第165話 マドカ、ハイハイをする!

 朝目覚めると、マドカがうつ伏せになっていた。

 俺とカトリナの間に挟んで寝ているのだが、このベッドはブルストが手足を広げて寝転げるサイズのため、三人並んでもたっぷり余裕がある。


 いつの間に寝返りを打ったのだろう?

 そう思っていたら、マドカがむずかしい顔をして、「むむむむ」と唸った。

 うんちをするのだろうか?


 いや!

 マドカがぷにぷにした腕を前に伸ばし、ぎゅっと布団を掴む。

 そして、全身を引っ張り上げる……!


「なん……だと……!?」


 俺は衝撃のあまり、完全に目が覚めた。


 これはハイハイではないのか!?

 どうして今ハイハイをいきなり!?

 いや、まさか……俺たち夫婦が寝ている間に、マドカは密かに目覚めて、ハイハイ練習をしていたというのか……!!


「カトリナ、起きるんだ」


 ゆさゆさっとカトリナを揺さぶる。


「うみゅー」


 可愛い鳴き声が出てきた。

 朝はスパッと起きる子だが、他の人に起こされると、基本的に寝起きが悪いよな、彼女。


「なぁに、ショート……。あとちょっとだけ寝かせて……」


「マドカがハイハイした」


「うぅん……マドカ、ハイハイ……。マドカが、ハイハイ……!?」


 カッと目を見開くカトリナ。

 一瞬で覚醒したな。

 さもありなん。


 これは我が一家にとっての一大事だ。

 俺たち夫婦は寝間着のまま、じっとマドカを見つめる。


 マドカはうつ伏せになったまま、動かない。

 何か期待に満ちた目で、俺とカトリナを交互に見た。


「いかん、これは抱っこして欲しい顔だ」


「やる気がなくなっちゃったのね……」


 赤ちゃんとは難しいものだ。

 ハイハイ朝の部はこれで終了であろう。


 朝食を摂り、短粒種の稲をまとめて干し、日が強くなってきた頃合いで仕事を切り上げて昼食にする。

 暑くなる昼間は仕事をしない。

 これが勇者村の鉄則だ。


 みんな、本を読んだり勉強をしたり、ゴロゴロしたりして過ごす。

 夕方までずっと仕事をしているのは、肥溜め番のニーゲルくらいのものなのだ。

 あそこは日陰だし、肥溜めの変化に合わせてちょこちょこ水を足したりしないといけないからな。


 ニーゲルのところに差し入れを持っていく。

 真面目な顔つきで肥溜めをチェックしていた彼は、相好を崩すと差し入れの丘ヤシジュースを美味そうに飲んだ。


「どう? もう肥溜めのことならなんでも分かるんじゃないの」


「なんかっすね。詳しくなれば詳しくなるほど、おれはわかんねえことだらけだなって気づくっす。奥深いっす、肥溜め。今は肥料にする時、何を足したら栄養分が増えるのかって調べてるっす」


「ほう……! 無知の知ってやつだな」


 俺は感心した。

 自分はまだまだ何も知らない、ということを知ったわけだ。

 一端の学者とかでも、無知の知に至らないのはごまんといる。


 求道的に肥料づくりに打ち込んだからこそ、ニーゲルはこれに気づけたのかも知れない。

 肥溜めの仕事に来る人って、クロロックとピアくらいだしな。

 余計な人間関係に惑わされず、道を突き詰めることができているのだろう。


「がんばれよ、ニーゲル! 今度、お前の食いたいもの作ってやるから、リクエスト考えておけ」


「うっす!」


 ニーゲルが嬉しそうに顔を緩めた。

 素直なおっさん、俺は大好きである。


 ということで、家に戻ってくる。

 乾季の日差しは暑い。

 めちゃくちゃ暑い。


 だが、湿度が少ないので、日陰に行くとスッと涼しくなる。

 日陰を伝って家に戻ったら、カトリナの声が聞こえた。


「マドカえらーい! えらいえらいえらーい!!」


「んみゃー」


 なんだ!?

 何事だ!?

 ま、まさか……。


 俺が家の中に飛び込むと、カトリナがマドカを抱き上げて、頬ずりしているところだった。

 マドカが手をバタバタさせて抵抗している。


「カトリナ、どうしたんだ! まさか、マドカがハイハイを……!?」


「むっふっふー。そう。そうなんだよー!!」


 カトリナが目をキラキラ輝かせた。


「マドカ、もう一回見せて! お父さんがハイハイ見たいって!」


「お?」


 マドカが目をくりくり動かして首を傾げた。

 かーわいい。


 ……………………………。

 ハッ!

 いかんいかん。

 マドカが可愛いだけで満足してしまいそうになった。


 いや、それだけで満足なんだが。


「マドカ……お父さんに見せてくれ! マドカのハイハイを! マドカ!」


「んなー!」


 カトリナがマドカを床に置く。

 マドカが怪我をしないよう、俺がつるっつるに磨き上げた床だ。

 俺は入り口に膝を着き、手を広げて愛娘を迎えるポーズを取った。


「マドカ! おいで!」


「んま」


 マドカはうつ伏せに転がったまま、俺を見てニコニコしている。

 いかん!

 あれは迎えを待つポーズだ!


 散々甘やかしてきたからな。

 娘は父親の操縦方法をよく理解している。


 だが、父をなめるなよ、マドカ!

 俺もお前の性格は熟知している!


 ニーゲルにあげた丘ヤシジュースは、もう一本用意してあった。

 ピアがいたら渡そうと思っていたのだが、それがここで役立つとはな。


 俺は丘ヤシジュースをマドカに見せた。


「アッ」


 マドカもそれが何なのか気付いたようだ。

 お前の食い意地なら、このあまーいジュースを無視することはできまい!

 さあ来い、マドカ!


 ジュースはここだーっ!


 俺はジュースを、マドカから割と離れたところに置いた。


「んままままー!!」


 マドカの目の色が変わる。

 彼女のぷにぷにした両手両足が、わしわしわしっと動き出した。


 床を掴み、体を引き寄せる!

 足が床を蹴り、前に進ませる!

 いや、腹ばいでは床との摩擦が進行を邪魔する!


「うー! まー!!」


 マドカが……マドカが手足を踏ん張って、体を持ち上げた!!


「ま、マドカーっ!!」


 カトリナが衝撃のあまり、へたり込んで叫ぶ。

 俺には見える。

 マドカの額にある魔力の角が、天井をも突き破らんばかりに伸び、強烈な魔力の波動を発しているのを!


 今、ワールディアは震撼した。

 丘ヤシジュースが飲みたいマドカが、全ての魔力を総動員し、ジュースに近づくための知識を欲したからである。

 魔力の角を通じて、世界の知識が集まる!


 そして彼女は開眼した。


「んまあ!」


 のしっ! と一歩進む。

 のしのしっ! と突き進む。

 それは、王者の如き堂々としたハイハイであった。


 世界から情報を集めたマドカは、自らハイハイにたどり着いたのだ!

 本能ではなく、理性と欲望でハイハイに行き着いたか。

 我が娘ながら、恐ろしい子……!


 かくして、猛スピードでやって来たマドカは、丘ヤシジュースを手に取ると、がぶがぶがぶっと飲み干した。

 顔を果汁でベタベタにしながら、「んーまー!!」とめちゃくちゃいい笑顔を見せてくるのだ。


「よーし、よくやったぞマドカー! えらいえらいえらいー!」


 俺が頬ずりすると、果汁でベタベタっとする。

 そしてヒゲの剃り跡がじょりじょりするようで、マドカが「やー!」と嫌がるのだった。

 


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