スーパーカブ
トネ・コーケン/角川スニーカー文庫
第1話 ないないの女の子
山梨県北杜市。
中央本線の日野春駅から伸びる下り坂は、国道を越えると緩い登りになる。
初夏の陽の下で、一人の少女が自転車を漕いでいた。
ブレザー制服の下にジャージをはいた小柄な少女。
おかっぱ頭にうっすらリンゴ色のほっぺ。美少女と言うには小さく野暮ったい目。東京や神奈川の郊外に居ても、田舎の女学生という印象しか抱かれないような女の子。
少女の名は小熊。外見の田舎っぽさを更に盛り足すような名前をつけた人間に文句を言おうにも、それは不可能だった。
小熊は天涯孤独の一人ぼっちという奴だった。
父親は小熊が生まれて間もなく事故で死に、さほど多額でなかった父の遺産を切り崩しながら小熊を育てた母親は、小熊が高校に進学した直後、お役目終了とばかりに失踪宣言の紙切れを残して姿を消した。
高校に入っていきなり親を失った小熊。父母が駆け落ちに近い形で結婚したこともあって疎遠だった祖父母もとっくに没していて、頼れる身寄りと言える親族は居なかった。
小熊は通っていた高校や自治体と相談した結果、奨学金の給付を受けて現在の高校に通い続けられることとなった。
奨学審査のための学力試験に何とか合格した小熊は、とりあえず平穏な生活が送れそうになったことに安堵し、今はもう居ないけど、バカではない子に産んでくれた母親に一応は感謝した。
ドラマやマンガでは強調されがちな、たった一人の親に捨てられた悲しみは自分でも驚くほど薄いものだった。
昔から母とはさほど会話をしない暮らしをしていた。嫌いだったわけではなく、小熊は人への執着を抱かない少女だった。
クラスにも友達といえるほど親しい人間は居ない。部活もやってない。趣味らしい趣味も無い。
ないない尽くしの生活を特に不便だと思ったことは無かった。
市町村合併で北杜市となる以前、ここが武川村だった頃の中心部に近づいていくに従って、上り坂は少しずつ勾配を増していく。
小熊は隣町のホームセンターで買った一万円ママチャリのペダルに力をこめた。横をロードレーサー・タイプの自転車に乗った同じ高校の生徒が追い抜いていく。
あんなエネルギッシュな高校生活を送れたら面白いのかな、と少し思った。学費に加え慎ましく暮らせばなんとかやっていける程度の生活費が無利子で貸し付けられる奨学金で暮す身。ママチャリの前カゴに放り込まれてる通学鞄の中に入ってる弁当も、毎朝自分で作ってる。生活に必要ならば自転車を買い換えられるくらいの蓄えはしているが、そんなことのために貯金をはたく気にはなれなかった。
高校が近づいてきた。もうすぐ予鈴が鳴る時間。周りに同じ制服を着た生徒たちが増えてくる。
自転車、徒歩、高校前のバス停に向かう路線バス、このバスの定期代さえ節約しているが、特に何の目的があるわけでもない。
最近になって自分には何も無いということを意識し始めた。
身寄りも無く、人への関心が薄いため友達も居ない。高校を出た後の目標も無く、生活の中の楽しみといえるものは、せいぜい部屋でラジオを聴いたり、地図を見て空想の旅をするという安上がりな暇つぶしだけ。
軽快で耳障りな音と共に原付スクーターが横を走り抜けていった。小熊の通う公立高校は坂の多い立地にあるため、原付に限りオートバイでの通学が認められている。
小熊は走り去る原付を見ながら、あの子には原付というものがあると思った。何も無い自分との違い。今漕いでる自転車はただの生活道具。自分にとっての何かじゃない。何も無い暮らしを変えてはくれない。
あの原付という物があれば何かが変わるのかな?と思った。
特に何かを得られたという感触も無いまま授業が終わり、小熊は駐輪場に停めてある自分の自転車に乗った。
自転車の駐輪場に隣接するバイク駐輪場には何台かの原付が停めてある。生徒数に対してそんなに多くは無い。
南アルプスの麓に位置する北杜の町。夏は南関東並みに暑く冬は積雪し路面が凍結する地では、原付はさほど便利な乗り物では無い。
徒歩には遠い場所から通う生徒の多くはバスを使い、原付で通ってるのはバス路線から外れた中途半端な場所に住んでる生徒、あるいは好きこのんでそうしてる人間だった。
小熊はバイク駐輪場に並ぶ原付をしばらく眺めていた。
今朝一台の原付に抜かれて以来、妙に原付というものが気になる。小熊の知識ではそれなりの値段がするものだということしかわからない。奨学金の蓄えでは届かぬ物。
自転車に跨って駐輪場を出た小熊は、自分の暮すアパートのある日野春駅方面への下り坂とは逆方向、市街を離れ別荘地やゴルフ場のある上り坂へと自転車を漕ぎ出した。
何か当てがあったわけでもない。ただ毎日学校帰りの体に苦行を強いる日野春駅方面の急坂より、こっちの緩い坂のほうが登りやすそうに見えた。
あるいは、こんな坂のことなど気にしなくてよくなる物があるかもしれない。
川沿いに何kmか走った小熊は、一軒の建物の前で自転車を停めた。
周囲と少々不似合いな青い鉄筋二階建て。バイクのイラストが描かれた看板。以前小熊がちょっとした散歩気分で自転車に乗り、走り回った時に見かけたバイク屋。
南アルプスの山々が連なる狭間の渓谷に人が住み着いた北杜の町。どこに行くにも坂道を登らされる土地で自転車での散歩はとても不向きだということを知り、以後、自転車は通学と買い物にしか使わなくなった。
いつもとは違う寄り道をした小熊は、中古バイク屋に並ぶバイクを端から眺め始めた。
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