第377話 教授の執念
裕美香さんはシバ神の背後で居心地悪そうに立っている正志さんを見つめてさらに言葉を続けた。
「あなたは正志さんと言ったけれど、フルネームは何というの」
「大崎正志」
正志さんは小さな声で答えた。
「それは私の父の名前よ。どうして私の父の名前を騙るのか教えて。」
「騙っているわけではない。これは私の本名だ」
正志さんは消えそうな声で答えると再び俯いてしまった。
「やっぱりお父さんなんでしょ。どうしてこんなところに私達を閉じ込めようとするの」
裕美香さんは正志さんに非難の言葉を投げつけるが、彼女の言葉を聞いて僕の頭には疑問が渦巻いた。
「お父さんと言っても正志さんは見たところ二十代前半くらいに見えますけど」
そしてそれは、卒業後の進路が思わしくないから旅に出たという彼自身の言葉とも符合する。
「見た目を誤魔化しているのよ。このホテルやあたりの風景も作りものなのよ。父はバリ島が大好きだったから」
僕は慌てて年齢の計算を始めた。
バブルが崩壊して就職思わしくなかった時代に大学を卒業する世代だったとすれば現在の年齢はいくつくらいになるのだろう。
バブルの崩壊という事象がピンポイントで年月日を特定できないうえに、その影響は長い期間に及んだと考えられるため大雑把にしか推定できないが、現在生きていれば40代後半から50代前半の範囲ではないだろうか。
そう考えれば、高校一年生の娘さんがいてもおかしくはない。
僕と対峙していたシバ神はいつの間にか姿を消し、バツの悪そうな表情を浮かべた正志さんが俯き加減に立っている。
「すまない裕美香、お前にはずいぶん迷惑をかけたと思う。許してくれ」
ホテルの従業員のユニフォームを身に着けた正志さんは、いつの間にか初老の男性の風貌に代わっていた。
「大崎教授、あなただったのですか」
栗田准教授が驚いた声で呼びかけると、正志さんはゆっくりと顔をあげると栗田准教授に答えた。
「栗田君すまなかった。私はどうしてもやり遂げたいことが有ったので娘の裕美香の身体を乗っ取るようなことまでした挙句、君たちまで巻き込んでしまった。」
僕は栗田准教授に小声で尋ねる。
「栗田先生、ご存じの方だったのですか」
「彼は社会科学研究室の大崎教授で、私は親しくしていたのです。何故こんな経緯になったのかが全く分かりませんが」
僕は正志さんが初老の男性の霊として姿を現した時、栗田准教授は見ることが出来なかったことに気づき何となく納得した。
僕たちの会話が聞こえた様子で、裕美香さんは説明を始めた。
「私は大崎正志の娘の裕美香です。私も父の関与は全く知らなかったのですが、今にして思えば父が何らかの方法で私を操っていたのだと考えるとつじつまが合う部分が多いと思います」
僕は話を整理するために割り込んだ。
「ちょっと待って下さい。裕美香さんのお父さんは亡くなられたのですか」
裕美香さんは自分の考えを整理するようにゆっくりと話し始めた。
「父は5月に脳梗塞で倒れたのです。それ以来一度も意識を取り戻さないまま昏睡状態が続いています」
裕美香さんは、僕たちがいるカウンターの向かいに来た初老の姿になった正志さんに冷たい視線を投げた。
「私たちの気持ちも知らないで私のことを操ったり、バリ島でのんびり過ごしたりしていたなんてどういう事か説明して」
正志さんは僕たちの横に来るとカウンターのスツールに腰を下ろした。
「私も自分の身体に何かが起きたということは気づいていた。突然意識を失った後、私の感覚はすべてが失われたからだ。私は暗黒の中に取り残され、結果として夢を見ていたが、時折現実世界の風景が眼前に浮かぶことが有り、やがてそれが裕美香の見た情景だと理解できたのです。やがて、その状態から裕美香の行動をコントロールできるようになりました」
山葉さんも祈祷を中断して会話に加わった。
「ふむ、生霊のように思えたのは間違ってはいなかったのだな。しかし、感覚が遮断されたからと言って代償として人を操ったりできるとは奇異な話だ」
先ほどまでの元気な様子から、白髪が目立つくたびれた風貌に変わった正志さんは答える。
「私にだって理由などわかりません。ただ、裕美香の身体を使うときに意識の端々に昏睡中の私のイメージが現れるから昏睡中かあるいは死んだのではないかと思っていたが脳梗塞で外部からの感覚が失われていたとは思いませんでしたよ」
「感覚が遮断されても、大崎先生の意識を司る部分は比較的無傷に残っていたのですね」
栗田准教授が神妙な表情で言う。
「お父さん教えて、私の身体を乗っ取ってまでしようとしていたことは一体何だったの?」
裕美香さんが問いかけると、正志さんは気まずそうな表情で話し始めた。
