8回目 そして虚数はそこにある
何度目の夢だろう。
いや、何度目の今日だろう。
どこか慣れたような感じもする自分に恐怖を覚えながらも、俺は再び目を覚ます。
いつもの通り、と言うのもおかしな話だが、自分の上に乗っている明日香の頭を撫でた。
「……どうしたの?」
おはよう、でも甘えてくるでもなく、どうしたの? か。
別に頭を撫でることが珍しいことではない。恋人同士のスキンシップとしては、特別なことでもなんでもないし、俺もたまにする。それに、寝起きにキスをしてきた恋人の頭を撫でることは、明日香にしてみても想像に難くないだろう。
しかし明日香からしてみれば、ただなんとなく、根拠はないけれど、違和感があったのだろう。何かおかしいと思ったのだ。それだけで、恋人を心配するには事足りる。
「ちょっとしんどいから、先に大学行っといて」
俺はそれ以上は何も言わなかった。
明日香も何も聞かなかった。
明日香は一人で身支度をし、ご飯を食べて家を出ていく。
「いってきます」
俺は何も言わなかった。
言えなかった――。
「いるんだろ」
寝ころんだまま。
頭の下に両手を置いて。
天井を見つめながら。
虚空に言葉を投げる。
「お呼びですか?」
その言葉に応えるかのように、どこからともなく現れる人影。
昨日、いや厳密には前回の今日、突如として俺の前に姿を現した人物だ。
男性とも女性とも区別のつかない声に、肩に届くほどの真っ白な髪で中性的な顔立ち。見れば見るほどに奇妙な感じもするが、なぜか違和感はない。
「説明してくれ」
不思議と落ち着いていた。
実際に体験した出来事を、うまく呑み込めていない部分もあるが、それを今考えたってしょうがない。目の前の人物に聞いた方が早い。「人」と呼べるかはわからないが。
「随分と受け入れられていますね」
「世間話をしに来たのか?」
「落ち着いてください。焦らなくても、ちゃんと説明をさせていただきます。もうワタシが見えているんですから。そうですね、まずはワタシの存在から、でしょうか」
俺は目を瞑って耳を傾けた。
「ワタシは、そうですね、『アイ』とでも呼んでください」
存在はしているが、存在しているかどうかわからない。アイは自分のことをそう説明した。自身に名前などあってないようなものらしいが、それでもないと不便なので、そういう言葉を当てたらしい。
「ワタシはアナタの監視役です。しかし監視役と言っても、特別何をするわけでもありません。アナタも、監視の目があるからと言って、何を規制されるわけでもありません。言ってしまえば、ただアナタを見送るだけの役割です」
そんな存在に意味があるのかはわからないが、それでも状況に気づいた者への説明を、優しくもしているらしい。
「すでにわかっていると思いますが、アナタは今日死にます。それは確定事項です」
俺はゆっくりと目を開けた。
「しかしアナタが体験した通り、ただ死んでも、今日を繰り返すばかりです。アナタが心の底から望むことがわかるまで、今日を繰り返し続けます」
「……なぜだ? そもそも俺はなんで死ぬんだ? 神様が人間を選別してるとでも?」
「なるほど、ありがちな発想ですね。この世界の創作物ではたびたびそういう設定もお見受けしますが、しかし現実にそんなことはありません。神様もそんな無慈悲なことはしませんよ」
「……神様を知ってるような言い草だな」
「えぇ、知っていますよ。ワタシはお仕えする立場ですからね。おっと、神様については何も言えませんので、追及はご遠慮願います。何をしているかも言えません。ただ、存在はしています。どうやったって、アナタたち人間が現世にいる間は、謁見する機会はありませんが。……えっと、アナタがなぜ死ぬのか、でしたっけ? 正直、説明をする立場からすると、大変申し訳なく思うのですが、それについてもお答えすることはできないんですよ。ですが、理由はあります。これも詳しく説明することはできないので、何らかの影響で死んでしまう、としか言えませんがね」
申し訳ないと言う割には、その言葉はどれも平坦だった。しかし、それが嫌味に聞こえることはなく、表情も無表情のはずなのに、どこか申し訳なさを感じさせた。
「俺が何かしたってのか?」
「いいえ。これはアナタのせいではありません。アナタからすれば、とばっちり以外の何物でもないんですよ。もちろん、先ほど申し上げたように神様のせいでもないのですが、言ってしまうと、とある人物のせい、なんですよ」
「恨まれるようなことをした覚えはないんだけどな」
