カジノ

しまおか

第一章

 きらびやかなシャンデリアの下、大きなテーブルを囲む人達が一斉に息を飲んだ。カラカラと音を立てながら回る小さな白い玉の行方を、皆がじっと見守っている。ホイール盤の回転が徐々に遅くなり、黒と赤の番号が読み取れるようになった。

「来い!」

「赤よ! 赤!」

「黒だ!」

「二十五!」

 それぞれが置いたチップの先を口に出す。さらにルーレットの回転が弱まり、遠心力を失った玉がレールから外れ、カタカタと踊るように跳ねだした。数字が書かれ、色が別れている仕切りをいくつか飛び越す。やがて一つの枠の中へスポッと吸い込まれるように納まった。

 途端に溜息と歓声が混じり合う。感情を剥き出しにした悲喜こもごもの集団の中、唯一ポーカーフェィスをしたディーラーが冷静にコールした。

「黒の十三」

 同時に長い木の棒を使って外れたチップを回収し、当たった所にチップを押し出していく。補助員の立川たちかわしょうは、賭けていた客の手元へ素早く戻す手伝いをした。

 テーブルの周りに固定された椅子はほんの一部しかなく、今そこには誰も座っていない。その代わり皆車椅子に腰かけている。なぜなら客全員が要介護、または要支援の高齢者だからだ。

 よって一部にはテーブルと高さが合わず、チップに手が届きにくい客もいる為、賭ける時や回収する時には手助けが必要となるのだ。

 周囲にある別のテーブルからも、先程と同じ溜息と歓声が聞こえてくる。他にもスロットマシーンのレバーを引く音や、コインが落ちる衝突音が部屋中に響き渡っていた。

 ルーレット台の傍に立つ電子盤の表示が変わる。先程出た黒の十三が一番上に灯り、その前に出た赤の三十六など直近十回までの数字と色が示されていた。それらを参考にして、次は何が来るのか傾向を予想する客もいれば、全く無視をして早々にチップを置く者もいる。

 少し間を取った後、ディーラーが上部にあるノブ捻ってホイールを回し、次のゲームが始まった。しかしまだどこに賭けるか決めていない人が大半だ。玉が投入されて時間ギリギリまで粘る客もいた。賭けるタイミングが遅い客達ばかりだと、補助員は忙しい。テーブルには翔の反対側に、もう一人いるだけだ。

 今は十人の客に対し、二人で対処している。全員がギリギリまで賭けないと、間に合わないこともある。よって普通のルーレットより、制限時間は早めに設定していた。それでも相手は高齢者だ。しかも体の不自由な客ばかりの為、動きや判断が遅いのも致し方ない。

 だからと言って客は客だ。思っていた所と違う場所に賭けたり、制限時間を過ぎて間に合わなかったりすれば問題になる。大金がかかっているので、相手も真剣だ。いい加減な対応はできない。

 ここは介護施設内にあるような疑似カジノ場ではない。もちろん裏カジノでもなかった。まさしく本物のお金をチップに換えて賭ける、本物のカジノだからだ。

 数年前に国会を通過したIR法案を基に設立された、日本初の本格的な統合型リゾートの中にある合法なカジノ施設であり、その中でもここは高齢者専用のVIPルームである。 

 しかし介護施設で長年働いていた翔には、意思の疎通が難しい相手でも、慣れてくれば比較的楽に対処ができた。もう一人の補助員は他のスタッフの中でも若く経験も浅いため、かなり苦労をしている。だからこそ翔はこの部屋で重宝されていた。

 指名されることもあった為、ポーカーやバカラ等他のテーブルに付く場合もあった。いつも大金を賭けてくださるお得意様や高額なチップを払ってくれる場合などは、融通を効かさなければならない。だが基本的には最も補助を必要とし、俊敏性が必要とされるルーレットの台が翔の定位置となっていた。

 ホイールの回転と逆方向に、玉が回り続けていた。翔ともう一人の補助員が、まだ賭けていない客の一人一人に声をかける。どこに置くのか、今回は見送るのかの判断を確認していく。

