Blank
空欄
頭上には果てしなく広がり続ける抜けるような青空。
足元には果てしなく広がり続ける吸い込まれそうな青い海。
波の音と、木々が風に揺られる音。時折、鳥の鳴き声。
水陸両用の車椅子に乗り、浅瀬に足を浸しているお年寄り。その隣にしゃがむもう一人の人は、空を翔けていく鳥達を眩しそうに見上げて言いました。
「言ったかな? 昔ね、鳥のことを地上にいる魚みたいなものだと思ってたんだ」
「はは、聞きましたぜ。海と空って、どこか似てるのかもしれませんね」
アンヌと
ここしばらくはセンサーも出ておらず、ずっとこうして過ごせる日が続けばいいのになあと、お互いに思っていました。
それでも、アンヌが自分の物語に戻らなければならない時間はやって来てしまいました。
名残惜しく思いつつも、アンヌがいつものように車椅子を押して砂浜に上がった、その時でした。
「あれ……」
太郎の呟くような声がしました。
「どうしたんだい?」
太郎の手が示す方を見て、アンヌも少し驚きました。
小さな人影がありました。
何をするでもなく、ただただ直立不動でそこにいます。
「……」
「この人があなたに、『こんにちは、いいお天気だね』と。
あ、怪しい者じゃありませんぜ。この人はアンヌで、おいらは
二人は駆け寄って、笑顔で話しかけました。けれど、その人は何の反応も示しませんでした。
諦めずに優しく話しかけ続けつつ、二人はその人を観察しました。
「人魚姫」でも「浦島太郎」でも見たことのない人です。人種も性別もどうとも取れますし、子どもにも小柄な大人にも見えます。
服はぶかぶかのTシャツとズボンを身に着けています。両方とも白地に縦と横のオレンジ色の線がたくさん描かれているデザインです。
まるで原稿用紙みたい、とアンヌは思いました。
かかと辺りまでもある髪は白色です。太郎の髪も真っ白ですが、透き通るような太郎のそれとは異なり、かなり濃い白色です。それだけでなく、ところどころにてんてんと、ぶちのように黒くなっている部分があります。
まるで紙にインクを垂らしたみたい、と太郎は思いました。
どんなに話しかけても、その人はやはり突っ立っているままでした。無表情、というよりは、ぼんやりしているようでした。
太郎はアンヌに耳打ちしました。
「どうします? きっとどこかの物語から迷い込んできちゃったんですぜ」
「そうだね。早く帰してあげないとこの子の物語が歪み始めてしまう」
「でもおいら、こういう人が出てくる物語を読んだ覚えがなくて…… アンヌは?」
「残念ながら私にも分からないんだ」
「うーん、じゃあアンヌは一旦自分のお話に帰ってもらって、後でライブラリに来てもらっていいですか? 一緒にこの子がどの物語から来たのか探しましょうぜ」
「……待って! いいことを思いついた! ……強引だけど」
アンヌはパッと顔を輝かせました。
別の物語の中。
狭い部屋全体が、赤やピンクの物品で埋め尽くされ、赤い弱光で照らされています。机の前には全く同じ二つの紅色の座椅子が並べられていて、全く同じ赤い頭巾を全く同じように目深に被った二人が、身を乗り出すようにして机に置かれたタブレットでゲームをするのに夢中になっていました。
と、突然背後に三つの気配が現れました。
二つの座椅子から、全く同じ、けれど表情は全く違う二つの顔が、全く同時に振り返りました。
三つの気配の正体がアンヌと太郎と、あと誰か知らない人だと認識するや、二人のうち一方は駆け寄りました。
「やー! アンヌちゃんに太郎ちゃーん! 久しぶりー! ヒヒヒヒヒ!」
大きな口をニヤニヤさせていることから、駆け寄ってきた方が
「……」
「アンヌが『本当にいつ以来だろうね。会えて嬉しいよ』と。おいらもですぜ、瓜子姫殿にルイーズ殿」
「……どうしたの二人して? その人は?」
座椅子からは動かないものの、顔だけはみんなに向けたまま問いかけるルイーズ。
「おお、そうですそうです! ちょっとご協力していただきたくてですね」
これまでの経緯をざっと説明してから、太郎は協力してもらいたいことについての説明に入りました。
「で、アンヌが思いついてくれたんです。瓜子姫殿にこの方の姿に変身してもらえば、記憶も思考も共有できてこの方がどこから来たのか分かるのではないかと。
……無理やりなやり方ではありますし、しかも瓜子姫殿にご負担がかかって申し訳ありませんが」
