花の夢、咲くころ③

 ホールは和やかな空気に包まれ、皆が笑顔で会食を楽しんでいる。


 会場入りした時に、芹沢親方と、一緒に来てくれた勝俣先輩とは『お久しぶり』の挨拶を交わしていたが、『後ほど、ゆっくり』と約束をしてそのままだった。どこにいるのかとホールを見渡したが、どこにもいない。


 親方もカナと一緒で人が多いところはあまり好まない人なので、遠い土地の知らぬ人間ばかりの会食は気詰まりで、つむじを曲げて帰ってしまったのかなと心配になってくる。


 ひとまず、お抹茶をしているだろう航と女将の様子を先に覗こうということになり、弦と一緒にホールから庭のテラスに出てみた。


 そこで、カナと弦はそこにある光景に目を瞠った。


 竹のベンチに着物姿の女将と航が並んで座ってお菓子を食べているが、正面には既に芹沢親方が向き合っていたからだ。


「あ、もう対面が終わっているようですね」


 三男、弦がほっとした顔をしている。

 何故なら、女将が航と芹沢親方の会話を聞いて、おほほ――と楽しそうに笑っているのだ。



「もう、親方ったら、いっつも厳しいな。どうしてだよ。俺がせっかく、山中湖の工房も援助するって言ってるのに」


「社長かなにか知らないが、まずはおまえの母親がいる工房を守ることから始めろ。いきなり偉そうにあちこち手を伸ばすな」


 親方がビールグラス片手に航を睨んでいた。


「そうですよ。航さん。職人さんを守りたいという、あなたの気持ちはご立派です。ですけれど、目の前のできること、やらなくてはならない最低限のことから始めるのが大事ですよ」


「ほーら、女将さんも、お祖母様もおなじご意見だ。さすが女将さんですね。しばらくはまだまだ親父さんや、祖父様たちの監視が必要だなこれは」


「そんなことしていたら、親方の工房、潰れちゃうんじゃないの」

「はあ!? おまえ、航、なんだってこの野郎」


 ああ、いつもの厳しい親方と、生意気な航が、既にやり合っているとカナは焦った。

 なのに。その間に、女将がやんわりと入っていく。


「芹沢さん。この子の気持ちもお察しください。航さんにとって、そちらの工房は大事な場所ですから、萩と山口の工房ともども守りたいという気持ちなのですよ」

「それは……」


「その節は、本来なら血縁のわたくしどもが向き合わねばならないことでしたのに、芹沢さんにお任せしたこと申し訳なく、またそのお広い懐で孫を守って導いてくださって、ありがとうございました」


 航と並んで座っていた竹のベンチから、女将がそっと立ち上がり、深くお辞儀をした。


 当然、芹沢親方が当惑している。彼にとっては、『いつか、この少年はここにくる』と覚悟してくれたことでもあったので、お礼を言われても困るようだった。


 そこへやっと、カナは息子と女将と親方がいるそばへと歩み寄る。


「親方、こちらでしたか。ご紹介はもう必要ないようですね」


「花南、探したぞ。知らない人間ばかりなのに、勝俣のやつ、そちらの山口工房親方のヒロ君と親しくなっているもんだから、話が尽きぬようで動かなくなってしまったんだ。庭にでも出て、一人になろうとしたら、航がいて――」


 航と女将がいるところにちょうどさしかかり、きちんと航から紹介してくれたということだった。


「あの、金子の三男です。母と共にお礼を伝えたいと常々思っておりました。兄が遺した子をお守りくださいまして、ありがとうございました」


 三男の弦も時を逃すまいと、花南の隣に並ぶと、目の前にいる親方に深々とお辞儀をした。


「いえ、その……。……、この弟子の花南を預かった、ついでといいますか……」


 どうも人からお礼を言われるのが苦手なようで、いつだったか、義兄だった耀平のお礼の言葉もはねのけて、もうすぐに山口に帰れ――と突き放された日を、花南は思い出してしまっていた。