 翔の担当する五人の内、今回は様子を見ることにした人が二人、既に赤へ賭けると決めている人が一人いた。その為残りの人達の意思を迅速に聞き取り、置きたい場所へとチップを移動させた。もちろんそこで間違いないか再確認をする。

 問題ないと判断し、次いで残りの五名の高齢者達を見た。するとまだ決め切れていない客が二人いるようだ。制限時間が迫る中、その内の一人と若い補助員が揉めていた。その為もう一人は取り残されてしまっている。翔は慌てて駆け寄り声をかけた。

「どこにしますか? 赤? 黒? チップは何枚?」

 この客は先程も、そのどちらかに賭けていたことを覚えていたからだ。時間が無い事は客も判っていたらしく、急いで指を差した。

「あ、赤に二枚」

 すぐさま目の前に積まれたチップを指定された場所に置き、相手の目を見て間違いないかを確認すると、相手は満足げに頷いた。もう一人の客もようやく決めたようで、若い補助員がチップを急いで置いた。そこでディーラーが声をかける。

「ノー モア ベット」

“もう賭けないでください”と言う意味だ。後は白い玉がどこに落ちるかを待つだけだ。客と同様、翔も息を詰めその先を見つめていた。そんな時、大きな怒鳴り声がした。

「こ、こんなものイカサマだ!」

 思わず振り向くと、ポーカーの台から聞こえてきたようだ。どうやらその中の一人の客が、負け続けていたからか逆上しているらしい。しかも顔がほんのり赤く、酒を飲んでいるように見える。

 その台についている補助員達が慌てていた。厄介な事にならなければいいが、と心配しながら翔は横目で伺っていた。するとその客が突然胸を抑えだした。これには周囲の従業員達も驚いたようだ。

「だ、大丈夫ですか」

 これはまずい。テーブル周辺には介護経験のある者がいなかった。この高齢者用VIPルームには、翔の他にも介護資格を持った者や、看護師資格を持った女性従業員も僅かながらいる。

 しかしざっと見渡す限り、翔の見知った資格者が見当たらない。恐らく当番から外れているか、別のテーブルについているようだ。

 もう少しでルーレットの玉が穴に落ちるタイミングだったが、翔は迷わずディーラーともう一人の補助員に声をかけた。

「あのテーブルのヘルプに行きます。こちらの台をお願いします」

 相手は有料老人ホームの住人、またはデイサービスを受けている高齢者だ。一刻を争う事態も考えられる。その為二人は頷いて、翔の行動を促した。

 駆け足で客に駆け寄り、傍にいた補助員を撥ね退けて車椅子に架けられた介護者カードに目を通す。そこには現在の健康状態や、どのような介護が必要なのか等の個人情報が書かれているからだ。

 万が一の場合の対策として、施設から高齢者を連れてくる際にはそうしたカードを用意しておくことが徹底されていた。本来面倒を看るべき施設の人間からカジノ側が預かっている為、利用者の情報が必要となるからだ。

 名前は水橋みずはしきよし、年齢は八十歳で脳梗塞により半身不随との記入があった。だが心臓など他の内臓に問題があるとは書かれていない。

「失礼します」

 まだ苦しんでいる水橋の両手は、胸を抑えて塞がっていた。そこで脈を取るため、翔は一声かけてから首の頸動脈付近に手を当てた。少し早いようだが、不整脈ではない。酒が入っているため、興奮して心臓に負担がかかったのかもしれないとも思ったが、そういう訳でもなさそうだ。

「痛いのは胸だけですか? 頭は痛くありませんか?」

 念のため尋ねると、彼は首を縦に振って右手を胸から頭へと移動させた。そこで翔は疑問を持った。この患者は右脳の脳梗塞で左側、特に下半身が麻痺しているはずだ。それなのに比較的よく動く右手を動かし、左の頭のこめかみを抑えるのは不自然だろう。脳梗塞を起こした個所が痛むなら右側が正しい。

