第508話 契約不履行

沼はミイラのようにクモの糸に包み込まれた状態で、救援に来てくれた祥が自分と同じようにアシダカグモに捕捉されるのを為す術もなく眺めていた。

祥が現れる直前にアシダカグモの妖は沼の身体に巨大な牙を突き刺したのだが、沼は自分の心の中から何かを持ち去られた気がしている。

しかし、記憶喪失になった人間が頭を抱えて「ああ記憶が無くなっている」というのはフィクションの中の話であり記憶を失った人は記憶の欠落を自覚することは出来ず、記憶の欠損により実害が起きて初めてその事態に気が付くのだ。

それ故に、沼は自分の心の中の何かがアシダカグモに食べられてしまったはずなのにそれが何かわからず、焦燥感に捉えられていた。

あの妖は人の心にある願いや記憶を糧として貪り食っているに違いないと沼は確信していた。

アシダカグモの妖が祥をクモの糸で包み込むとき、その姿はいつしか八本足のアシダカグモに近いものとなっていた。

自らが紡ぎ出した糸を沢山の脚で巧みに広げて獲物である祥に巻きつけ、祥は次第にミイラじみた姿となりつつある。

沼はわずかに確保された視野に徹の顔が見えるので必死になって徹に呼びかけた。

「ウッチーさん、どうしてこんなことになったのですか。あの妖の能力など借りなくても山葉さんは自分で手術を受ける決断をしたと思いますよ」

沼は干からびたように見える徹の顔から判断して、自分の言葉に徹が反応するとは期待していなかったが、徹はゆっくりとその目を動かして沼を見た。

「君のことは見た覚えがある。僕の知り合いなのか?」

沼は徹が自分の名前すら忘れていることに衝撃を憶えた。

沼は徹に対して強い霊能力を持っていると日頃から肌身に感じることが多く、妖などに連れ去られたのは彼の気の迷いに過ぎないと考えていた。

彼の妻である山葉が陰陽師として浄霊等を執り行うため徹の能力は表に出ないが、山葉が強力な霊を浄霊した際には徹の果たした役割も小さくない。

それなのに、妖に記憶を奪い去られていることが信じがたかったのだ。

「みんなでウッチーさんを探してここに辿り着いたのです。ウッチーさんが本気で戦えばあんな妖なんて蹴散らしてしまえるはずなのにどうして、そんな姿にされているのですか」

沼を見つめていた徹の目はゆっくりと閉じられ、彼のかすれた声が答える。

「僕は妻を助けるためにあの妖と魂の契約を結んでしまった。あの妖のおかげで山葉さんが助かったのならば僕は契約通りに妖に身を捧げるしかない。そうしないと彼女が再び死の淵に立たされるかもしれないからだ」

沼は微妙に苛立ちながら徹の表情を窺うが、目を閉じた顔からはその感情を読み取れない。

「だから、山葉さんが死の運命から逃れたのはアシダカグモの妖が運命を変えたのではなくて、単に山葉さんの気が変わって手術を受けることにしたからだという可能性が高いのですよ。どうして妖相手にそこまで律義にするのですか」

徹は目を開けて再び沼を見ると、今更のように沼の置かれている状況を把握したようだった。

「君は大丈夫なのか?あの妖に何かされたのか?」

沼は徹の意識が少し普段の状態に戻ったのを感じて堰を切ったように話し始めた。

「大丈夫ではないですよ。あの妖は私に牙を立てて私の心の中の何かを持ち去ったのです。ウッチーさんは自分の記憶に欠落があると思いませんか」

徹の目が大きく見開かれたのが見え、続いて彼はとぎれとぎれに話し始めた。

「そういえば僕は妻のために化け物に食われなければならないという記憶しかない。ここは一体どこなんだ?」

その時押し殺したような悲鳴が響き、妖が祥に牙を立てようとしているのが見て取れた。

「祥ちゃん!」

沼は身動きが取れないまま祥の身を案じるが、徹はぶつぶつと何かつぶやいている。

「僕を助けようとしてこんな目に遭っているというのか?それに山葉さんが死の運命から逃れたのは契約とは関係ないと?」

「そうですよ。契約さえ関係なければどうにかできるなら早く祥ちゃんを助けて!」

沼は先ほど妖の牙で刺され、自分の心の中から何かを持ち去られたことが頭から離れない。それが自分にとってかけがえのない思いや記憶だったらどうしようかという思いは、自分と同じ目に遭わされつつある祥への危惧を高める結果となっていた。

「うおおおおお!!」

沼がクモの糸越しに見ていると徹が雄たけびを上げ、彼の身体を包んでいたクモの糸がはじけ飛ぶのが見えた。

徹は跳ね起きると、その辺に落ちていた日本刀を拾い上げる。

その日本刀は祥がアシダカグモの妖と対峙するために持参した物だが、アシダカグモが糸でくるんで祥の自由を奪っていく過程で取り上げてその辺に放り出していたものだ。

徹は日本刀を両手で持つと頭上に振りかぶって構えてアシダカグモの妖に迫ったが、当の妖は余裕のある雰囲気で徹を振り返った。

「今更私に立ち向かうと?すでにその心には元の人格の片鱗程度しか残っていないはずなのに」

徹は無言で日本刀を振り下ろした。

それは全身の力を込めた斬撃であることは明らかで、八本の脚のうち後端の二本の脚で直立するアシダカグモの妖を両断するように見えたが、アシダカグモの妖は腕として使っている脚で斬撃を受け止めた。

徹は更に日本刀で切りつけるが、アシダカグモの妖は前二列の脚を人間の腕のように使って二の腕の部分で徹の斬撃を受ける。

徹の日本刀は腕に深く食い込んでいるものの切断するには至らず、その傷は沼が見ている間に再生しているように見える。

そして妖は反撃に転じて腕の一つは正拳突きの形で徹の腹にめり込み、もう一つの腕は徹の顔面を捕えていた。

徹は両足が宙に浮き、後方に飛ばされていた。

「楽しみに取ってあったのだが、そなたの人格残らず私が食べてやろう」

妖は人間の女性の声で話すが、その姿は四本の腕を振り回し、長い髪の下から二列に並んだ八つの単眼と、大きな牙が覗く異形だ。

沼は身動きが出来ない状態で徹の様子を窺うが、その姿はいつの間にか別人のものとなっていた。

「この者は我が子孫にとって大切な存在だ。蟲ごときに食わすわけにはいかぬ」

沼は徹が変貌した謎の人物を眺めていたがその容貌には既視感があり、それは山葉の祖先の霊として時折垣間見た落ち武者の霊だと思い出した。

沼の思考が伝わったのか、山葉の祖先の霊は沼を振り返った。

「わしは落ち武者ではない。いい加減覚えてくれ」

彼は人好きのする笑顔を浮かべて沼をたしなめてから妖と対峙する。

徹と同様に上段に刀を構えた山葉の祖先は地響きを感じるような踏み込みと共に刀を振り下ろし、斬撃を防ごうとした妖の腕二本を切断していた。

そして、振り下ろした刀をそのまま刺突に変えて妖の胸に突き刺す。

妖の悲鳴が周囲に響くのと同時に白い閃光が走り、沼の意識も光に飲み込まれていった。

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