3

(良かった、あたしまだ怖いんだな、オオカミ)


 大はしゃぎのゲルデに付き合って花を摘みつつ、ルイーズは先程のことを思い返していました。


(他のお話の中で見かけたりして慣れちゃったかと思ってたけど、間近で見たらやっぱり怖かった。それでいい。あたしはずっと怖がり続けなきゃいけないんだから……

 というか……)

 ぱんっ、と片手を額にやるルイーズ。

(何オオカミの言う通りにお花摘んでるの!? こんなことしてる間におばあちゃんが!)

 ルイーズ達は、ハッピーエンドの物語に入ったらできるだけそのお話の流れを乱さないように行動するべきだとはされています。

 けれど、いずれなかったことになるとはいえ、いずれハッピーエンドだからとはいえ、このままでは「おばあちゃんがオオカミに食べられる」という悲劇が再び起こってしまいます。

 もちろん、こちらの「赤ずきん」のおばあちゃんが自分のおばあちゃんと同一人物ではないのは分かっています。それでも、見過ごしたくない、と思いました。

 どうせなかったことになるなら助けてしまってもいいんじゃないか。タブーかもしれないが、誰にも言わなければいいんじゃないか。うりちゃんも黙っていてくれるんじゃないか…… と。


 決心し、立ち上がりかけたちょうどその時、ゲルデの歓声が聞こえました。

「わあー! こんな綺麗なお花見たことなーいっ!」

 お花を褒めつつ、早くおばあちゃんの家に行くように促そう…… と、こちらに背を向けて座るゲルデの手元を覗き込みました。

「どれどれ」

「ほらこれ!」

 差し出された一本の花を目にし、ルイーズは叫びました。

「ダメ!」


 花の花冠かかんの部分がふるり、と一度揺らいだかと思うと、ぶくっ、と倍ほどの大きさへと膨れ上がり。黄色の花弁がグラデーションのように赤色へと変色し、変形し。

 あの忌々しい、センサーの口が現れました。


 あーーーーー

 平坦な唸り声を上げ、ゲルデの細い手首に食らいつこうとする寸前…… で、口は茎からぽろりとこぼれ落ちました。


「……ルイーズちゃん? 今の、もしかしてルイーズちゃんが?」

 手にしていた花だったものがたくさんの花びらへと変わって消滅していくのを見送ってから、ゲルデは切れ長の目を限界まで見開いてルイーズを凝視していました。

 自室のルイーズは、タッチペンを握りしめたまま、頭巾の下の目で呆然とその瞳を見返すしかありませんでした。

 自分はロボットの外見が特異であることのみならず、センサーの殺し方も残忍。だから、事情を知らない人に見られたら絶対に誤解される。それ故に、今まで誰にも見られないように戦ってきたのに。

 仕方がなかったとはいえ、思い切りバレてしまった。今度こそ怖がられる。生物の首を切り落とす存在であるなんて、今度こそ……


「あたいが噛まれないように助けてくれたの?」

「え?」

「そうなんだね?」

 ゲルデは驚きに満ちた顔をゆっくりと緩めました。ルイーズの硬くてひんやりする体に抱きつきます。

「ありがとうね」


「ま…… 待って」

 ルイーズは慌ててガシャガシャとゲルデを引き離しました。

「どうしてあたしが怖くないの? どうしてあたしに殺されるかもとか思わないの?」

 ゲルデは、きょとんと答えました。

「だって、ルイーズちゃんのこと信じてるもん」


 ……そうだった。「赤ずきん」はこういう子だ。誰でも信じてしまって、そのせいで悲劇が起こる……


「ルイーズちゃん」

 ゲルデに、もう一度抱き締められました。

「さっきお話途切れちゃってごめんねっ。教えてよ。ルイーズちゃんのこと」

「……うん。じゃあちょっと、おばあちゃんちに向かいながら話すよ。急がなきゃいけないんだ」




 森の道を小走りに進みつつ、ルイーズは「今この森には、あらゆる存在を食べてしまうお化けがたくさんいる。ゲルデも狙われている。瓜ちゃんと自分はそれを退治するためにやって来た」と、掻い摘んで説明しました。ハッピーエンドのキャラクターにこういったことを伝えるのは初めてでした。