「すいません、そういうのでもないんです。その方もアナタを殺そうとか、憎んだりなどはありませんでした。まさかアナタが死ぬことになるなんて、思ってもみなかったでしょうね。しかしこれは決まり事ですので、アナタもお気をつけください」
「聞くだけ無駄ってことかよ。アイ、だったっけ? ほんと、お前は何のために俺の前に現れたんだ?」
「耳が痛いですが、そういう決まりですので。ご勘弁を」
悪態を気にも留めない。無表情とも笑顔ともとれる不思議な顔で、抑揚のない、けれど人間味のある音を紡ぐ。
「ですが、アナタが望むことがわかるまで今日を繰り返す、というのは、ある意味神様の情けのようなものなんですよ。不可抗力みたいなものですが、自分が悪くないのに死ぬ、というのはさすがに少しかわいそうじゃあないですか」
「その度に死ぬんじゃ、地獄みたいなもんだけどな」
「それは仕方がありません。確定事項なので」
俺は寝ころんだままため息をつき、目を閉じる。
そしてしばらくして、身体を起こした。
「俺がやりたいことをするまで今日を繰り返す、か。やりたい放題だな」
「死にますけどね」
「何度も言われなくたってわかってるよ」
期せずして、もう何度も体験しているのだから。
「……でも、本当に俺は死ぬのか?」
「今自分自身で確認されたじゃないですか?」
今まで俺は、事故に遭って死んでいる。記憶としてはここ数回しかないが、おそらく以前も事故に遭っていると考えるべきだ。つまり。
「外に出なきゃ死なないかもしれないだろ」
「……なるほど」
「明日が来れば、俺の勝ちってわけだ」
「勝ち負けなのかはわかりませんが。……そう思うのなら、試してみてはどうですか? やりたい放題、なんでしょう?」
「嫌味かよ」
「そういうつもりではありません。ワタシはアナタがおっしゃっていたことを復唱したまでです」
すいません、と俺に向けて両の掌を胸の前に広げるアイ。その顔は申し訳なさそうにも、笑っているようにも見えた。
どうせ死ぬのだろう、とわかっていても、試す価値はあると思った。死に方が気になる、と言ってしまうと不謹慎だが、試してみたっていいじゃないか。もしかしたら死なないかもしれない。どちらにせよ、己が身を削るだけなのだから、誰に迷惑をかけるというわけでもない。
とりあえず今日はもう寝よう。何もしないことが、一番リスクが低い。
「あ」
「……なんだよ」
「一つ、大事なことを言い忘れていました。アナタが今こうして同じ日を繰り返していることは、絶対に他言してはいけません。誰かに知られてもいけません」
「言って誰が信じるんだよ」
「わかりませんよ? 信じてくれるかもしれません。ご家族とか、恋人さんとか」
普通は笑い飛ばされるようなことも、真に迫って言えば、自分に近しい者は信じてくれることもある、と。そう言いたいのだろう。
「……言ったらどうなるんだ?」
「それは言えませんが……そうですね。良くないことが起こる、とだけ言っておきましょう」
「……そうか」
話せないことが多いような気もしたが、機密事項というのはどこにでもある。
教えてくれないのならば、聞いたって仕方がない。
これ以上深く考えるのをやめて、俺は二度寝に興じた。
◇ ◇ ◇
俺の前を、君が歩く。
はしゃぐ君を、俺は後ろで微笑みながら見守っていた。
君は振り返って、俺に笑いかける。
俺も笑い返す。
少しの恥ずかしさを、手持ち無沙汰な手と一緒にポケットに詰めながら。
真夏の太陽に輝く君の笑顔は。
とても眩しくて。
綺麗で。
可愛くて。
そんな君を。
俺は追い越した。
◇ ◇ ◇
「……り。いおり、伊織!」
「ん、んん……、あすか?」
どれぐらい寝ていたのだろう。
目を開けると、心配そうな明日香の顔がそこにあった。
「やっと起きた。大丈夫?」
どうやらもう夕方らしい。
明日香も大学が終わって家に帰ってきたようだ。
「結局今日大学来なかったけど」
「あー、大丈夫。気にすんな」
「気にすんなって、休んどいてそれは無理」
「大丈夫だって」
まぁ死ぬらしいけど。
「……風邪?」
「いや、そういうのじゃない。なんか、気分じゃなかっただけだ」
それ以上の追求を避けるように、俺は明日香に背を向ける。
それを見た明日香も、腰に手を当てて息を吐くだけだった。
「何か食べたいものある?」
「なんでもいい」
「それが困るの」
「じゃあアクアパッツァ」
「めんどくさ」
「なんだよ、そっちが聞いてきたんだろうが」
「それでもアクアパッツァはないでしょ」
「えー、じゃあ……」
もちろん、アクアパッツァは冗談だ。明日香もそれはわかっているだろう。
さて、俺は何が食べたいんだ?
