【閑話】フィアナの知らない夜のこと


(ひとまず、こんなところでしょうか)


 ランプに照らされた部屋のなか、エリアスはひとり、ベッドの上で伸びをした。そのベッドの上には、ベクターから借りたメニュー表や、あれこれ頭を整理するために走り書きした紙が、無造作に並べてある。


 一応、これで大体の案は出来上がった。あとは、実行に移しながら細かく修正しておけばいいだろう。少しだけ眠気を感じ始めている目元をこすり、エリアスはほっと息を吐く。


 時刻はとうの昔に、日付をまたいだ後だ。最近はグレダの酒場に寄るために早く帰っていたので、この時間まで起きているのはひさしぶりだ。だが、エリアスはちっとも、嫌な疲れを感じていなかった。


(まさか私が、仕事以外のことでここまで夢中になる日がくるなんて)


 くすりと笑って、エリアスはベッドの上に並べたものたちを片付けた。


 明日はさっそく、アイディアを形にするために色々と準備をしなくてはならない。といっても、フィアナの両親ふたりは店の仕込みがあるだろうから、実際に動けるのはフィアナとエリアスのふたりだ。だとすると、朝ものんびりとしてられない。


 水を一口いただいてから、今夜はもう寝るとしよう。そのように、エリアスは軽い気持ちで部屋を抜け出した。


 ――そのことを、のちに彼は深く後悔することになる。


 さて、無事ダイニングにて水をいただいたエリアスは、貸してもらっている部屋に戻ろうと廊下に出る。だが、そのとき、誰かが階段を上ってくる足音がした。


(っ!? 泥棒、ですか!?)


 そのように、一瞬身を強張らせるエリアス。しかし、階段を登り切って姿をみせた少女に、彼はほっと笑み崩れた。


「フィアナさん!」


「エリアス……しゃん?」


 薄闇の中、寝ぼけまなこでこちらを見るのは、寝間着姿のフィアナだった。おそらく1階にある従業員用トイレに行って、戻ってきたところなのだろう。


 しかし、見る前からわかっていたこととは言え、フィアナは寝間着姿までなんと愛らしいのだろう……! 全体的にすとんとした作りな分、無防備さがたまらない。いますぐぎゅっと抱きしめてしまいたくなる。


 だが、エリアスも紳士だ。愛情表現が少々極端なだけで、基本は紳士だ。ここは冷静に。決して獣のように襲い掛かっていい場面ではなく――。


 そのように己を律していたところで、はたと気づいた。


(ん? 〝しゃん〟??)


 エリアスが疑問を抱いたのと同じタイミングで、フィアナはぽてぽてと危うい足取りでこちらへと歩いてきた。


「なんで……? エリアスしゃんが、うちにいるの……?」


 これは。もしかしなくとも。ごくりとエリアスが息を呑んだとき、フィアナはこてんと首を傾げた。


「これは、ゆめ……?」


(フィアナさん、超絶寝ぼけていらっしゃるーーー……!!!!)


 寝間着だけでも威力が高いのに、寝ぼけた姿の破壊力たるや。


 エリアスは一瞬にして、天と地を作られた神と、地上を愛で包みいつくしむ女神と、神託を告げ祝福を授ける天使とに祈りを捧げ、悟りを得た。


 だからといってはなんだが、三周ほど回ってエリアスは冷静になった。彼は膝に手をついて身をかがめると、ぽけっとこちらを見つめるフィアナの顔を覗き込んだ。


「夢、ということにしておきましょうか。さあ、お部屋に戻りましょう。こんなことろにいたら、風邪をひいてしまうかもしれませんよ」


「ゆめ……」


 とろんと見上げるフィアナは、はたしてエリアスの言葉を理解しているのだろうか。エリアスは苦笑し、再度彼女を促そうとした。


 ――しかし。


「いきますよ。さあ、……? ……っ!?!?」


 ぽふんと。胸に飛び込んできた柔らかな衝撃に、エリアスははじめ何が起こったか理解できず、きょとんと胸元を見下ろした。一瞬遅れて、彼は声にならない悲鳴をあげて飛び上がった。


「フィア、フィア……ふぃ、フィアナさん!?」


 どうにか声だけは押し殺しつつ、それでもエリアスが壊れた楽器のような声をあげたのも無理はない。


 なぜなら彼の背中に手をまわし、フィアナがぎゅむと胸元に顔をうずめていた。


 エリアスは動揺した。それは、それは、動揺した。


 これまでも、フィアナと密着したことはあった。しかし、それはいくつかの要因が重なってのことだったし、あくまで理性の手綱を握った状態でのことだった。


 けれども、これはダメだ。ひとびとが寝静まった深夜。ほかに誰もいない暗い廊下。どうみても寝ぼけた様子の想い人。何より、薄い寝間着を通して嫌でも伝わってきてしまう、ふにふにと柔らかな感触。


 何もかもがダメだ、ダメだ、ダメだ。こんな、理性の手綱のあちこちにぶちぶちと切れ込みを入れられた状態で、長く耐えられるわけがない。


「い、いけ、いけません、フィアナさん! いえ、抱き着かれるのはむしろご褒美というか、ウェルカムなのですが!! 私もその、男、でして……!!」


「エリアス……しゃん……」


「は、はいっっっ!!」


 ぽんと理性が吹き飛んで狼にトランスフォームしないよう、ぴんと直立不動の姿勢でエリアスは答える。寝ぼけ眼の上目遣いという強力兵器にうっかり射抜かれないよう、頑なに顔をそむけることも忘れない。


 そうやってギリギリのところで踏みとどまるエリアスに、フィアナはぽつりと呟いた。


「……おれい、です」


「…………へ?」


「………………、すーっ」


 穏やかな寝息が、胸元から聞こえた。


(寝ました……か……)


 脱力しそうになるのをなんとか堪えて、エリアスは肩を落とした。


 それから、彼はどうにかこうにか正気を取り戻し、フィアナの部屋に彼女を運んだ。当然お姫様抱っこで運んだわけだが、文句を言うであろう彼女はぐっすり眠っている。


 彼女をベッドの上に横たえ、ふとんを掛ける。規則正しい寝息を立て、時折むにゃむにゃと寝言をはさみながら気持ちよさそうに眠るフィアナの姿に、どっと疲れを感じた。


(………………私も寝ますか)


 頑張った。本当に、よく耐えた。今すぐ自分に表彰状を授与してやりたいくらいだ。そんな風に己を称えながら踵を返したエリアスだが――そのシャツの裾を、フィアナが引いた。


「っ!?」


 まだ何か試練が!? いっそ泣き出したくなる気持ちで、エリアスは振り返る。


 するとフィアナは、くるりと毛布にくるまってエリアスの服の裾をちょこんと掴んだまま、安心しきった顔でほほ笑んでいた。


「――ありがと、えりあす、さん。おやすみなさい」


 それを聞いたエリアスは息を呑み――気がつけば、吸い寄せられるように膝をつき、服を掴んでいた小さな手のひらにそっと口付けていた。


 彼は唇を離すと、慈しむように手を包んでこう言った。


「……おやすみなさい、私のお姫さま。いい夢を、見てくださいね」






 エリアスは借りている部屋へと戻った。黙々と靴を脱ぎ、枕元のランプを消し、寝る準備を整える。そして行儀よくまっすぐにふとんに入ると、大人しく瞼を閉じた。


 だが、ぼっと顔を赤くすると、両手で顔を覆って身もだえた。


(おやすめるわけ、ないでしょう……っ!?!?!?!?)


 このあと、悶々とした夜を過ごした彼は、激務期間にもありえなかったほどの寝不足に陥るのだった。

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