「やっぱりあたいのこと助けてくれるんだねっ、すごーいっ、かっこいいっ!」

 息を切らしつつ、やはりこんな荒唐無稽な話を信じるゲルデ。

「ねえ、どうしてそんなに優しいの? 絶対大変なはずなのにっ!」

「……」


 すごい。かっこいい。優しい。

 それらの言葉は否定したいところでした。

 一つの物語が消滅するだけで「読者」の世界は計り知れないほどの影響を被る。だから、他の物語の消滅を許していたら、いつか必ず自分の物語も消えてしまう。

 「誰かのため」だけに戦っているバッドエンドの主人公などいないのです。多かれ少なかれ、必ず「自分のため」も含まれています。

 だから、そんなに手放しで称賛してもらうべきでもない…… と、少なくともルイーズは思っています。


「……」

「で、さっきのオオカミさんはお化けじゃないけど、おばあちゃんを食べちゃおうとしてるんだよね? 大変! 先におばあちゃんち行かなきゃね!」

「……そうだね」

 二人は足を早めました。




 さてその頃。近道を通っておばあちゃんの家に向かっていたオオカミの命は、まさに風前の灯火でした。

 オオカミの姿をした数体のセンサー達に、寄ってたかって食事にされていましたから。

 激しい痛みの中とうとう意識を失ったオオカミの、ルイーズ達の頭巾よりもずっと赤い色の血を木にも草にも花にも下品に飛び散らしながら、センサー達は大きな口を生肉と灰色の毛皮でいっぱいにして笑っていました。


 ばあん


 だから、最初にその音がしてもみんなすぐに反応できませんでした。

 一体のセンサーが白目をむき、おでこからびゅーっと透明な血を吹き出して倒れ、徐々に全身の色を失うように透明になって消えていくのを見てもなお、事態を把握できませんでした。


「がっはっはっ!」


 雷のような大きな笑い声。木の陰から姿を現した、満面の笑みの、見上げるほど大柄な猟師。

 その丸太のような腕に猟銃が抱えられているのを見て、センサー達はやっと理解しました。

 悲鳴を上げてほうぼうに逃げ出します。けれど無意味でした。

 ばあん、という音が数回響き渡った後には、透過して消えていくセンサー達の死体と。

「がっはっはっ!」

 ヒゲの生えた顎を擦りながら豪快に笑い続ける、猟師だけが残りました。


 


「小石多いね、この辺」

「うんっ、はあ、転ばないようにっ、気を付けて…… はあ」

「ゲルデちゃん、大丈夫?」

「うん、大丈夫大丈夫……

 はあ、それより、着いたよっ…… ここが、はあ…… おばあちゃんち!」

 小さなお家のドア前。はあはあ言いつつも教えてくれるゲルデ。

「オオカミは…… まだ来てないみたいね。間に合った」

「良かった、早く中にっ!」

 促されるままルイーズがドアを開きかけた…… その時でした。


 がるるるるる ぐあああああああああああ


 どこからともなく、大地を震わさんばかりの唸り声が一面にこだましました。


「ルイーズちゃんっ! まさか……」

「……お家に入って。ドア開かないようにしておばあちゃんの側にいてあげて」

「でもっ!」

「信じて」

 頭巾の影から、少しだけ覗いたルイーズの目。強い意志を込めた、灰色の目。

「……頑張ってね」

 ぐっと下唇を噛み締めて、青い顔のままゲルデはおばあちゃんの家のドアを開きました。


 ぱたん がたり


 ドアが閉まり、そこに何かを立てかけるような音がしました。




 ルイーズは正面を向きました。先程のオオカミそっくりに化けたセンサーが、牙だらけの口からよだれをだらだらと垂らしながら、姿勢を低くした四つん這いになっています。

 恐怖が蘇ります。


 いつもとは違うけど、おばあちゃんだと思って質問していたら、突然「それはお前を食べるためだよ!」という怖い言葉と共に大きな口が迫ってきて。

 狭いチューブのようなものの中を滑り落ちたかと思ったら、そこは赤い闇が満ちる、生暖かい空間でした。

 赤ともピンクとも言える不気味な色の柔らかい壁や天井。同じ色合いの柔らかい床の上に、桃色のくしゃくしゃした何かが転がっているのが見えました。

 ほとんど原型をとどめてはいませんでしたがほんのわずかに残った面影から、それが消化されかけた本当のおばあちゃんであること。自分がオオカミに騙されたこと。もう取り返しがつかないこと。

 全てを理解し、ゆっくりと死んでいく他なかったこと。

 自分を不幸でいさせ続けるため、自分の部屋を常にオオカミのお腹の中に近い環境に保ち、そこに閉じこもり続け、決して外には出ないと決めたこと。


 そんな恐怖が蘇ります。


 恐怖の対象が、大声を上げて猛ダッシュしてきます。

(う……)

 首を切らなければならないのに、手が震え、誤って違うところに線を引いてしまいました。

 けれど、その線はちょうどセンサーの両前足を中程で切断できました。悲鳴を上げ、仰向けに倒れるセンサー。


 大丈夫。何も考えないで。

 ルイーズはすぐさまセンサーのお腹に飛び乗りました。今度こそ首に狙いを定め、線を引こうとした、まさにその時。

「待て待て待て待て! 聞いてくれ!」

 センサーが短くなった両前足を振り回しながら、必死に叫びました。


「あんた、羨ましいだろ!? 嫉妬してるんだろ!?」

 何のこと、とルイーズが尋ねる暇もなく、話が進みます。

「本当はさあ、あんただってこっちのグリムの赤ずきんみたいなハッピーエンドになりたかったんだろ!? なのになれなくて、残念だったよなあ!