今日が、今回が最後の晩餐である可能性もなくはない。
いや、今日は寝ていただけで、特別何もしてないから、やりたいことは何一つやっていないのだが、もし仮に『何もせずに寝ること』が望みなのだとしたら、今回で終わってしまう。だとしたらそれはそれでなんかショックだが。
もしくは『明日香の手料理を食べる』が望んでいたことである可能性もある。さっきよりはこっちの方が確率は高い。そう思うと、下手に選べない。
「……ハンバーグ」
「めんどくさい」
おい。
「混ぜて焼くだけだろう」
「じゃあ自分でやったら?」
「何のために俺に聞いたんだよ!」
俺はたまらずバッと起き上がる。すると明日香はケラケラ笑っていた。
「良かった、元気みたいだね」
「……おかげ様でな」
ジトっとした目も、明日香は意に介さなかった。
「じゃあ食材買ってくるけど、一緒に行く?」
「遠慮しとく」
「荷物持ってよ」
「ファイト~」
痛む心もあったが、ここで外に出ることは避けたい。事故に遭うかもしれないし、何より明日香と一緒にいれば、巻き込んでしまう可能性もある。ここは断るしかなかった。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
夕食のハンバーグを食べ終え、明日香は食器を流しに持っていく。
「明日香」
「ん?」
俺は明日香の方は見ずに、ベッドに寝ころびながら言った。
「いつもありがとな」
「…………え、きも」
「ひどくない? え? ひどくない?」
巻き戻したように俺はベッドから起き上がる。
「急にどうしたの? 浮気でもしたの? うわサイテー」
「違うしなんで浮気してることが前提なの? ねぇ」
「だって急にそんなこと言うから、なんか後ろめたいことでもあるのかと」
「俺がお礼を言うのがそんなに珍しいか」
「珍しい」
……ヤバイちょっと言い返せない。
「冗談よ」
「冗談で破局するよこれいつか……」
「その時は伊織の器が小さいってことで」
「ひでぇ」
カチャカチャと食器を洗う音が、部屋に響く。
その後ろ姿を俺はじっと見つめた。
こんな言い合いでさえ、明日がないのでは意味はないのかもしれない。
それでも、明日香が覚えていなくても、俺の中には残る。
今日で終わるのならば、明日香の中にも残るのだろうけど、残ってほしいかどうかは半々だった。
どうせならいい思い出で終わってほしいと思う。
どちらにせよ俺は死ぬんだから。
世界線という話をするのならば、この世界線の明日香の心にはこれが残る。
それを思うとどうにかしたいもんだと思ったが、今更また何か言えば、今度はもっと疑われて、本当に明日香が不機嫌になりかねない。それで終わるのだけは嫌だ。
何もできない自分に悔しさを募らせながら、今日死なない期待を抱きながら、俺たちはベッドに横になった。
――そんな期待は。
外れるのだろうけど――。
「…………っ!?」
時計の針が12時を回ろうかというところで、左胸部の急激な痛みに襲われる。
もだえる俺に、隣で寝ていた明日香も目を覚ました。
「いおり? ……伊織!?」
明日香は急いで救急車を呼ぶが、俺にはなんとなく、それが間に合わないであろうことがわかっていた。
このタイミングで心臓の痛みなど、『そう』としか思えない。
どうあがいても。
外に出なくても。
やはりこの事実は変わらないらしい。
こんなに苦しいなら、衝撃は来るが一瞬で済む事故の方がいいかもしれない。
俺は右手で自分の胸を抑えながら、左手を伸ばした。
「伊織……?」
明日香の手を握りながら、俺は必死に笑顔を作った。
ありがとう、と。
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