 なのに。親方も感慨深そうにため息をつくと、初夏の空をふと見上げている。


「古都の霞が似合う、朧の夜空ですね」


 芸術家である芹沢親方がそう呟くと、皆が空を見上げ、その静かな空気に引き込まれていく。


「花南が私の工房で銀賞を取った作品は、山中湖の空、満天の星がモチーフでした。思い出します。航と、彼女の母親の静佳さんが、家出娘だった花南を追って会いに来た冬です。別れの前夜、この叔母と甥っ子が、凍った湖畔でふたりきり、空を見上げて語り合っていたあの日……」


 星の数ほど嘘をついた――と、航に話した日のことだと、カナも気がつく。


「重く暗い富士の冬空の下、訳がある女と、訳がある少年が、澄んだ空気の中、離れそうだった手と手を繋いで、これからも離れないと誓っていた夜です。その時から……、私は、この空の下の誓いを見届けた一人として、いつか、この子たちの重みを私も共に分け合いたい、軽くしてあげたいと思っていましたから」


 関わった以上、最初からそのつもりだったと言ってくれる。

 またカナの目に涙が浮かぶ……。この人も、カナにとってはある意味お兄様でもあった。


「私も、振り返れば取り返したい過ちがあります。私のところに、倉重の人間が流れ着いたのもご縁、そうさせていただきたかっただけです。私の自己満足です」


 親方らしい言葉だった。

 だから、もう女将も弦もなにもいわなくなる。でも、やっぱりお二人とも嗚咽を堪えて涙を流している。

 航も神妙な面持ちでうつむいているが、必死に泣くのを堪えているようだった。


 その航が急に顔を上げて、眼鏡の面差しで笑顔を見せた。


「俺、女将さんも、弦叔父様も、芹沢親方も。勝俣さんも……。ヒロ君も、舞さんも、そして、カナちゃん、お父さん……。豊浦のお祖父ちゃんにお祖母ちゃん、仙崎のお祖母ちゃんも。こんなにたくさんの人に大事にしてもらってきたんだって思っている。だから、俺、カナちゃんがいつか言ってくれた『ことわり』で生まれ出ただけのことだから、ここまで引っ張ってきてくれた皆さんの『愛』に、これからも応えてきたいと思っています。今日まで、俺の行く末を見守ってくださって、ありがとうございました。大丈夫です。俺は、父や母、そして倉重の家のために、まっすぐ生きていきます」


 もうカナは気絶したくなるほどに……、感動していた。

 


