第1話 引きこもり姫
私の名前はエラと申します。
さるご令嬢のお付きの侍女をやっておりました。これは私が勤めていたあるお屋敷のお嬢様のお話です。
お嬢様は幼い頃から引きこもりで全くと言っていいほど人前に姿をおみせになりません。
ご両親である旦那様や奥様でさえ物心ついてからは数回しかお会いできていないかもしれません。
お嬢様は小さい頃にお出かけ先である事件に巻き込まれて生死の境をさ迷った事があるそうでして。それ以来決して部屋を出ようとなさらないのです。ご家族も最初の頃こそ部屋から出るようにあらゆる手段を講じようとしたものの全てが無駄に終わり、今や腫れ物に触るような感じでほぼお嬢様のお好きなようにさせているご様子。
こういった貴族のご家庭の内部事情は本来ならば秘匿されるべきものなのですが…中には口の軽い使用人もいるようで。困ったことに市井でもお嬢様の引きこもりの話は有名なのです。誰が最初に呼んだやらついた二つ名が引きこもり姫。
一介の侍女である私の仕事は日に数回食事をお嬢様のお部屋へ差し入れることや身の回りのお世話、時々お嬢様が欲しいものをお書きになったリストを手渡してくださいますので、それを旦那様にお渡しすることくらいでしょうか。
お嬢様がご所望されるのは大抵流行りの本やレコード、お菓子などでございました。引きこもりのはずなのに世間の流行りを押さえているのが少し奇妙といえば奇妙なのですけれども。私以外は誰も気にとめないご様子でございましたし、存在自体が珍妙なお嬢様の前では多少の奇異なことは気にならなくなるものですわね。
リストにあった本で覚えているタイトルと言えば、確か「翼があったら」でしたでしょうか?
私も少し読んではみましたが、城に閉じ込められたお姫様があれやこれやの手を使って城からの脱出を画策して最終的に隣国の王子様と結ばれるというお話でございましたわね。良くも悪くも思春期の女の子が読む夢物語という感じでしたでしょうか。私もお嬢様とそう年は違いませんが、もう少し現実的なお話の方が好みでございます。例えば「金融婦人」などの上流階級の方々がご家庭を切り盛りする為の指南書などはすごく面白かったと思います。
16歳になったある日、とうとうお嬢様が部屋の外に出なければならない事態がやってきてしまいました。
世の中には奇特な殿方もいらっしゃるものでして。さる伯爵家から引きこもり姫を妾としてなら嫁に貰ってもいいという申し出が来たそうです。
怖いもの見たさのようなものですかね。
お輿入れのあとも安心して引き続き引きこもれるように、わざわざ別館を設え与えてくださるのだそうです。
旦那様と奥さまはその破格の待遇の申し入れを二つ返事でお受けになられました。
当家のお子様はお二人のみでして、後継候補としては今は他国へ留学中のご長男のハリス様がいらっしゃいますので、この婚姻に反対する理由もございませんでした。
さすがは引きこもり姫と言うべきでしょうか。お輿入れの準備も本番も実にひっそりと行われました。
とは言っても当のご本人様は部屋の外へ出ることもなく、婚礼用のドレスやら普段使いのドレスやら何やら必要と思われるものは全て私が手配させて頂きましたが。
さて、お輿入れの準備が滞りなく進み1ヶ月たったある日、お輿入れの日がやって参りました。
お輿入れ当日の朝は隣人の顔さえ分からないような濃い霧が辺り一面に立ち込めていました。お嬢様は花嫁の慣例としてお顔をベールに隠したまま、玄関でご両親に無言で略式のご挨拶をされました。
お嬢様の晴れの日ですので、私も侍女として恥ずかしくないようにとっておきの金鳳花色のドレスを身にまといました。奇しくもお嬢様とお揃いかのようなお色ですが、仕立てはもちろんお嬢様のドレスの方が数段上でございます。お嬢様のドレスは上質な布で仕立てられ、よく見れば金糸で縫い取られた小さな花があちこちに散りばめられておりまして、それは素敵なドレスなのです。霧の中ではお見送りの皆さまに細かなデザインをご覧になって頂けないのが非常に残念ですわね。
私は旦那様と奥様にご挨拶をして、お嬢様が乗り込んだのを見届けてから同じ馬車に乗り込みます。
旦那様と奥様はお嬢様が去った後、厄介払いができてほっとしたという顔をしておられました。あんなにあからさまに顔に出すなんて貴族の世界でやっていけているのでしょうかね。
馬車に乗り込んだ後は件の伯爵家へ向かうのみでございます。道中の車内は私とお嬢様の二人きりでございました。伯爵家で着るために新しく誂えたドレスなどの嫁入り道具は別口で荷馬車に積み込まれておりますし、荷運び用の使用人はまた別の馬車に乗っております。
道中何事もなければ良かったのですが、濃霧ゆえに馭者が道を違えて峠道で何台かの馬車が遭難しかかり、その際に使用人が1人行方不明になってしまったようです。その使用人には身をくらませる原因となるような借金などもなかったはずなので、馬車から放り出されたのか霧の中にさ迷い出て帰れなくなってしまったのかのどちらかでしょう。使用人が行方不明になった旨は馬をやってお屋敷にお知らせ致しましたが、わざわざ人を雇ってまで使用人風情の捜索などはされないことでしょうね。
軽いアクシデントはございましたが、最終的に馬車は無事に伯爵家へ到着致しました。
そして引きこもり姫の要望により婚礼の義は邸内で慎ましやかに行われ、めでたしめでたし、でございます。
その後引きこもり姫はどうしたかですって?
ああ、引きこもり姫は純然たる引きこもりではなくなりました。伯爵家ではまるで別人のようになり、病気がちな本妻様に代わって邸内の色々なことを取り仕切るようになり今では使用人などに陰で裏奥様と呼ばれております。それでも妾という立場を弁えてのことなのか社交界などの華やかな場には決して顔を出さないという話でございます。
ただ、引きこもりでなくなった旨の噂を聞きつけた実家の旦那様や奥様が訪ねていらっしゃった折には元の引きこもり姫に戻ってしまうようですが。
それで私はどうしているのかですって?
それはあなたのご想像にお任せ致しましょう。ここでの今の暮らしは悪くないとだけ申しておきましょうか。
―――コンコン。
どうやら人が来たようですわね。戯れ話はこのくらいに致しましょうか。
何故引きこもり姫が伯爵家で別人のように振る舞うのか、ご実家の面々にお顔を決して見せないのか…既にお気づきかもしれませんが、例えこの話の真実に気がついたとしてもそれを誰かに伝える術はないことでしょう。
「失礼致します」
「どうぞおはいりになって」
「話し声が聞こえましたが、どなたかとお話されていたのではないのですか?」
「あら、お気になさらないで。可愛い小鳥が遊びにきてくれたので思わず話しかけてしまったのよ」
「左様でございましたか。伯爵様がお帰りになったようですのでお知らせに参りました」
「そう、ご苦労さま。すぐ参りますわ」
話を聞かれてしまったのかしら…私はこの屋敷に来た当時の私と同じような年齢の侍女の目をじっと見つめましたが、彼女からはそれらしい反応は返ってきませんでした。
まぁいいでしょう。百歩譲ってあのひそひそ話を聞かれていたとしても。侍女にはいくらでもスペアがいるのだから、いざとなったら首をすげ変えればいいだけですものね。
そうして私は満足気に笑って今まで読んでいた本を机の隅に置くと、金糸の刺繍のドレスを翻してドアへ向かうのでした。
2020/10/15
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