 左脳に障害が起きたとも考えられたが、お酒を飲んでいることと、リハビリは順調で回復途中にあり、適度な飲酒なら可との記載があった。脳梗塞や脳卒中は飲み過ぎると危険だが、適量ならば逆に効果的との研究結果も出ている為だと思われる。

 そこでテーブルについているディーラーに小声で尋ねた。

「この方はどれくらい負けていました?」

 不安気に様子を見ていた彼は、翔の質問で我に返ったのか真顔に戻り答えた。

「一千万を超えたところです」

「それは今日の負け分ですか? これまでの累計ですか?」

「今日だけです。累計だと一億はいっているでしょうね」

 翔は水橋を別室へ運ぶよう指示した。こうした緊急事態に備え、隣には医師と看護師が二十四時間待機している診療所がある。そこはカジノだけではなく、IR施設全体の入場者に急病人が出た場合、対処できるように整えられた医療施設の一つだ。そうした場所がある為、高齢者用のVIPルームがそのすぐ隣に作られたと言っても過言ではない。

 直接裏口と繋がっている扉を開け、彼を車椅子ごと運びこんだ。既に事情を聞いていたらしい医師と看護師が駆け寄る。しかし当の水橋は暴れ出し、彼らが体に触ることを拒んだ。

 その様子を見て翔は確信し、問いかけた。

「水橋さん、もうお芝居は辞めたらいかがですか。本当はどこも痛くないのでは? ただ負けが込んできたから急病になった振りをして、今日の負け分だけでも誤魔化そうと思った。そうでしょう?」

 時々いるのだ。彼らは裏の手を使って出入りしている。もし彼らが倒れたりすれば、カジノ側の責任問題になる事を知っていた。本来ここにいるはずのない人間が万が一にも急死すれば、カジノ全体を揺るがす騒ぎになるだろう。そう見越して仮病を使い、なんとかその場を乗り切ろうと企むのだ。

 しかしそんな手は通用しない。検査すれば健康状態に問題があるかどうかなど直ぐ判る。こちらもそんな程度では騙されない。しかも実際死んでしまった場合に備え、別の場所で亡くなった事にする程度の段取りは、事前に手回しされている。

「ツケが相当溜まっていますし、そろそろ見切り時じゃないですか」

 翔の言葉を聞いた水橋の顔は青冷めた。

 すると他の従業員に呼ばれたのだろう。高齢者用VIPルームの責任者である足助あすけ学人がくとが、屈強なボディガードのようなやからを引き連れて診療所に入って来た。

 彼が現れた途端、部屋にピリピリした空気が漂う。翔の体も無意識の内に強張った。それほど彼らは恐れられているからだ。

水橋が倒れたと聞き、同じく勘が働いたに違いない彼は、ドスの利いた声を出した。

「おい、さっさと検査をして直ぐこいつが通っている施設へ送り返せ。もし本当に異常があるなら、その後に病院へ連れて行く手筈を取れ。そうでなければこのまま追い返すだけだ。いずれにしても、こいつは今日限りで入場を禁止する。もちろん今までのツケは全額払ってもらう。預かり金だけでは足らないようだから、他の資産の差し押さえ手続きに入る。いいな、水橋の爺さん」

 言い終わると後ろにいた男達に顎で指示する。それを受けた彼の部下の一人が、スマホを取り出し電話をかけ始めた。おそらく水橋が通っている施設の担当者に連絡しているのだろう。

 もう一度水橋のカードを見て、施設名と担当者名を確認した。そこは翔も良く知っていて、担当者の真壁まかべも以前からの顔見知りだ。

 真壁直樹なおきは学人や翔の三つ下の後輩で、小学生時代からいつも使い走りをやらされていた。その関係は翔と似ている。上手く利用され脅されて協力している介護職員というだけではない。翔と学人は小中と同じ学校に通っていた同級生だ。そして真壁同様、学人には長い間苛めを受け虐げられていた。

 目の前にいる水橋は既に観念したらしく、胸や頭を押さえていた手をぶらりと下げ、項垂れている。一億円の負け分を支払わされることに衝撃を受けているのか、それとも今後カジノへの出入りを禁止されたことに落胆しているのかは判らない。

