第517話 伊賀の里への使い
観智は康清に歩み寄って囁いた。
「康清殿、窮鳥懐に入らば殺さずという諺もある。難を逃れてきた侍を恩賞欲しさに討つのは人の道に外れるのではないかな」
康清は観智を睨むと、冷たい口調で答える。
「おぬしは信長に叡山を焼き出されたことが有るのであろう?何故信長を討った明智勢に肩入れしない?それはさておき、おぬしが庇ったその二人の詮議は終わったのか?」
観智は肩をすくめて康清に答えた。
「うむ、他国者ゆえに変わったなりをして居るが、悪事を働く恐れはないと見た。このまま放免してやっても良いのではないかな」
康清は祥たちを見もしないで答える。
「放免も良いがここで見聞きしたことを多言せぬようにきつく申しておけ、我らが三河の侍を虜囚にしていることを漏らされては困るからな。あと数日様子を見て天下の趨勢が決したところでこの者たちの首を取って都に持ち込むつもりなのじゃ」
康清はどうあっても落ち武者然とした家康の一行を明智光秀の軍勢に差し出すつもりのようだ。
「よかろう。それではこの者たちを三河侍と共にしばし待たせておいてくれ、私が準備を整えたら伊勢の港界隈まで送って行こうと思う」
「そなたがわざわざ送っていくと申すのか?」
康清は不思議そうに観智の顔を見る。
「この者たちは他国者故、落ち武者狩りの荒くれが獲物代わりに身ぐるみ剥ぎかねないからな」
「ふん、坊主は何くれと気を遣うものなのだな。おぬしが同行して口止めをするなら好都合故、好きにするがいい」
康清は意外とあっさりと引き下がり、観智は祥たちに付いてくるように促す。
祥は隆夫と共に地侍の康清の言葉を聞いて生きた心地がしないまま観智の後に続いた
祥と隆夫が連れて行かれたのは本堂の奥にある部屋だった。
そこには疲れた表情の侍たちがうずくまっており、彼らの打ちひしがれた雰囲気が伝わってくる。
「祥さん、僕たちにどうにかできそうな状況ではないみたいですよ」
隆夫が囁き、祥もうなずかざるを得なかった。
祥が様子を窺っていると板張りの部屋の中に座っている侍が物憂そうにつぶやいた。
「こんなことになる前に自害しておけばよかった。そなたたち何故京の都でわしが自刃するのを止めたのじゃ」
呟いた侍を守るように取り囲んでいた武士たちは、居心地悪そうに黙ったままだったがそのうちの一人が口を開いた。
「この辺りは拙者の生国に近い故、縁者に文を届ければ救援を呼べるやもしれませぬ」
小柄な侍が提案するが、家康と思われる男性はシニカルな口調で否定する。
「この寺に閉じ込められ監視もつけられては、文など届けようがないではないか。我らの命運はついえたのだ」
小柄な侍は唇をかんで沈黙したが、その様子を見ていた観智は小柄な侍に話しかける。
「そなたの手紙を届けたらよいならば私が取り計らってやろうか?攻め寄せてきたわけでも無いのに首を取られるのも無念であろう」
観智の言葉を聞いて三河の侍たちは顔をあげた。
「かたじけない。拙者の名は徳川家康。上様に招かれて都に来ていた折に光秀の欄に遭遇しここまで逃れてきたのだ。しかし、この本堂は厳重に見張られているのを今し方見たばかりだ。どうすれば外に出て文を届けることが出来るといわれるのじゃ?」
家康は冷たい表情で尋ねるが、観智は屈託のない表情で彼に答える。
「ここにいる二人はあなた方と同じくこの地に流れてきて先ほどの康清に捕えられたのですが、妙に世情にうとく放っておけない故、拙僧が伊勢の港まで送り届けることになったのでございます。それ故拙僧が手紙を預かれば外に出ることもできる」
家康は怪訝な表情で祥と隆夫を眺める。
「まことか?そのような配慮を戴けるとはかたじけない。しかしその二人は妙な装束を身に着けておるが、目立つ出で立ちでは、落ち武者狩りに目を付けられるのではないかな」
「いかにも、おおせの通りじゃ。私の配下の坊主と、野菜などを届けに来る村娘と衣装を取り換えてから出立いたす」
家康は沈黙し、観智は微笑を浮かべると祥と隆夫に問いかける。
「聞いての通り、そなた達にも使いに付き合っていただきたい。引き受けてくれるかな」
祥は、彼の配下の茶坊主に手紙を持たせて使いに出した方が早いのではないかと思ったが、口には出さずにうなずいた。
「よし、それでは支度をしてまいる。しばし待たれよ」
観智は祥と隆夫を家康たちの一行と同じ部屋に残したまま姿を消した。
小柄な侍は矢立て取り出すと一心に文をしたためており、家康と思しき武将は思いつめたような表情でそれを見つめている。
そのうちに若い僧が廊下から顔を出して祥たちを手招きした。
僧は祥と同じくらいの背格好の娘も伴っており、小声で指示する。
「あなたはこの娘と衣を取り換えてください。そちらの方は私と取り換えるのです」
村娘の衣装は着替えることを躊躇するくらい垢じみて見えたが、祥に拒否する権利はなさそうだ。
着替えを終えて元の部屋に戻ったものの、捕らわれた侍たちの重い雰囲気に祥は声を掛けるきっかけを失ってその様子を見つめていた。
やがて、観智が身支度を整えて戻り、祥と隆夫を伴って寺を出ることになった。
日はまだ高いが寺の山門を出ると周辺は森に覆われて薄暗く、数百年先の世界でカーナビゲーションを頼りに辿り着いた祥と隆夫には未知の世界が広がっている。
祥はこうなると観智という僧侶に運命をゆだねるしかないのかと観念して僧侶の後姿を見つめるが、観智は祥の思念を感知したかのように振り返ると気さくな笑顔を見せる。
「時の旅人なればこの地で放り出されても困るのであろう。しばし私の用事に付き合っていただこうか」
観智は懐から小柄な武士がしたためた文をのぞかせて祥に話しかけるが、祥には疑問があった。
「あなたは、何故あの武士たちを助けようと思ったのですか?」
この地の僧侶にとっては危険を冒して落ち武者狩りの餌食となった徳川家康一行を助ける動機などないはずだと祥は考えたのだ。
「先ほど康清殿に話した通り、見過ごすことは出来ないと思ったからじゃ」
僧侶は裏表のない雰囲気で祥に告げるが、横にいた隆夫は誰にいう訳でもない雰囲気でつぶやく。
「手紙を書いていたのは服部半蔵、この近くの伊賀の里の出身なのです。そして家康公と同行していたのは後に徳川四天王として幕府を支えた重鎮たちです。祥さんの言う通り彼らが殺されたら歴史は大きく変わってしまう」
祥は息を飲んで隆夫を振り返るが彼の目が強い意志を秘めていることに気づいた。
「私達はどうすればいいのですか?」
「とりあえず観智さんを手伝って服部半蔵の書簡を伊賀の里に届けることに全力を傾けましょう」
いつもの自信のない雰囲気の隆夫が自分をリードするように発現することが意外だったが、それは好ましいことだと思えた。
祥が無言でうなずいた時、森の中に居る一行の背後から誰かの声が響いた。
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