第543話 トナカイさんの季節

 異形の物は大きな口を開けてそこに並ぶ牙を見せつけながら沼に迫る。

 彼は晩御飯がまだだと言っていたが、私を晩御飯にするつもりなのかと思って沼は背筋に冷たいものが走るのを感じる。

 異形の物が振り回している腕は先端が触手状になっているが、沼が切断した箇所は既に再生しつつあるようだ。

 山葉が使っていた式王子とかいう使い魔の類が妖と戦っているのを目にしたことが有るが、式王子が小刀で刺しただけで妖が塵のように崩壊していたのとは大きな違いだ。

 異形の物が振り回した触手をかわしそびれた沼は側頭部を強打され、メガネはどこかに吹っ飛んでいた。

「ずるい、どうしてそんなに回復が早いのよ」

 殴られた沼の頬はずきずきと痛み、もしも自分が手首をもぎ取られたら到底新しい腕を生やせるとは思えない。

 沼は神父様のナイフを両手で前に構えて体当たりするように異形の物の胴体に突き刺そうとした。

 しかし、手ごたえはあるものの、沼のナイフの切っ先は異形の物の弾力がある皮膚を刺し貫くことが出来ていなかった。

「いたーい」

 人の声をスロー再生したうえでエフェクターを通したような間延びした声が耳に届くのと同時に沼は自分の身体が異形の物の触手に絡みつかれたことを感じる。

 手に持ったナイフを二度三度と異形の物の身体に突き立てようとするが、鋭いはずのナイフの刃先は分厚いゴムシートに阻まれたように相手の身体には刺さらなかった。

 沼は右手に持ったナイフをさらに異形の物に振り下ろしながら、左手で胸元に下げていた銀の十字架を取り出すと神に捧げる祈りを詠唱する

「天にまします我らの父よ、願わくは、み名をあがめさせたまえ、み国を来たらせたまえ、み心の天になるごとく 地にもなさせたまえ、我らの日用の糧を今日も与えたまえ、我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく 我らの罪をも赦したまえ、我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ、国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」

 沼は銀の十字架をクロスレンジの武器のように異形の物に突き付けると詠唱の締めくくりの言葉を唱える。

「そしてこの迷える子羊をみもとに召したまえ。アーメン」

 銀の十字架から目がくらむような光が発せられ、異形の物の姿は沼の視界から消えていた。

 同時に、沼の耳には新宿駅西口界隈の物音が届く。

 沼が周囲を見回すと、異形の物はあちこちから煙を上げているが動くことには支障がない様子で老婦人の後ろからこちらを窺っている。

 沼は異形の物にリアタックを掛けようかと身構えたが、動きを取り戻した周囲の通行人のうち幾人かは自分が握っているナイフを見ていることに気が付いた。

 新宿駅の雑踏の中で刃渡りの長いアーミーナイフなど振り回していたら銃刀法違反で捕まってしまう。

 最近、通り魔的に無差別に人を傷つける事件が多いため、異常者と見られたら通報されるまでに時間はかからないはずだ。

 沼は慌てて足元に落ちていた自分のカバンにナイフを隠すと、床に散らばる鞄の中身を拾い集め始めた。

 気配に気づいたのか、異形の物に取り憑かれていた老婦人も後ろを振り返り、沼がアスファルトの歩道の上に散らばった荷物を拾い集めているのに気が付くと手を貸してくれた。

「まあ大変、一体どうしたのかしら」

 老婦人は今し方沼が自分に取り憑いていた異形の物と戦っていたなどとは全く気が付かない様子でおっとりと尋ねる。

「すいません。くしゃみをしたときに鞄のふたが空いてしまって」

 沼は苦しい言い訳をするが、老婦人は信じてくれたようだ。

 周囲の人々も何事も無かったように自分の行き先を目指して動きはじめ、沼が持っていたナイフのことは意識から消えた様子だ。

 しかし、老婦人の後ろから先ほどの異形の物がこちらを窺っているのを見て沼は身を固くする。

 沼は異形の物ともう一度戦ったとしても勝てるかはおぼつかないことを認識しており、老婦人が手渡してくれたものを鞄にしまうと礼を言うとその場から走るように離れるのだった。

 小田急線の電車に乗ってから、沼は先程のことを思い返して悔しさでいっぱいだった。

 異形の物に取り憑かれている人がいるのに、退治することもできずに放置して逃げ帰ったことでひどくプライドが傷ついていたのだ。

 それでも、沼は下北沢駅で降りるとカフェ青葉に向かった。

 今日はアルバイトのシフトが当たっているので無断欠勤すれば、フロアマネージャー的な仕事をしている祥が忙しい思いをするからだ。

 沼はカフェ青葉に到着し更衣室でウエイトレスの制服に着替えてから、仕事をするべく店舗にフロアに向かったが、その途中で厨房から出てきた徹と鉢合わせした。

 徹は毎年12月の恒例となっている全身タイツにトナカイの被り物の扮装でフロア業務をしていた様子だ。

 毎年のようにスタッフから、全身タイツではなくて着ぐるみを作ったらどうかと意見が出されるが、徹本人は動きやすいからという理由で着ぐるみを作る気はないようだ。

 コロナウイルスの蔓延などもあって経営も厳しいはずで、経済的な理由もあるのかと思えるが、あるいは本人が好んでこの格好をしているのかもしれない。

 徹はセットメニューを載せたトレイを手に乗せてフロアに運ぼうとしているところだったが、沼の顔を見て表情を固くした。

「沼ちゃんどうしたの?顔にすごい痣が出来ているよ」

 沼は先ほどの異形の物との戦いで顔を殴られたことを思いだして、確認しなかった自分を悔やんだが後の祭りだった。

「すいません。新宿駅で化け物のような霊体に取り憑かれたおばあさんがいたので、思わず手を出してしまったら殴られた上にそいつは取り逃がしてしまったのです」

 徹と山葉は沼のことを死霊退治に関して手が早いと見ており、拙速な悪霊退治は自重するようにと日頃から言われているので、沼は叱られるのではないかと身を小さくする思いだった。

「それは大変だったね。今そんな目に遭ったばかりなら、仕事を始めるのは少し休んでからでもいいよ」

 徹の予想外に優しい言葉に沼は心が温かくなるような気がした。

 同時に、異形の物との戦いで自分の心がささくれ立っていたことに気付く。

「いいえ大丈夫です。それよりも、ウッチーさんはその全身タイツのトナカイさんはやめて着ぐるみを買った方がいいですよ」

「そ、そうかな」

 徹が自分のタイツ姿の身体に目を落とすのを見て、沼は今年こそは着ぐるみを導入してくれるかと微妙に期待した時だった。

 店の壁が揺らぐような低く大きな音が響き、一瞬照明の明るさも落ちたように感じられた。

「なにがあったのだろう」

 徹が首をひねり、沼も自動車が壁にぶつかったのかもしれないと思っていると、フロアに続くドアから祥が駆け込んでくるのが見えた。

「大変です、大きな物の怪を連れたお客さんが店舗に入ろうとして結界に引っかかったみたいなのです」

 祥の言葉を聞いて、沼は先ほどの老婦人と異形の物の組み合わせが頭に浮かぶのだった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る