遠野屋旅館
思い出した。遠野晃は金沢市内にある「遠野屋旅館」の跡取り息子だった。中学卒業後は正式に跡継ぎとして修行し、現在では両親から跡を継いで旅館業を営んでいる、と聞いていた。
「一応、免許証とかで住所を確認して、自宅まで送ろうか、って話もあったけど、俺の旅館が飲み屋から近かったし、みんなもそれが一番安心だ、ってことになってね。それで、連れてきたってわけ」
「ごめん、迷惑かけちゃったね」
状況がわかってホッとしたものの、また頭が痛み始めた。
「いたたた……完全に二日酔いだよ……遠野君、水をもらってもいい?」
「オーケー。ちょっと待ってて」
晃はうなずき、ロビーのすぐ目の前にある食堂へと入っていった。すぐに、水の入ったコップを、お盆に載せて持ってきた。お盆の上には、頭痛薬も一緒に置いてある。
「サンキュー。気が利くね」
藍子のお礼の言葉を受けて、晃は笑顔を見せた。いまどきこんなに爽やかなスマイルを見せる人も珍しいな、と思いながら、藍子は頭痛薬を飲み込んだ。
ふう、とため息をつき、ロビーのソファに座る。
静かにしていると、壁に掛けられた振り子時計の音や、どこかの部屋でかかっている掃除機の音、表の通りを歩いている人々の声等が、耳に入ってくる。
目を閉じて、数多の音に耳を澄ませていると、気持ちが落ち着いてきた。
「助かったよ。ありがとう。それと、本当にごめんね」
目を開けて、まっすぐ晃のことを見据えながら、藍子は改めてお礼を言った。滅多にあそこまで酔い潰れることはないのに、つい度を超してしまった。
晃は頬を掻きながら、照れくさそうにしている。
「気にするなって。色々と鬱憤も溜まってたんだろ? ヤケ酒飲んだら、誰だってああなる。しょうがないさ」
「そうだ。チェックアウトの時間、もう過ぎてるよね? 私、あとはこのロビーで休憩してるから、部屋はもう片付けてくれていいよ。宿代はいくら?」
「代金はいらないよ」
「何言ってるの。そういうのはきちんとして。私が迷惑かけちゃってるんだし」
「じゃなくて、宿代は、もう、もらってるんだ」
「え、うそ。誰から」
「弟さんから」
藍子は目を丸くした。言葉を失い、息を止める。
「タクシーで運ぶ時に、まだ弟さんもいて、姉の不始末は自分が面倒見るからってついてきたんだよ。で、ここに着いてから、先払いで宿代をくれたんだ」
「う、うそでしょ……⁉」
藍子は恥ずかしさのあまり、顔を真っ赤にした。同時に、頭が激しく痛み、「ぐっ」と呻く。
『これは借りだぞ』
と言いながら、ニヤニヤ笑っている綾汰の顔が、容易に想像出来る。
不覚にも酔い潰れてしまったがために、一番借りを作りたくない奴に借りを作ってしまった。
しかも、かつての自分の師匠、國邑千都子先生までいた。当然、酔い潰れた藍子の醜態を目の当たりにしていたはずだ。
「ううう、最悪……!」
せっかく薬を飲んだばかりだというのに、また頭痛がぶり返してきて、藍子はソファの上でうずくまるようにして縮こまった。
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