 ただ学人がストップをかけたということは、水橋の持っている総資産は二億円程度のようだ。回収に負担がかからない様、総資産の五割を超えた時点でVIP資格は剥奪される。これまでの負け分が清算されるからだ。

 というのも資産家の財産は有価証券や預貯金など、流動性のあるものばかりではない。不動産や建物など、差し押さえや処分に手間がかかる場合が少なくなかった。

 悪徳業者であれば、全ての財産をむしり取るまで融資をするだろう。しかしそれには危険が伴う。またIR法で禁止されている行為の為、危ない橋を渡るわけにはいかない。

 だが水橋は既にギャンブル依存症となっている。例えこれまでのようなVIP扱いが受けられなくなっても、資産のある限りカジノへは通い続けようとするかもしれない。彼のような嫁も子供もおらず、頼りになる身内もいない孤独な人は特にそうだ。

 遺産は弁護士が後見人となって管理しているとカードには記載されている。下半身に麻痺が残る身であり、八十歳と高齢だ。その為お金を持っていても使い道はごく限られる。あの世に金は持っていけない。日本にはそうした高齢者は多くいるのだ。

 そこに学人達は目を付けた。デイサービスなどで行われている疑似カジノに嵌った老人や、日頃から宝くじやパチンコ、競輪、競艇、競馬などに興じている金持ちの高齢者は少なからずいる。彼らはそうした人材を見つけるとここのVIPルームへと招待し、カジノに金を落とさせるシステムを作り出していたのだ。

 しばらくして学人に呼ばれた直樹が現れた。駆けつけた彼はごねる水橋を黙らせ外へ連れ出した。そして彼が本来通っている介護施設の車へ強引に押し込み、念のため病院へと向かったようだ。万が一、何か異常が見つかってはいけないと判断したらしい。

 だがおそらく何も問題はないだろう。あっても介護施設内でレクリエーションをしている途中、発作が起きたことにすればいいだけだ。施設側に返してしまいさえすれば、カジノ側は負け分を回収することに専念できる。しかも水橋の場合は身寄りがいない為、相続などで揉めて騒がれる心配もない。

 学人は直樹達の退出と同時に救護室から出て行った。今頃は水橋の資産を管理している後見人の弁護士にでも電話を掛けているのかもしれない。もちろんその弁護士も直樹同様、学人の息がかかっている。ツケの回収もスムーズにいくだろう。なぜなら仲介に入る弁護士には、カジノ側から通常より多い手数料が支払われるからだ。

 小金を持っているからといって、負け分の回収段階でトラブルが起きては困る。カジノの運営免許の関係上、騒ぎになることはできるだけ避けたい。その為VIPルームへ出入りできる客は、事前に厳密な調査を受け、リスクが少ないと判断された者に限られていた。

 水橋達が去った為、翔はいつの間にか両手に掻いていた汗を拭い、部屋の持ち場へと向かう。胸の中では冷たく乾いた風が吹いていた。大きなトラブルに発展しかねない案件を無事片付けることができたが、そこに達成感など無い。それどころかまたやってしまったと後悔する小さな棘が心に突き刺さっていた。

 それでも冷静な表情を保ちながら、部屋に入る。中は何事も無かったように変わらない。それぞれの台で一喜一憂している高齢者達ばかりだ。

 翔はルーレット台に付き、代わりに入ってくれた従業員に声をかけて交代した。ディーラーと他の補助員達が目だけでこちらを向いていた為、大丈夫という意味を込め頷いてみせる。それだけで理解したのだろう。皆少しだけ安堵した表情を見せた後は、通常業務の顔に戻して淡々とゲームを進行させていく。

ようやく見慣れたルーレットを眺めていると、翔はまるで自分の人生の縮図のように感じることがあった。

 盤が回る度に転がされる白い玉は、コンコンと跳ねながら区切られた三十八枠のいずれかに必ず収まる。今度は赤か黒か、それとも奇数が偶数か、はたまた一から十二までの間かと客達はその行方を見守っているが、所詮限定された空間でしかない。