 姉さん、忍お兄さん。航はまっすぐに大人になって、これからも生きていきますよ。



 そう伝えたい。そして、ここにいる航を見守ってきた大人たちに、きちんと航は応えられる青年になれたと、カナは安堵している。

 金子の女将も弦さんも、もうみな涙をハンカチで拭っているのに。ひとり、どうしようもなくぐちゃぐちゃの顔になった人を見てカナは仰天する。


 それは航もだった。


「え、え、ちょっと……親方……」

「この、ばかやろうめ……、泣かすんじゃねえよ……立派になりやがって」

「え、どうしよう。カナちゃん。まさかの親方がいちばん号泣しちゃってる!」

「珍しすぎて、わたしの涙が止まっちゃったわよ。もう、親方ったら、歳を取られたんですね」


 ご自分のハンカチもぐちゃぐちゃになっているので、カナの予備のハンカチを手渡した。


「あ、いたいた。親方、探したんですよ」


 兄弟子の勝俣先輩も庭に出てきた。

 なのに親方がぐちゃぐちゃの顔になっているので、こちらもぎょっとしている。


「え、え。花南、なんかあったのか」

「えー、まあ……、その……、航の感謝の言葉に大号泣中です」

「あー、やっぱり涙腺崩壊しちゃったかー」


 勝俣先輩が面白そうにして、カナに教えてくれる。


「親方も歳なのかな。あれでも最近ちょっとのことで涙もろくなってさ。さっきも、航の就任挨拶を聞いて、目がうるうるしちゃって外に出ていったくらいだからな」

「え、そうだったんですか」

「そうそう。ムリムリ。本人の前で厳しい顔を整えたって、今日は号泣すると俺は思っていた」


 親方と二人三脚で工房を支えてきた先輩が明るく笑った。


 今も気の良い兄弟子で、カナもたまにガラスの相談をしたり、まめに連絡を取る職人のひとりでもあった。

 そんな勝俣先輩がきたついでに――と、カナはそっと彼の腕をひっぱり、庭の奥へと向かう。


「なんだよ。花南」


 夏の青もみじがさざめく水池の近くで、彼と二人きりになる。


「本日は来てくださって、ありがとうございました」


「いや……、こちらこそ。招待をしてくれてありがとう。特に親方が、こんな会食パーティーなんて好きではないのに、そちらからの招待状がきたら即決で出席を決めたほどだったよ。航の節目を見たかっただろうし、嬉しかったんだと思う。俺まで、ありがとうな」


「ご一緒のほうが、親方もお一人よりかは楽しめると思いましたし、それに、私も徳永も、勝俣さんとは今後も職人としての情報交換をしていきたいので、お話をしたかったものですから」


 先輩も少し歳を取ったなと思ったカナだったが、出会ったときよりも風格がでてきたなと、今日の兄弟子を見上げた。

 彼も着物姿のカナを見下ろし、静かに微笑んでいる。


「立派な奥様になっちゃったな。ま、最初に出会ったときもさ、雰囲気のある女だったけど。当時も山口に帰ろうとした時の花南の姿は、やっぱりお嬢様だったもんな」


「ええ。仕方がないんですよ。そういう家に生まれまして。そうでなければ、勝俣さんがご存じの質素な女でぜんぜん構わない生活をしていたはずなんです」


「あれもあれで、すごかったよな。携帯もっていない、テレビもっていない、パソコンもインターネットもなし。修道女みたいな生活していたもんな」


「テレビはありましたよっ。小さかったけれど。暖房が第一でしたので」


 でも。修道女みたいな生活――と初めて言われ。確かにあの日々は、懺悔をする修道女みたいではあったと振り返ったりした。


「それで。なんだよ」

「あ、ええ。その、航が申し出ていることです」

「ああ、うちの山中湖の芹沢工房を援助してくれるってヤツ?」

「生意気で申し訳ありません。ですけれど、本当のことではありませんか。常にギリギリでされていますよね」


 勝俣先輩がため息をついた。


「そうだな。カナがいたころの職人が一人二人と辞めて、いまは俺と親方、そして新しく修行に来た二十代の駆け出しだな」


「親方がおひとりで、ずっと維持してきたことはわかっています。ですが、もし、もし、ほんとうに必要な時には……勝俣さんから説いてくださいませんか」


「……わかった。俺もそうしてくれたら助かる。うちは子供ができなかったんで、嫁さん実家のぶどう農家を手伝いながら、嫁さんが俺を支えてきてくれたから辞めずに済んできたけれど。職人が食っていくというのは本当に大変なことだからな。やっぱりバックアップの資金力があることに越したことはない。そちらとご縁があって、良かったと俺は思っているよ」


「あの時、わたしのような流れ者の女を、世間知らずだったわたしを、育ててくださった工房というのもありますが、金賞や銀賞がだせる力がある工房です。その創造性と技術を、夫も航もなくしたくないと思っているんです。私も徳永もです。できれば、倉重と提携していただけたらと思っています」


「わかった。ありがとう。花南」


 カナもほっとして、思わず顔をほころばせていた。


「母親だな。すっかり」

「いえいえ、名ばかりで。未だに義兄にも航にも、カナだから、カナちゃんだからできなくて仕方がないかなんて言われますしね」


「そんなん、照れ隠しの口だけだろ。でもさ、思うな、俺も。親方は家族を一度手放してしまった男だから、余計に、航が息子みたいに思えるんじゃないかなって俺は感じている。俺もだけどな。子供ができなかったから、航が来たら、それこそ甥っ子が来たみたいな気分になっちゃうしな」


