14.心の元気をもらいまして。

「機嫌がよさそうだな」


 退室しかけたエリアスを、呼び止める声があった。


 メイス国の若き獅子王シャルツ、エリアスとは乳兄弟であり、無二の友だ。


 二人がいるのは王の執務室。いまこの部屋にいるのは、エリアスたちを除けば二人の関係をよく知る近衛兵しかいない。


 だからエリアスも、肩の力を抜いて振り返った。


「そう見えますか?」


「ああ、見える。今にも鼻歌を歌いそうだ」


「歌って御覧に入れましょうか。城内を練り歩き、春の音色を一曲」


「いいな。ギルベールあたりが卒倒する」


 にししと少年のように王が笑う。こういう笑顔は、兄弟同然に育った小さい頃から少しも変わらない。


「近頃、城内がもっぱらお前の話題で持ち切りだぞ。氷の宰相閣下が丸くなられた。春の訪れを告げる雪解けのように微笑まれた。時折手を止めて、物思いにふけられるようになった――。そのうち、ラブレターでも届くんじゃないか?」


「やめてくださいよ、面倒くさい」


「いいじゃないか。愛されるのは得だぞ。仕事がスムーズに進む」


 彼は愉快そうに身を乗り出すと、生暖かいものを見る目でエリアスを窺い見た。


「んで? いい加減、俺には教えてくれよ。仕事人間のお前が、早く切り上げて帰るようになった理由。毎夜、同じ店に通っているんだってな。なんだ? 女か? やっぱり、女がお前を変えたのか?」


「そんなことまで噂になっているんですか。この国の人間は暇ですね」


「何を言う! 古代より、人間の興味関心を引いてやまない議題、それが色恋沙汰だ」


 えへんと胸を張る王に、エリアスは呆れた目を向ける。彼の情報網がどこか、大方わかる。兵士との距離が近く、しょっちゅう訓練場に足を運んでは練習に混じる彼は、警備隊のネットワークを通じて情報を掴みたい放題なのだ。


 まあ、隠すようなことでもないし。そう思いつつも、エリアスはツンとそっぽを向いた。


「嫌ですよ。教えて差し上げません。ここで私が頷けば、あなたの手の者が相手の方を確かめに店にくるのでしょう? あの方との蜜月の時を、邪魔されるのは我慢なりません」


「お、おお! 天邪鬼め、わかりにくいが認めたな!」


 がたんと立ち上がり、シャルツは興奮して続けた。


「氷の宰相に雪解けをもたらすとは、いったいどんな女なんだ? 酒場で働いているんだもんな。美人か? グラマラスだと尚いいな。はかなげで危うげな未亡人、どうだ?」


「見事ですね、少しもかすりません。私の言葉であの方を形容するなどおこがましい限りですが……強いて言うならば、無垢で愛らしい天使のような女神です」


「聖女か! 聖女系ヒロインもいいな!」


 ここにフィアナがいたら、「あんたたちは誰の話をしているんだ」と半目になって呆れただろう。兄弟同然に育っただけあって、根っこは同じ。エリアスとシャルツがひとたび砕けて話し出せば、途端に突っ込み役を必要とするのである。


「いいな。いつかちゃんと、紹介してくれよ」


 気さくに笑って、王はそんなことをのたまう。まったく気軽に言ってくれる。そのように苦笑しつつ、エリアスはにこりと微笑み、


「ええ、もちろん」と頷いた。






(しかし、私はそんなにわかりやすいのでしょうか……?)


 ううむと考えつつ、エリアスはグレダの酒場に到着する。


 たしかに以前より気持ちに余裕は生まれた気もするが、仕事において基本的にスタンスは変えていない。それなのに「丸くなった」だの「柔らかくなった」だの、ここまで言われるものだろうか。


 不思議に思いつつ、エリアスはからんと鐘の音を響かせ扉を開けた。


「いらっしゃいま……っ」


「こんばんは! 天使で女神なマイスウィートハニーのフィアナさんっ」


 にこっと笑みを浮かべ、ひらひらと手を振る。するとフィアナは一瞬ぴくんと固まったあと、ガードするように丸盆を構えながらエリアスのお気に入りの席を指し示した。


「どうぞ。飲み物はエールですよね」


「はい。一緒にフィアナさんの笑顔をひとつ、ピクルスを添えてください」


「メインが逆ですから! ピクルスですね、ピクルス。笑顔は添えてあげませんけど。ちょっと待っていてください」


 ぶつぶつ言いながら、フィアナはてててと駆けていく。その背中を、エリアスは微笑ましく見守る。


 聖堂での一件以来、このように彼女に警戒されてしまっている。けれども、じりじりと距離を取りながらこちらを窺うフィアナは、子猫が毛を逆立てて威嚇をしているようで可愛い。すごく可愛い。いますぐ抱きしめて、モフりたくなる。


(フィアナさん……こんなに私を意識してくださるなんて……)


 どうにか自制しつつ、エリアスはほろりと涙しフィアナを見る。そんな彼の視線に気づいたのだろう。ぷんすかと怒ったような顔でエールを準備していたフィアナだったが、ぱっと顔を上げてエリアスを見ると、真っ赤になって顔を背けてしまった。


 エリアスは、その場に墓を掘って埋まりたくなった。


「エリアスちゃーん。こっち、こっち……って、なあに? そのポーズ」


「……愛しさが限界突破しましたので、エア・フィアナさんを抱きしめて堪えています」


「うわぁ。エリアスちゃん、今日も重症っ」


「阿呆言っていないで早く座れって」


 パン屋のニースに急かされ、エリアスはなじみの席に腰かける。隣で、キュリオが胸元から懐中時計を取り出し、目を丸くした。


「あら、もうこんな時間なの。今日は遅かったわね」


「今日は少々立て込んでまして。これでも慌てて城を飛び出して駆けつけたんですよ」


「毎日そんなじゃないか。まあ、飲め飲め! 最初の一杯は奢ってやるよ」


 がははとニースが笑ったところで、エリアスの前にトンとエールが置かれる。ちょうどフィアナが持ってきてくれたのだ。


 お疲れ様です、と。唇だけで、彼女はそう言った。


(……ああ、なるほど)


 エールの泡を眺めながら、エリアスは理解した。


 恋をして、胸を弾ませて。一日の終わりに愛しいひとと楽しい仲間に囲まれ、お腹と心をいっぱいに満たして。おそらくエリアス自身が自覚するよりもずっと深く、大きく、自分はここで過ごす時間に救われている。それはもう、氷の心を溶かされてしまうほどに。


(フィアナさん……貴女は、春の女神なのかもしれませんね)


「ほれほれ、早くグラスを持ちやがれ」


「準備はできたわね? それじゃ、せーのっ」


「かんぱーい!!」


 三人分の声が重なり、豊かな泡が軽快に跳ねたのだった。

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