「なるほどねー、ヒヒヒッ。早く帰らないとこの人のお話変わっちゃうもんね! こういう場合はしょうがないよーヒヒヒヒヒ! じゃあ、やってみるね!」
言うや否や、
ばきっ
と大きな音がして、ルイーズそっくりの瓜子姫の顔の中心に、縦に一本のヒビが入りました。
ヒビはそのまま全身を真っ二つに割るように伸び、やがて、
べりっ
と瓜子姫の全身の皮膚が服ごと、あたかも寝袋のようにするりと剥がれました。
剥がれた皮膚は即座に消えてなくなり、内側から現れたのは、今アンヌに抱き抱えられている原稿用紙のような服を着た人にそっくりな姿でした。
一同が見守る中、変身した瓜子姫は、その人によく似た虚ろな表情で佇んでいます。
数秒が経過し、数十秒が経過し、やがて一分。瓜子姫は何も言わず身動き一つせず、ただ立っているだけです。
一分だけだろうと思うかもしれませんが、こういう何かを待っている時の一分というのはやたらと長いわけで。何かあったのではないかとみんながしびれを切らしかけたその時でした。
約一分前と同じ、ばきっ、べりっという音が再びして。再び皮が剥がれ、ルイーズに瓜二つの瓜子姫の姿が現れました。
「おかえり
ルイーズの問いかけに、瓜子姫は笑顔で首を傾げながら予想外の返事をしました。
「ヒヒヒ、分かんない」
「え? 今変身したでしょ!?」
「普段は化けた瞬間全部分かるんだけど、全然分かんなかった。頑張って意識の深層の方まで行ってみたけど全くダメ。
何もないってわけじゃないよ。記憶も思考も確かにある。でもどれもこれも靄がかかってるみたいにはっきりしなくて分かんない。しかもこの人、笑い方も知らないみたいね。ヒヒヒ」
「……」
「『あなたでもそんなことがあるのかい?』と」
「あるよー、これが初めてだけどね。ヒヒヒヒヒッ!」
「そうですか…… お手数をおかけしましたぜ。ありがとうございました。やっぱりライブラリで探してみま……」
太郎が瓜子姫達に頭を下げかけたのを遮るように、アンヌが太郎にしか分からない声を上げました。
「そうだ! あの人なら!」
「……えっと、その……」
いつもの二人と一緒に家でまったりしていたらいきなりお客さんが五人してぞろぞろとやって来て、しかもそのうち四人は自分達みたいなのが気軽に関わっちゃいけない存在。
コスタスは戸惑っていました。
「ど、どうしたんですか、皆さん…… ぼく達なんかに用があるわけでもないでしょうに……」
「そうだぞ! こんな幼気なガキから何を奪い取ろうってんだ!」
バタバタとせわしなく翼をはためかせ、牙を剥き出して威嚇するエレーニ。
「そうだ。特にコスタスに何かするようだったらタダではおかないぞ」
手刀受けで構えているカンダタ。
「……」
「『いやいや、そんなことはしないよ』とアンヌが」
全く敵意のない笑顔を浮かべているアンヌと太郎。
「そうそう、ちょっと力を貸してほしいんだよねって。お礼に瓜くらいはごちそうするよって。ヒヒヒッ、ねっ、ルイーズちゃん!」
「……うん」
やりすぎなぐらいの笑顔の瓜子姫と、無表情ながらもそれに同意するロボット姿のルイーズ。
これだから…… この人達、ぼく達みたいな「悪」にも普通に接してくるから、こういうところがもう…… とコスタスが心の中でもぞもぞしている間に、太郎と瓜子姫が先程の出来事をざっと説明しました。
「それは早くしないと大変ですね…… でも、どうしてぼくの物語に?」
「あなたの力が必要なんだよ、ヒヒヒヒヒ!」
瓜子姫はずい、とコスタスに顔を近づけて笑いました。
「え?」
目の前に突き出されたたくさんの白い歯におどおどするコスタス。
「コスタス殿は発言したことを事実にできるんですよね? それでこの方がどこから来たのか明らかにしていただけるのではないかと、アンヌが提案してくれたんですぜ」
「……」
「『そうなんだよ。お願いできるかい?』だそうですぜ。いかがですかね?」
「……そっか。うん、できるかどうかは分からないけど、ぼくで良ければ」
まだ戸惑いは残っていましたが、自分に望みをかけてもらえたのが嬉しくて、緊張しつつも引き受けました。
左手をルイーズと、右手を瓜子姫と繋いでいる、ここに来てから一言も発していない斑模様の白髪の人にそっと近寄ります。
顔を上げて、空中に向けて呟いてみました。
「この人の正体が分かる」
ふわり
