第52話 芋くさ夫人、幹ドンされる

 避難所の準備が完了し、私のワイバーン飛行が様になった頃、いよいよ新月の日がやってきた。

 

 年に数回訪れるこの日には、魔獣が大量発生して人里を襲う。それには理由があった。

 魔力というものは満月ほど安定し、新月が近づくにつれて不安定になる。

 それはどの生き物でも同じ。

 

 ただ、人間がほとんど月の影響を受けないのに対し、魔獣の中には新月に体内の魔力を調整できず酔った状態に陥る種類がいる。

 人間を襲う魔獣が魔力酔いにかかると、手がつけられないくらい凶暴化し問答無用で人里に突っ込んで来るのだ。

 

 自然豊かで魔獣の多いスートレナ領は、昔からこの問題に頭を悩ませていた。

 それを防ぎ人々を守るのがナゼル様のお仕事。頭では理解している。

 けれど、心配なものは心配で、彼を送り出さなければならない私は玄関先で落ち着かない気持ちにかられた。

 屋敷のメンバーも揃って、まだ明るい昼のうちに皆でナゼル様を見送る。

 

「ナゼル様、お気をつけて」

「うん、行ってくるね。アニエスも気をつけて」

「私は平気ですが、ナゼル様が心配です」

「そんな顔をしないで? 俺は無事に戻ってくるから」

 

 皆の前でナゼル様は私の背に手を回し、首元に顔を埋める。

 たまたま襟ぐりが広めのドレスを着ていたため、彼の息が肌に当たってくすぐったい。

 

「アニエス、君から見送りのキスが欲しいな」

 

 ナゼル様は去り際に耳元で大胆な要求を囁いた。ボッと私の顔から湯気が吹き出しそうになる。

 

「キ、キス? あの、屋敷の皆の視線が気になって」

「恥ずかしいの? それなら……」

 

 私の手を取り、玄関を出て庭に移動するナゼル様。

 屋敷のメンバーも気を遣っているのか、外までついてくることはない。

 

 もしや、言い逃れできないように先手を打たれたのでは?

 庭先に生える大きな木の前で立ち止まり、「さあ、どうぞ」というように、にっこり笑うナゼル様。いい笑顔!

 最近思うのだけれど、ナゼル様はこういうとき少しだけ意地悪だ。

 でも、危険な地に行く彼が望むのなら、いろいろかなえてあげたい気持ちになる。

 

「わかりました。ちょっとだけ屈んでください」

 

 ナゼル様はすらりと背が高いので、私の身長ではキスしようにも彼の顔に届かない。

 

「それから、こっちは見ないで。目は閉じて……」

 

 何かと注文の多い私。

 ナゼル様はそれすら嬉しいというように、言われたとおりに動いてくれた。

 木漏れ日が差し込み、美しいナゼル様の顔を照らす。造形が整っていて本当に格好いい。

 覚悟を決めた私はぎゅっと目をつむり、彼の唇に押しつけるようなキスをした。

 

 ひゃぁああーー!

 恥ずかしすぎて、頭が沸騰しそう!

 

 ゆっくり目を開けたナゼル様は、ささっと離れる私を素早く捕獲する。

 ぐるんと体が回転し、気づいたときには大きな木の幹にもたれかかる体勢になっていた。

 そして、目の前にはナゼル様がいて、私の体の両側に手をついている。

 

「嬉しいな、アニエス。キスは頬にと思ったけれど、まさか唇にしてくれるなんて」

 

 熱い視線を送られ、ボボボッと頬の熱が増した。

 

「……目を閉じたし、そういう流れでしたよね?」

 

 木とナゼル様に挟まれて身動きできない私は、なぜか目の前の彼から危険を感じてしまう。大好きな夫を見送るはずが、どうしてこうなったの?

 

「アニエスは本当に可愛い。大丈夫、仕事なんてすぐに終わらせて帰って来るから」

「はい……どうかご無事で」

「前にアニエスに『物質強化』のおまじないをしてもらったし、平気だよ」

 

 あれは気休めで施した魔法で、人体に変化はないと思う。

 そのあと、私を拘束したまま、髪や顔や唇に好きなだけキスしたナゼル様は、大変機嫌良く仕事に出かけていった。


 残された私も、避難所の切り盛りを頑張らなければならない。

 屋敷の門前には避難してきた人々がちらほら並び始めている。まだ少ないが、これから増えるだろう。

 

「ケリー、そろそろ門を開けて、彼らに広間へ入ってもらいましょう。広間だけで足りると思うけれど、オーバーするなら事前の打ち合わせ通り、予備の空き部屋を順に使います」

「かしこまりました、アニエス様」

「受付はモッカとローリー、案内はマリリンに。あなたは臨時で雇ったメイドたちの指揮をお願いします。喧嘩や悪質な避難者などのトラブルがあれば、トッレが玄関前で待機しているから彼を出動させて。私は広間に移動するわ」

 

 屋敷の中にぞろぞろと避難してきた人々が、最低限の荷物と共にやってくる。

 ここへ来た領民は皆不安そうだ。

 ナゼル様が用意してくれた、仕切り用の植物やふわふわのマットになる植物を並べ、一人一人を励ましていく。大人数の食事はメイーザと臨時で雇った料理人たちが作っている。

 

 領主の屋敷の使用人は不人気職だったが、ここ最近急激に評判が上がったようで、臨時とはいえ多くの人が求人に応募してくれたのだ。新月の夜に安全な場所で過ごせるメリットもあるしね。

 

 時間になると屋敷の門を閉め、皆には一晩をここで過ごしてもらう。

 魔物が活発化する夜まであと少し。

 

「今夜は眠れなさそう……」

 

 砦の方角を見つつ、私はまたナゼル様の安全を願った。

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