第5話 暴力事件
「そうそう、これが重要なのですけれど」
リリアーシャが黒い駒を盤上に滑らせながら、思い出したように声をあげた。表情は変わらないので、言い忘れたことに対し悪びれた様子などは一切伺えないのだが、アウレリウスは先ほどから何やら嫌な予感がして仕方がない。どうやら相槌を待っているようなリリアーシャに、道を塞ぐ黒い駒を白い駒でコトンと蹴倒し、倒れた黒い駒を拾い上げながら続きを促すようリリアーシャの瞳を窺い見た。
「なんだね、言ってご覧」
「わたくしが、理由もなく特待生に暴力を振るうのだとか」
本日二度目の思いもよらぬ発言に、今度は驚きではなく笑いが先にきた。目を剥いて頬を膨らませ顔を耳まで真っ赤にし、気品に溢れる王族らしからぬ形相で必死に笑いを堪えている。腹を抱えてテーブルの盤のない場所に顔を突っ伏せば、テーブルにゴトンと王冠が転げ落ちる。王冠はそのままテーブルを転がり、ゆっくりと床へと落ちていった。ゴツ、と硬い音が足元から響いた瞬間、アウレリウスは耐えきれずに笑い出してしまった。
「ははははははっ! 可笑しなことを! 言うに事欠いて、暴力だと?」
余りに有り得ぬ言いがかりに、どうしても笑いが我慢できなかった。リリアーシャは賢い子だ。暴力を振るう振るわないの話ではない。
力がないのだ。
幼い頃からチェスしかしてこなかった深窓の令嬢は、飲み物で満たされたグラスやカップをひとつ持ち上げるのが精一杯なほど、非力なのである。テーブルマナーを身につけるうちにナイフやフォークは扱えるようになったが、切るために力を込める必要がある肉などは既にカットされた状態で出てくる徹底した箱入り振りだ。学術品はノートを2、3冊持つのがやっとで、幼馴染みの令嬢たちが教本や辞典を運んでくれる甘やかし体制だ。お茶会や立席パーティでは小鳥の餌遣りの如く、リリアーシャに「あーん」を迫る令嬢たちの壁が出来上がる。
赤子の手を捻るどころか捻り返されてしまう細腕の少女がたとえ叩いたところで撫でられた程度のものだろう。何度でもいうが、リリアーシャの私生活は監視され、報告がされている。今までにリリアーシャが暴力を振るったという話も、重いものを持ったという報告すら一向に見たことがない。寧ろそんなことがあれば伯爵が「反抗記念」と称して祝賀会でも開きそうな勢いである。
「笑い事では御座いません、現に特待生は怪我を負っているのです」
「……なに?」
ひぃひぃと息も絶え絶えに笑い転げているアウレリウスの代わりにリリアーシャが身を屈めて王冠を拾い、赤いツツジの花が小さく刺繍された白いハンカチで丁寧に拭きながら言えば、アウレリウスは即座に笑いを収めた。磨き上がった王冠を受け取り頭の上に乗せ直してから、怪訝そうな顔で少女を見つめ返す。
涼しげな表情を浮かべるリリアーシャからは、憂いなどといった感情は窺えない。
「わたくしが階段から突き落としたそうですわ」
「……それは、笑えぬなぁ」
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