 本当は、グリムの赤ずきんを妬んでる! 妬ましくて妬ましくて仕方がない! 自分は悲惨な死に方したのになんでこいつだけ幸せになってんだって! なんでお前だけが都合よく改変されてんだって!

 んでもって、死んでほしいと思ってる! 自分みたいに! 分かるよ、ああ、分かるとも!

 だから、我々が食ってやろうとしてるんだ! あんたの恨みの対象を!」


 動きを止めたまま話に聞き入っているルイーズ。

 やっぱりそうなんだ。いけるかもしれない。センサーはより強気に語ります。

「我々はためだけに生まれてきたんじゃない! あんたみたいな奴の希望も叶えてやれるんだ! だから、どうか協りょ」

 センサーの雄弁な演説はそこで途切れました。頭がごろりと地面に転がってしまいましたので。




(終わったかな…… ! 違う、まだ! あと一体!)

 振り向くと、ゲルデのおばあちゃんの家の屋根からやはりオオカミの姿のセンサーが飛びかかってくるところでした。

 結構な速さで飛び降りてきたので、タッチペンが間に合いませんでした。しかも。


 ぼごっ


 硬い音と同時に、顔全体に走った痛み。タブレットに頭突きをされたのです。


(痛い!)

 自室のルイーズは顔を手で抑え、のたうち回りたいほどの痛みに耐えました。

 ロボットを痛めつけられると、ルイーズの体の同じ箇所も同じように痛むのです。怪我をすることはないのですが、痛みだけはしっかりと伝わってきます。もしロボットを破壊されてしまうと、ルイーズも命を落とします。


 どうにかこうにか薄目を開けて、タブレットの画面に目をやり…… ルイーズは驚きのあまり痛みが吹っ飛びそうになりました。

 何も映っていないのです。真っ暗。

 画面のあらゆるところを触ってみても、真っ暗。

(今の頭突きで壊されたんだ!)

 血の気が引きました。これではセンサーの様子が見えず、殺せません。

 頭上からは、どこか喜色を含んだ遠吠えのような声。それが、どんどん頭のすぐ上まで迫ってきて。

(どうしよう。間に合わ)


 ―こつん


 聞き逃してしまいそうな小さな、けれど確かな音。

「ってえな…… このガキ!」

 センサーが、ルイーズがいるのと反対の方向に怒鳴る声がします。


 ―こつん

 怒鳴り声に屈しないという意志を示すかのように、あの音がまたしました。


 ルイーズには分かりました。

 ゲルデちゃんが、センサーに小石を投げてる。あたしを、助けるために。


 センサーを殺せるのはバッドエンドの主人公達だけ。ゲルデは知らないのです。

 それでも、


 こつん こつん こつん こつん こつん


 音は、何度でも聞こえます。


 センサーがルイーズにくるりと背を向けたのが、空気の動きで分かりました。

 咄嗟に伸ばした手は、運良く尻尾を掴むことができました。

 ゲルデの元まで駆けたセンサーは、尻尾を地面に叩きつけてルイーズを振り落とし、続けて二本足で立ち上がり、地面にまで届きそうなほどに口を大きく開けました。

 

 闇雲にタッチペンを操作するわけにはいかない。ゲルデちゃんを切ってしまうかもしれないから。でも、守らなきゃ。

 立ち上がり、駆け寄ってくれた気配を力の限り抱きしめて、その場にうずくまりました。

 せめて、せめてゲルデちゃんだけでも。どうか。




 ざしゅーーーーーーっ どばっ


 覚悟を決めていたのに。後頭部や背中に温度のない液体が大量にぶちまけられた感覚があって。

「がっはっはっ!」

 聞き覚えのない笑い声がしました。

 映像に映らなくても、分かりました。


 ……本当にいつもいつも、ちょうどいいところに来てくれちゃうんだから……

 ほうー、と溜め息が漏れました。


「弾切れになっちまったんで一瞬焦ったんだが、懐にハサミがあったもんで、これで奴の腹をな。がっはっはっ! …… 大丈夫か?」

 笑っていた聞き覚えのない声が、ルイーズの耳元で小さな声で問いかけます。

「うん。画面壊されたけど一応は」

「あーあー、ヒビだらけ。まあ直せば平気だよな、がっはっはっ!

 でも気を付けろよ、こういう庇い方」

「……うん、ごめん。センサーじゃなかったら死んでたかもだもんね。あたしが死んだらこの子もいなかったことになっちゃうもんね」

「おいおい、もちろんそれもある。でも俺は、誰よりもお前がいなくなっちまったら嫌だから。がっはっはっ!」

「……そう、だね」

 見えないので、どこに声の主の顔があるのか分かりません。本当は心の奥底でどう思っているのか分かりません。

 けれど顔を上げ、そっとこう言いました。


「ありがとう。


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