何もなかった空間から引き出されるように、一枚の紙が現れました。B4くらいのサイズのそれが、重力に従うままに落ちてきます。
慌てて軽くジャンプして掴み取り、目を落としたコスタスは始め怪訝な顔をしました。けれどすぐに合点がいった顔をし、そして悲しそうな顔になりました。
「分かったのか?」
「……うん」
「どこから来たんだ、こいつ?」
「この人は……
「リジェクティッド?」
「うん」
尋ねてきたエレーニに、コスタスは落ちてきた紙を見せました。それは最初の一マス目と二マス目に黒いインクのシミが付いているだけの原稿用紙でしたが、コスタスにはそれだけで分かったようでした。
ご存知の通り、「読者」の世界には無数の物語が存在しています。けれど、作者が考えついた物語が必ず形になれるとは限らないのです。
思いついてもらいはしたものの何か事情があったりして、途中で途切れてしまったり。最後までストーリーを考えてもらえたとしても、文字として書かれたり、他の人に伝えられたりすることもなく、誰にも知られずに。作者の死と共に永遠に消え去る物語も、星の数ほどあるのです。それをバッドエンドの主人公達は「リジェクティッド」と呼んでいます。
みんな静まり返りました。
リジェクティッドは生涯を作者の頭の中だけで過ごし、場合によっては作者の死を待たず、作者にさえ忘れ去られて消滅する、物語になれなかった物語です。
もしかしたら、今ここにいるぼんやりとしたこの人は、作者に細かな設定を決めてもらう前に形にすることを諦められてしまったのかもしれません。だから、はっきりとした自分の意志すら持つことができていないのかもしれません。
そういえば、リジェクティッドのキャラクターが何かの拍子にどこかの物語に迷い込んでしまった事件が以前に何度かあったそうです。けれどいずれの場合も、帰る物語を持たないキャラクターは、そう長くかからず消え去ってしまったのだとか……
自分達には、何もできない。せいぜいこの人の最期を見届けるくらいしか……
重い空気が流れ……
それを破ったのは、「ヒヒヒヒヒ」という笑い声でした。
「そっかー! そりゃ分かんないよねーヒヒヒヒヒッ!」
リジェクティッドの主人公以外の全員の視線を集めてから、瓜子姫は自分が手を繋いでいる無反応な相手に話しかけました。
「じゃあさ、あなたのお名前ブランクちゃんっていうのはどうかな? ヒヒヒッ!」
「ブランク…… 『空欄』『白紙』という意味か?」
記憶を手繰り寄せて問いかけるカンダタ。
「そ! 『空欄』とか『白紙』なら、いつか何か書いてもらえるかもしれないでしょー?」
「ま…… 待って瓜ちゃん。あたし達、この子を助けることは……」
久しぶりに発言したルイーズを、繋いでいない方の手でそっと制し、瓜子姫は誰にともなく訊きました。
「ねえ、リジェクティッドの存在ってセンサーに食べられないよね?」
「は、はい。そのはずですが……」
話が見えないながらも、太郎が答えます。
「だよねー、ヒヒヒッ。
なら、こういうのはどう? みんなで交代でブランクちゃんを自分の物語の中に泊まらせてあげるの! 物語が歪まないように時間に気を付けながらだけどね! それで、色々とおもてなししてあげたら楽しんでくれるかもよ、ヒヒヒッ!」
「で、でも、楽しんでくれるかどうか分からないし、それに…… 」
ブランクちゃんがそんなに長く生きられるかどうか分からないのに、という言葉は飲み込んだルイーズ。
「……」
「……『うん、いいかもしれない。せっかく来てくれたんだからいい思い出を作ってもらおう』……
そうですねアンヌ。『浦島太郎』に迷い込んでくれたのも何かの縁ですぜ」
「瓜ちゃん、本当にいいの?」
「そりゃ、言い出しっぺだからねーヒヒヒッ! もちろんルイーズちゃんは無理しなくていいけど」
「……あのゲーム一緒にやったら、喜んでくれるかな」
「かもねー、ヒヒヒッ!」
「いつ消えちゃうか分からないのか…… でもせめてそれまでに何かできたら……」
「展開早えな。まあ別にいいけど。カンダタはどうすんだ?」
「いや、流石に
こうして、みんなはブランクと名付けられたリジェクティッドの主人公は代わる代わるみんなの物語に招待されることになりました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます