ちーママさん③
出張から帰ってきた耀平に、カナは先生と話したことと航の意向と気持ちを報告。
やはり耀平兄も釈然としない様子だった。
だけれど、父子が大喧嘩にはならなかった。
「保留だ。いまは話し合わないことにした」
数日後、カナが耀平から聞かされた結果がそれだった。カナは眉をひそめる。
「兄さん。早めに決めた方がいいって先生も言っていたでしょ。いいの、そんな保留なんて」
「いいんじゃないか。航が上を目指すというなら、もうそのつもりで勉強をしているのだろう。俺がすすめる大学も確実なら、いまは保留にしておく」
航がめざす耀平出身の有名大学は今からも学力維持で目指せばそれでいいし、もし、志望校を父親がすすめる大学にしても確実だからそれでいい――ということらしい。
どうするの兄さんは――と、問いつめたら、『少しの間、そのままにしておいてほしい。頼む』と、夫の顔で言われてしまう。航を一緒に見守るパートナーとして黙ってみていてくれということだった。
だから、カナはもう首を突っ込まず、それからもいつも通り淡々と工房にて炉の炎に向かっていた。
しばらくして、夏休みになる。
陽炎が揺らめく夏の工房。汗びっしょりになって、いつもの白いシャツにカーゴパンツ、工場用エプロンで吹き竿の先に出来上がった上玉を、島崎君を相棒にポンテ竿に移し替えたところ。
今日は小さな水鉢をつくっている。その作り方を繰り返し、後輩の彼に叩き込む。
工房の入口、燦々と午後の陽差しが降りそそぐ路地に、先生が立っていた。カナと目が合い、先生からお辞儀をしてくれた。
「先生?」
カナの目線に島崎君の目線が、ガラスから工房入口へと向かってしまう。
「そのまま、鉢の口を作っておいて」
「はい、花南さん」
成形を後輩の手に任せ、カナは吹き竿片手に、そのまま工房の外でたたずむ先生の元へ。
「いらっしゃいませ、湯沢先生。先日はお世話になりました。あの、本日は……? 航がなにか?」
「お父さんが今日はこちらにご在宅とお聞きして、やはり一緒にお話しをしておきましょうということになり伺わせて頂きました」
「そうでしたか。暑い中、わざわざ有り難うございます。自宅はこちらです、どうぞ」
「いえ。ガラス工房を初めて見るので、覗かせてくださいとお父さんにお願いしたのです」
「とっても暑いですよ」
「そのようですね……」
先生が、先日とは打って変わって化粧っけもなく、無造作な格好をしているカナをじっと見つめている。
あ、しまった。こういう格好をみられることになってしまったと、カナは我に返る。でも眼鏡の先生が、優しく微笑む。
「ここで、あのガラスの酒器ができたのですね。今日は花南さんを見て、やっとイメージできた気がします」
先生がさらに笑顔で言ってくれる。
「ガラスの酒器と、あなたが重なりました。大事に使わせて頂きます」
「……あ、有り難うございます。職人として、とても嬉しいです」
「航君が、叔母のガラスはすごいんだと話してくれたこともよくわかりました。日頃、クールにしている彼が、子供のような顔で教えてくれたので不思議に感じていたのです。母親代わりの女性がガラス一筋の職人さん、それがそれまで子供だった彼になにを感じさせたのかと――」
先生の目ではなかった。子供が四人もいるお父さんの疑問――というようにカナには見えた。
「航がわたしのことをそんなふうに、ですか?」
「はい。彼が見せた唯一の子供の顔でした」
そんな目でガラスを見に来る人は初めてだったので、カナは戸惑ったまま。
「花南さんはそのままで、きっとお母さんですよ」
ガラスを吹くカナを見ただけで『母』だと言われても、ますますわからなかったから、カナは呆然とするだけでなにも返答できなくなってしまった。
そうしていると、玄関から黒いスーツ姿の耀平兄が出てきた。
「先生。冷たい飲み物の準備ができましたので、どうぞ。工房はいかがでしたか」
在宅中でも、先生がくるとあって義兄はネクタイをきちんと締めていた。
