさせぬ、翠緑玉の瞳だった。
「ハラーレ=ラィル・レティル」
決して大きくはないが凛とした声に、ハルの足はぴたりと止まった。
佇んだ後姿は、しかし決して振り向こうとはしない。
その背からあくまで視線を外したまま、コーザはただ淡々とした口調で言葉を紡いだ。
「只今の不敬の処分は、追って伝える。式典が終わるまで、王城にて待機するように」
再び静まり返った空気の中、王衣の裾を払う音は、不気味なまでに鮮やかに響いた。身を翻して玉座へと戻るコーザの歩みに、青年の靴音が重なる。
高く音を立てて鳴らされるふたつの踵は、まるで時計のように正確なリズムを刻みながら、ゆっくりと離れていく。
ふたりは結局振り返ることもなく、それぞれの歩を進め続けた。
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