 だからこそ。航にとって居心地のよい場所になっていたのだろうとカナは思う。

 親方がもうひとりの父親のように厳しくして、勝俣先輩がおじさんだか兄貴のようにして、おおらかに接してくれたからだとカナは思っている。


「これまで、ほんとうに、ありがとうございました。あの時のこと、感謝しております」


「最初の瑠璃空を割り砕いた時、おまえが、俺と親方にだけ、本当のことを伝えてくれたからだよ。そうは口にできないことを、俺と親方に。おまえが帰った後、親方と話していたよ。三年後か五年後、あるいは十年後かもしれない。航が山口から逃げたくなった時の帰る場所にしておこうと、覚悟を決めていたよ」


 また。カナの目に涙が浮かぶ。

 どれだけの人々が自分を家族を助けてくれていたことか。


「ほんとうに。当時、親方に、ひとりでいきていこうとしている時点で大人ではないと言われたことを思い出します。もっと人を頼っていたら……、姉も……忍兄さんも……」

「もう、言うな。花南。めでたい席なんだから」


 後悔しても、もう取り返すことはできない。

 それこそ航が言ったとおりに、過去に何があっても、これからを真っ直ぐ前を見て行こう……。


 離れた場所ではあったが、青もみじが夜風にさざめく葉の向こうには、もう楽しそうにお抹茶を楽しんでいる航と女将と芹沢親方の姿が見える。

 もう三人揃って笑い声を立てていた。


 その光景を、勝俣先輩と遠く微笑ましく眺めていた。




 パーティはそのまま賑やかに過ぎていく。

 誰もが笑顔で、そして幸せそうにしている。



 だが。それでもどうにもならないことはあった。


 金子の女将が招待され、航の門出を見届けてもらい、一時のお祖母様と孫が過ごす時間は許されたが。

 それでも。倉重の母と、仙崎の宮本の義母は、決して、金子の女将に挨拶などに近づくことはなかった。


 それは最初から話されていたことで、そこまでが母たちが譲れることだったのだ。


 金子の女将も立場を心得ていたが、航の願いでもあったため、母たちは素知らぬふりをして我慢をしてくれたのだった。


 立派に倉重を支えてくれた婿養子の耀平を傷つけた男の母、娘を奪った男の母。

 息子の結婚を台無しにした男の母、血の繋がりのない子供を押しつけ知らぬ振りをして生きていた男の母。


 母ふたりは、そこは、航が許しても、自分たちも金子の女将の母親としての哀しみや痛みがわかっても。

 そこは苦労をした息子、耀平のため、そんな生い立ちを背負わせた孫のために、その意地を張り通す覚悟だったのだ。


 金子の女将もそう。息子がそちらのお家を守って死んだのに。そちらのお嬢様の不義でもあったのに。そう思っていることもあるのだろう。


 距離が縮まらない母と宮本の姑と、金子の女将の間に交わらぬ冷たい空気――。

 だが。花南は目を逸らさないで見つめる。

 これが、母親の意地で覚悟なのだと。

 今日は母の着物が重い。女が妻や母として生きてきた重みだった。



 パーティも終わりになり、父の雅晴に夫の耀平、そして航が帰って行く招待客をロビーで見送る。


 金子の女将が、父と、耀平と、航に、それぞれ挨拶をして、三男の弦と共に深々と頭を下げて帰ろうとしていた。


 旅館の玄関を出て行こうとしていたその時。

 そこに、着物姿の花南の母と、耀平の母が並んで待っていたのだ。


 花南はハラハラして、思わず、父と耀平のところへとそっと駆けていく。

 でも、その間に。母親三人が、そっと無言でお辞儀を交わしていた。


 そして、それだけ。

 でも、どちらも長く頭を下げている。無言で。

 そこに言葉を交わせないからこその、母親どうしの意地も……、そして寛容な許しも見た気がした。


 そのまま金子の女将が立ち去ると、待ち構えていたタクシーに息子と乗り込んで消えていく。


 花南はもう、父と夫のところへ行く足を止めていた。


 これで良かったんだ。そう、良かったんだ。


 人々が去る静けさの中。花南も玄関先で金子の女将が去って行った道を見送る。

 その時、ふっと蛍が飛んでいたのを見る。


 そういえば。もうすぐ蛍まつり。

 一の坂川に、天然記念物の源氏ボタルが飛び交う季節だと気がついた。

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