「はい、素晴らしいですね。今度、吹いてみたいです。それでは、お邪魔いたします」
義兄の案内で、先生は本宅へと連れられていった。
これから。あの話を先生とお父さんと、きっと航も交えてするのだろう。
なんだ。結局、兄さんと先生と航で話し合うことになったじゃない。この前のわたしのお役目は無駄だったのかな……。カナはつい溜め息を落としてしまう。
吹き竿を持って工房に戻ると、島崎君の指導にヒロが付き添ってくれていた。
「ごめん。ヒロ。航の先生が急に来たから……」
「島崎、球体の形をよくみろ。どれも同じになるように。創作と製品の違いはそこだ」
「わかりました」
こちらも、入る隙がなくなっていた。小さな水鉢は山中湖でもよくつくっていた。毬藻用に。それを夏の小物として緑を生けたり花びらを浮かべたりなど、いろいろな用途で売れるのではと作ることになった。
ヒロはカナが造った水鉢を見ると、すぐに彼も同じように作成してくれた。そこが相棒。カナの製品をすぐさまコピーして、まったく違わぬものを造ってくれる。
指導もカナに代わってすることもできるし、むしろ、親方で製品としてものをつくるなら彼の方が上、指導もお手のものだった。
「行ってこいよ、カナ」
後輩の拙い手元を見据えたまま、ヒロの声だけが届いた。
「三者面談デビューで焦っていたおまえ。けっこう見物だったな」
ヒロがやっとカナの方を見て笑った。
「う、うるさいなあ。高校の、しかも受験生の三者面談だよ。このまだまだ新人ママのわたしがだよ」
「それでも。母親の気持ちで行ったんだろ。先生とお父さんがなにを話すのか、兄さんがなにを考えて先生と話すのか知りたいんだろう。行ってこいよ」
「でも……」
「面倒くせえ女にまたなりたいのかよ。行ってこいよ、素直に」
親友でもある彼に押され、カナは吹き竿を手放し本宅へと向かう。
裏口から戻り、リビングをそっと覗くと、いつものソファーで先生と兄さんが向きあっている。耀平兄さんの隣には航もいた。
そこでカナは思わぬことを聞いてしまう。
「航の望む大学を志望校と定めようと決めました」
覗いていたドアのそこで、カナは目を丸くする。どういう心境の変化で? 耀平兄が望んでいた大学は去年から一貫して航に薦めてきたものだった。それをここにきて折れたのは何故?
「わかりました。じゃあ、航君もそれでいいね」
「はい、先生」
またカナの入る隙はなし、だった。
そのまま工房へ戻った。
―◆・◆・◆・◆・◆―
夕方になり、工房も終業。カナは再び自宅へと戻り、いつも通りベッドルームで汗を吸い込んだ服を脱いで着替える。
下着を替え、新しいシャツへと着替え終わると、耀平がベッドルームに入ってきた。
「終わったのか」
「うん、暑かったよ。ちーちゃん、どうしてる?」
「航と遊んでいる」
「そうなんだ。じゃあ、シャワーを先に浴びてこようかな」
先生が来たこと、なにを話したのか。それを気にしないでベッドルームを出て行こうとした。
しかし、身体ごと引き留められ、もう兄さんの白いシャツの胸の中に抱きしめられていた。
汗でべたついてしまった黒髪なのに、そこに兄さんが鼻を寄せて匂いを吸い込んでいる。
「ガラスを吹いた後の、カナの匂いだ」
よく言われることだったので、カナは黙って聞くだけ。
「離して。汗を流して、いまのうちにちーちゃんにおっぱいあげておくんだから」
すると、今度は少し顔を離した兄さんが、なにか面白そうにしてカナを見下ろしている。なにかを含んだような笑み。
「な、なあに?」
「ちーのママだな」
カナが千花のことを『ちーちゃん』と呼ぶようになると、今度はパパの耀平は『ちー』と呼ぶようになってしまった。
「あたりまえでしょう。なんなのよもう」
まだからかうような楽しそうな、義兄の顔で見下ろしている。
でもその顔が急に優しく崩れた。
「航のちーママでもあったな」
「なに、それ」
ちーちゃんのママはわかったけれど、航のちーママの意味はわからない。
「航の母親をしてくれたな。ありがとうな」