 どの数字が命の誕生で、幼稚園や小学校の入学、卒業を意味し、就職や結婚を表しているのだろう。中にはそんな枠など存在しない人もいるかもしれない。だが病や死の枠だけは誰にでもあるはずだ。そして白い玉はいずれ間違いなくそこに落ちる。

 翔の場合はどうだろう。生を受け、小中高校の入学と卒業、そして二度の就職を経験したから、その枠には既に落ちている。しかし次はどこへ嵌るのか。いずれにしても幸せを感じる枠だけは無さそうだ。母が翔を産んだ時点で、盤は決まっていたのだろう。それは死を迎えるまで解けない呪縛にかかっている。よって翔は目に見えない鎖にまとわり憑かれた一生を過ごさなければならない。

 そこで翔は我に返った。目の前にいる客のフォローに神経を向けた瞬間、先程までの出来事と思考を頭から強制的に消し去った。

 翔は福祉系の高校を卒業し、介護福祉士の資格を取得した。その後正式に就職し、三十五歳になるまでの十数年間真面目に働き続けてきた介護施設を昨年辞め、今はカジノ施設の従業員だ。

 それでも年収約二百五十万円から始まり、辞めた頃でも四百万円程だった給与は、五百五十万円に跳ね上がった。ディーラーを勤めれば客からのチップも含め、さらなる昇給が望めるらしい。

 といっても拘束時間は長い。一人暮らしの為、朝六時半には起きて朝食を作って食べ、八時頃出社して高齢者を迎えに行き、カジノで仕事をする。夕方に高齢者を返した後は、早ければ六時に帰ることも出来たが、大抵は残業があった。手薄になった他のテーブルを手伝わされることが多かったからだ。その為遅くなると夜九時過ぎになることなど当たり前である。休日出勤がある時など、十二時過ぎまで働かされることもあった。 

 翔の仕事はあくまでテーブルに付く客の補助であり、高齢なVIP客のフォローが中心だ。それでもディーラーに何かあった場合に備え、交代してテーブルを任されてもいい程度の技術と知識は研修で学んでいる。だが翔の性格からして、ディーラーは向いていないことを自分でも判っていた。

 やはり長く務めてきた経験から、高齢者を相手にしている方が精神的にも楽であり、カジノ側からも適任と見なされていた。さらには介護施設の主任として、若い介護士達に対する指導経験があったからだろう。一年も経たない内にテーブル補佐の取りまとめ役を任された。

 その為水橋が起こしたようなトラブルの際には、率先して動かなければならない。そうした実績を積み重ね、客の様子からどのような行動を次に行えば良いかの判断が適格だと評価されてきた。これも十年以上、様々な高齢者達を見てきたからだろう。

 施設にいた頃でも水橋のように、仮病を使って介護士達を困らせようとする利用者対応は何度か経験している。怒鳴り散らしたかと思えば、身内の愚痴を延々と喋り続け、泣き始める人もいた。そうした高齢者をなだめ、時には叱咤したこともある。間に入って困惑している後輩達を助け、または指導することも多々あった。

 例えば女性の担当介護士にセクハラする高齢者がいた時のことだ。被害を受けていたのは、翔より六歳下の深野ふかのという当時はまだ二十代前半で経験が浅い担当者だった。

 介護士の仕事は給与の割に肉体的、精神的な負担が大きい。その為離職率は十数%と高く、それが慢性的な人手不足に繋がり、さらなる不満が募るという悪循環が生まれるのだ。

 どこの職場でも起こりえる人間関係から生じたストレスに加え、利用者とのコミュニケーションも難しい。その為若い頃は高い志を持って仕事に取り組んでいても、働く内に厳しい現実の壁へとぶち当たる。

 そんな中で長く働き、介護福祉士が天職だと思っていた翔にとって、後輩達が悩み苦しんで辞めていくことはとても辛かった。もちろん人手が足りなくなり、一人当たりの仕事量が増えて大変になる状況を避けたいとの思惑もあったことは否めない。

 その為嫌な役回りだったが、トラブルが起こった際は積極的に利用者と担当介護士との間に入るよう心がけていた。

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