死生境川の呪いは美しく嘲笑う

風嵐むげん

前編


『今日は朝からずっと雨が降っていたのに、傘を忘れたなんて変わってるね』

「…………」


 制服、スカート、靴、カバン。そして全身を濡らす雨にうんざりしていると、背後から声が聞こえてきた。

 ざあざあと降る雨の下でも、その声は妙にはっきりと聞こえた。静かで落ち着いた、若い男性の声。穏やかだが、どことなく嘲笑いたいのを堪えているような意地の悪い声色だ。


『ああ、また盗まれたのかな? それとも、折られてごみ箱に突っ込まれていたのかな?』

「ごちゃごちゃうるさい、お化けのくせに!」


 橋の上には、私たち以外に誰も居ない。私は思わず立ち止まり、振り向いて怒鳴った。

 でも、彼には少しも動じた様子がない。わざとらしく肩を竦めて、形の良い唇でにんまりと微笑むだけ。


『やれやれ、その様子だとまたいじめられたんだね。いじめっ子は問題だが、きみも強情だね。いじめられていることを、先生や家族に相談すればいいじゃないか』

「アンタには関係ないでしょ。目障りだから、さっさと消えてよ」

『ひどいな。ぼくはきみのことが心配だから声をかけたんだよ? きみが、『忌み子』だったぼくと同じ惨めな思いをしないように』

「いみご……?」

『ぼくの姿は気味が悪いだろう? 昔、ぼくが生きていた頃は不気味な見た目をした者は忌み子と言われて、殺されたり牢屋に幽閉されていたりしたんだ。ぼくもそう、生まれてから死ぬまでの十八年間、ずっと牢屋に閉じ込められていた。だから死ぬまで、こうして雨に打たれることもなかったんだ』


 ひらりと、まるで春風に舞い踊る花弁のような身軽さで錆び付いた欄干に腰掛け、降りしきる雨粒へと青年が手を伸ばす。

 背中まで届く白髪、雪のような肌、血の色をした瞳、真っ黒な着流し。私と同じで傘なんかさしてないくせに、さらさらと揺れる髪を雨の雫が濡らすことはない。

 だって、この人はお化けだから。最初はびっくりしたけど、話し掛けてくるだけで何もして来ないのですっかり慣れてしまった。

 彼は時折、通学路であるこの『四季堺川しきざかいがわ』にかかる橋の上で話し掛けてくるのだ。それも、私がイライラしている時ばかり、狙っているかのように。

 ここでしか見たことがないから、地縛霊というやつなのかもしれない。オカルトなんてよくわからないけど。


『このままだと、きみもぼくと同じになってしまうよ』

「は? 何それ、私もその忌み子ってやつになるってこと?」

『そうじゃない。もっと醜くひどいものさ』


 どうする? 裸足の足をぶらぶらと揺らしながら、彼は言った。


『ぼくはきみのことが気に入ってるんだよ、いじめられっ子ちゃん。だからぼくはきみの味方だ。きみが望むなら、いじめっ子を殺してあげよう』

「……くだらない。目障りだから、さっさと消えて」

『つれないなぁ、まあいいけど。でも、もう一度だけ言うよ。ぼくは、きみの味方だから』


 そう言い残して、お化けは霧のように姿を消した。川に飛び降りたわけでもなく、走り去ったわけでもない。

 不気味な寒気は、雨に濡れたせいだろうか。私は踵を返して、家までひたすら走った。



「おかえり。わわ、ずぶ濡れじゃん! 傘持って行かなかったの!?」

「お姉ちゃん……? 帰ってたんだ、早いね」

「今日はバイト休みだからね。ほら、タオル。お風呂入れてあげるから、ちゃんと温まりなよ。風邪引いちゃうよ」


 お姉ちゃんが、雨に濡れた私にバスタオルを渡してくる。この時間なら家に誰も居ないと思っていたのに、よりにもよってお姉ちゃんが帰ってきていたとは。

 今年から地元の国立大学に入学した彼女は、私とは正反対の人だ。明るくて、社交的で。誰とでもすぐに仲良くなれて、しかも美人。

 小学校の先生になるという夢を叶える為に、毎日勉強を頑張っている。バイトは自分で学費を払うため。

 本当に、完璧なお姉ちゃんだ。


 だから、私はお姉ちゃんが苦手だ。お風呂に入っている間に、誰かから遊びにでも誘われたりしないかなと願ったが、無駄に終わった。


「ねえ、最近学校はどう? 友達出来た?」

「……別に。宿題するから、邪魔しないで」


 わかってるくせに。わざとらしく聞いてくるお姉ちゃんにそれだけ言って、私は自分の部屋へと逃げ込んだ。

 一瞬、寂しそうな表情が見えたけど気に留める必要はない。

 どうせ、彼女も私のことなんてどうでもいいと思っているのだから。


「はあ……疲れた」


 ようやく訪れた静寂に、私はほっと息を吐いた。だが、すぐに机の上に置いていたスマートフォンがメッセージアプリの通知を知らせてくる。

 無視すればいいのに。一体何を期待しているんだか、私はスマートフォンを手に取りアプリを開く。

 届いたメッセージは、案の定の内容だった。


『明日三万円持ってこい』


 クラスのリーダーである鹿藤杏子かとうきょうこ。彼女からこうして、定期的にお金をたかられるのだ。

 最悪だ。でも、何も言わないでいると更に要求がエスカレートしてしまう。私はうんざりしながらも、返事を打った。


『そんなお金ない』

『親と姉ちゃん居るだろ? 財布から抜けばいいじゃん』

『そんなこと出来ない』

『この前撮った可愛い花柄パンツの写真、ネットでばら撒いちゃおうかなぁ?』

「この……ッ、最低!!」


 スマホをベッドに投げつけ、自分もベッドへと倒れ込む。思わず枕に顔を押し付けて叫ぶが、何の慰めにもならなかった。

 そもそも、鹿藤に目をつけられたきっかけは些細なことだった。私が鹿藤とその取り巻きのグループに同調しなかった、それだけ。

 自分の手下にならなかったことが、相当気に入らなかったらしい。イジメはクラスが変わった四月から始まって、六月が終わろうとしている今でも飽きずに続いている。


『先生や家族に相談すればいいじゃないか』


 お化けに言われた言葉が、頭の中で繰り返される。彼をこの家で見たことは一度もない。それなのに、彼の声や言葉はいつでも意図せず思い出されてしまうから忌々しい。


「どうせ話しても、同情されるだけで何も変わらないじゃない」


 仰向けになって、天井に向かって呟く。お化けは何度も同じ忠告を繰り返してくる。

 でも、誰かに話して何か変わるのだろうか。いつも仕事で忙しいお父さんとお母さん、そして大学生活を満喫しているお姉ちゃん。それぞれやるべきことで忙しいのに、私がイジメられていると知ったところで、何か変えてくれるのだろうか。

 担任の先生でさえ、アンケートをとってそれっぽい話を授業でするだけなのに。家族は部外者だ。部外者が、私の現状をなんとかしてくれるとは到底思えない。


『きみが望むなら、いじめっ子を殺してあげよう』

「ふふっ、そうだなぁ。あいつが死んだら、ちょっとはスカッとするかもね」


 思わずそう吐き出して、自嘲する。何を言ってるんだろう。自己嫌悪を飲み込んで、私は目を瞑った。

 



 




 

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