え? カナは固まった。そして『ちーママ』の意味もわかった。それでも母親をしてくれたと言ってくれるお兄さん。絶対にそんなことはないと思っていたから驚いて――。
「母親みたいなことなんてしていないよ。先生の話を聞いて兄さんに報告しただけだし。兄さんが黙ってみていてくれと言うからなにもしていないし、今日だってわたしがいなくても先生と兄さんで決めたんでしょう」
「そうだな。カナが運んできてくれた美月の言葉で決めた」
さらにカナはびっくりして、抱きしめてくれている彼の胸から見上げる。
「航がそういったの?」
「ああ。カナちゃんが母さんが生きていたらこう言っただろうと教えてくれた。もし母さんが生きていてそういってくれるなら、頑張りたいってな」
「……兄さんは、それで受け入れられたの?」
姉のこと、死別した妻のことは間にはもう入れて欲しくなかったのではないか。もう忘れたい女性なのではないか。その女性の言葉で息子を動かしてしまうだなんて……。
だが義兄は穏やかに微笑み、カナを見つめてくれている。
「俺も同じ事を感じた。ああ、美月ならそういうだろう。そして、俺と喧嘩をしただろう。そして……俺は尻に敷かれた婿養子、最後に折れただろうってね」
案外、我が強かった姉。確かに最後には自分の思い通りになるように賢く立ち回れる人だった。そんな姉がこうと決めたらやり通すことも、夫だった兄さんにはとても通じるものだったよう……。
「それが倉重の生き方、美月が航にさせようとしたこと。死に別れても、航を託された夫だと俺は思っている。愛情は壊れても……。だから美月は航を俺のところに置いていったんだ」
「兄さん……」
「いまは美月が俺に航を託してくれたことも、置いていってくれたことも感謝している」
姉のことをいいながら、それでも義兄はカナをきつく抱きしめた。
「カナ、航はおまえに母親でいてほしいと思っているし、感じている。そのままでいいんだ」
入る隙もないと思っていたけれど。ほんのちょっとのことだけで充分だったと言ってくれている? 十七歳のお母さんには及ばないけれど、航にとってはカナのままでいいと言ってくれている?
「ほんとに? それだけでいいのかな……?」
今度はカナも素直に、白いシャツの夫な兄さんに抱きついた。大きな手がカナの黒髪を撫でてくれる。
カナちゃん! 千花が泣き始めちゃったんだけど!
部屋の外から航の声、千花がふえふえ泣く声も聞こえてきた。
兄さんと笑って、一緒にベッドルームに出ると、大きくなったお兄ちゃんが小さな千花を抱っこして慌てているところだった。
「ちーちゃん、ただいま。お腹すいたね」
「ちー、ママが帰ってきたとわかっているんだな」
耀平も泣いている娘をみてもかわいらしくてたまらないらしく、千花のほっぺをぷくっとつついて愛おしそうにしている。
航の腕から、カナは自分の腕へと娘をもらう。ぎゅっと泣いている娘をだっこすると、千花がもうママのおっぱいを探している口をしている。
「わかるんだね、千花は。カナちゃんがお母さんだって」
「そうだな。カナでもママだもんな」
「どういう意味よ、それ」
どうあっても『あのカナがママになるだなんて』と、夫も息子もいつまでもからかうばかり。カナはいつもむくれる。
それでも娘の千花の泣き声がすこしやむと、男二人もホッとした微笑みになって、千花を愛おしそうにみつめてくれる。
「千花、おっぱい飲もうね」
ぐずる娘を抱いて、カナは夕暮れに染まるベッドルームにもう一度戻った。
夕の風が優しく入り込んでくる窓辺、そこにあるいつものカウチソファーに座って、千花におっぱいを飲ませる。
薄暗くなった部屋だけれど、夕なずむ空の色がカナと千花を優しく包みこむ。
ベッドサイドには、カナが山裾で見つけてガラスに生けたホタルブクロが揺れている。
カナ、綺麗ね。かわいいわね。
薄暗いそこに、姉の声を聞いた気がした。
そういえば、もうすぐ帰ってくる季節だと気が付いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます