2.臆病な男
「カナちゃん、また返り咲きましたね。若くして銀賞を受賞して、それで充分な実力を備えて、工芸家としても地位を定着させたと思ったけど。十数年経って、また金賞をとっちゃうなんてね。たしかに、雰囲気のある子でしたよ。ガラスに対して真剣だったのも伝わってきましたよ。それでも、質素な身なりで単身やってきたあのあどけない女の子が、こんなふうに開花するとはね――。信念でしょうか」
事務の彼女がまたほうっと息を吹きながら、熱いお茶を冷ましつつ、ずずっとひとくちすすっている。
潔もカップ片手にひとくちすすりつつ、窓の向こう、春を感じさせる青空と残雪の景色を遠く眺める。
信念? いや、違うな。
カナという女の子とは、なんとなく感性が通じ、しっくりするものを潔は感じていた。
消えたんだ。わだかまりが。
信念じゃない。心残りがあったんだ。あの子のなかにずっと住んでいた姉と義兄が、消えたんだ。
倉重花南が『螢川』という作品で金賞を受賞したという報せが届く。遠い小樽にいても、送られてきた作品の画像をひと目見て潔には通じた。
急に失った愛しい人。もっと伝えたいこと、してあげたかったことをいつまでも携えている、その心残り。ずっと燻って、ガラスに映すこともできない。映した瞬間にガラスが煤けてガラスの意を失う。
それを恐れてずっと映さないよう心の隅に追いやって、何度も何度も『無垢』になるよう心得てきた。
その『煤けてしまうもの』を、ついに『無垢』にしたのだ。
潔にはわかる。
潔も亡き妻を思ってガラスを吹く。でも彼女は決してガラスに吸い込まれない。いつも潔のそばにいて、無垢になる手伝いをしてくれている。
彼女をガラスに吸い込ませると、煤けていく。
彼女は潔の心を無垢にするけれど、ガラスのように透明にはならない。
何故なら『哀しみ』の色を常に滲ませているからだ。
倉重花南もずっと携えてきたことだろう。
でもいつか、それを無垢にしようと、密かに構えていたはずだ。
『いまだ』。そう感じた瞬間が訪れたのだろう。そして彼女はガラスの川に、螢の魂を送り出したのだ。
現物を見なくてもわかる。きっとそうだ……。
「でも親方。行かないのでしょう。いつもそう。弟子の展示会に出向いたことはないですよね。まず、この工房を留守にすることがありませんもんね」
「そうだね。工房を離れていると落ち着かないよ。空港に到着しても小樽に帰りたくなっちゃうんだ」
ほんとうのことだ。飛行機に乗ろうと新千歳空港まで行くと、もう快速エアポートに戻って小樽に一直線、帰りたくなる。
そこに妻を置いているからだ。幻影だけ残している妻さえも消えてしまったらと思うと恐ろしくなる。妻の気配と残してくれた意志をそばに、永遠にガラスに向かっていたい。彼女の願いを日々、叶えてあげていたい。
『潔君のガラスが好き。大好き。このオブジェ、一生割らないよう大事にするね』
婚約の証に、真っ赤なガラスを被せた切子のオブジェをプレゼントした。柱のようなガラスに、彼女のためだけに編み出した図案で、丁寧に切子をいれたガラスオブジェ。
彼女のかわりに、いま潔が大事に手入れをして飾っている。
それのそばに常にいたい気もちが何十年も……。だから潔は、小樽から遠く離れた場所には行きたくない。何日も家を空けたくないのだ。
その理由を知っている者は僅かだ。
この事務の女性はしらない。長く一緒に居るけれど、そこまで話したことはない。ただ『工房を守ることひと筋の親方さん。工房を留守にしたがらない』ぐらいのことだと思っている。
「仕方ありませんね。お弟子さんたちもわかっているでしょうけれど――。でも私はカナちゃんの螢川、目の前で見てみたいわ~。カナちゃんにも会いたいし、カナちゃんご実家のリゾートホテルにまた行きたいな~」
昔のよしみで事務の彼女も、『倉重リゾートホテル』まで家族旅行で出向いたことがある。オーナーである大澤杏里が夫の樹と結婚記念日旅行で訪れ、『素晴らしかった。また絶対に行く』と大絶賛した姿を目の当たりにして、事務の彼女も山陰に興味を持った。オーナー夫妻に紹介をしてもらって山陰の旅にて、カナのところまで。カナも懐かしい事務のおば様がわざわざ会いに来てくれて大感激で迎えてくれ、大澤夫妻同様にカナと耀平の社長夫妻自ら、至れり尽くせりのおもてなしを受けたのだとか。
「ホールに展示されている『瑠璃空』も素晴らしかったですよ。親方も一度は、あちらのホテルに行かれては? 色彩が素晴らしく、ああカナちゃんはここで感性を育んだのねと、感銘したほどの絶景なんですよ。もう別世界」
うっとりと思い出している彼女の顔。
でも潔は羨ましいとも行ってみたい見てみたいとも、『まだ』思わない。
カナの感性をビリビリと感じたあの歳月で充分。この工房で働いていた時、弟子だったときに存分に感じていた。いや……。履歴書を見た時から、予感はあったかな……? 学生時代の尖った作品を堂々と名刺代わりとばかりに小樽に送りつけてきたあの時から……。あの度胸、気の強いご令嬢ちゃんとも知らなかったから、余計に気になったものだった。
あの時のことを思い出すと、潔の口の端は笑みで緩んでしまう。
たのしい時間を過ごさせてもらった。娘のような、生意気なお嬢ちゃんとの時間だ。
あれが倉重花南と過ごした最高の時だ。
だから。いまの彼女に会ってみたいとは『まだ』思わないのだ。
少しだけ気になるとしたら。
娘が結婚して妻となり母となり、成人した息子を社会に送り出し見守る中年女性となって、『不惑の
ただ、それを見てしまったら。小樽で過ごした生意気な小娘ちゃんとの時間が消えてしまいそうで怖いのだ。
臆病だと思っている。臆病な男。
亡くなった妻から抜け出すことが怖い、臆病な男。
娘と重ねた女の子との時間を、いつまでも握りしめて上塗りできない臆病な男――。
だが、時は急に動き出す。
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