「実は、バリ島の宗教に関する完成間際の論文があり、それを学会誌に投稿したかったのだ。しかし、私の部屋にある自分のパソコンは妻の目があるから使えなかった。自宅から裕美香のタブレットを使いインターネット経由で私のパソコンにアクセスしようとすると、大学の広域LANのファイアーウオールにはじかれてしまうし、裕美香が私の執務室に入り込んでも同僚に見とがめられる可能性がある。仕方がないので裕美香の身体を操ってキャンパス内に侵入し講義室にある学生用のWifiからアクセスして作業していたんだ」
「そんな事情があるなら言ってくださればお手伝いしたのに」
栗田准教授がつぶやくと正志さんは、肩をすくめた。
「夜のキャンパス内に侵入した裕美香の口から今の話を聞いたとしてもあなたが納得してくれたとは思えない」
「それはそうかもしれませんが」
栗田教授があきれたようにつぶやくと、正志さんは微笑を浮かべた。
「君たちを私の記憶の世界に引き込めるとは思わなかったが、おかげで時間を稼ぐことは出来たよ。」
「それだ、あなたは私たちに正体が割れても時間を引き延ばそうとしていたが、何のために時間稼ぎが必要だったのですか」
山葉さんが追及すると、正志さんは微笑を浮かべたままで答えた。
「私が学会誌に投降した論文には、提出の締め切りと共に取り下げが出来る期限が設けられている。栗田君が裕美香のパソコンを調べて、私の名で論文を投稿したことを知り、不正に投稿された論文として取り下げをしないように時間を稼ぎたかったのだ」
僕は、論文投稿に賭ける正志さんの執念にあきれる思いだった。
「私やお母さんに自分の意識があることを知らそうとは思わなかったの?」
「置手紙を書こうかと思ったが、信じてもらえないかもしれないと思ってやめた。後から発見されるように遺言として二人宛の手紙を残しておいたよ。」
僕たちの見ている前で、正志さんの姿は次第に薄れ始めたように見えた。
「ここにいたワヤンさんとはどんな関係だったの」
裕美香さんの問いかけに正志さんは照れくさそうに答えた。
「若い頃、旅行中に知り合った彼女と仲良くなりここで一緒にホテルを営もうと思っていたが、彼女は交通事故で死んだ。僕は失意のうちに日本に帰って研究者を目指し、後に結婚もして裕美香が生まれたんだよ。裕美香とお母さんのおかげで僕は幸せな人生を送れたのだと思う。お母さんにありがとうと伝えてくれ」
「お父さん?」
裕美香さんが呼び掛けたが、正志さんの姿は消えていた。
そして、周囲には地鳴りのような低い音が響き渡り、バリ島のリゾートホテルの情景も次第に詳細な情報を失ってのっぺりとした灰色の空間に置き換わっていく。
「正志さんの容体が急変したのかもしれない。私たちはこの世界から出ないと、彼の肉体の崩壊に巻き込まれる可能性がある」
山葉さんは僕の手を引いて歩き始めようとしていた。
「この世界から出ると言ってもどうやったら出られるのですか」
僕が尋ねると、山葉さんは眉間にしわを寄せて彼方を見つめている。
「あちらの方向に光が見える。とりあえずそこを目指してみよう」
僕たちは山葉さんを先頭にして歩き始めた。
崩壊していく正志さんの心象世界の中で巨大な何かの姿が動いているように見え、三又の槍を携え鉄槌を振るうそれは先ほど見かけたシバ神の姿のようにも思える。
「シバ神は寿命を迎えた世界を滅ぼす存在と言われています。本物のシバ神なのかそれとも大崎教授の最後のジョークなのか判別がつきかねますね」
栗田准教授がつぶやき、僕たちは無言で山葉さんの後に続いた。
山葉さんが目指していた光は、バリヒンドゥー様式の寺院から漏れていた。
「クリシュナ神を祭る寺院なのですね」
栗田准教授が誰にともなく解説し、山葉さんは寺院の祭壇に登ると小さな光源に手を差し伸べた。
山葉さんの手が光に触れた時、周囲に明るい白い光あふれ僕たちの視界はホワイトアウトした。
気が付くと、僕は栗田准教授の執務室にいた。
執務室のソファーに裕美香さんが横たわり、僕と栗田准教授がその前、山葉さんはソファーの後ろ側で茫然と目をしばたいていた
裕美香さんバッグからはスマホの着信音が鳴り響いていた。
裕美香さんは眼を開けて周囲を見回した。
「私は今バリ島の風景の中でお父さんに会っていた」
「僕たちも同じ情景を共有していたと思いますよ」
僕が告げると、裕美香さんは納得したようにうなずくとバッグからスマホを取り出した。
彼女は通話を始めると短かく言葉を交わしてから通話を切った。
「私の母からです。今し方父が息を引き取ったと病院から連絡が入ったそうです」
栗田准教授は静かな口調で裕美香さんに告げる。
「お悔やみ申し上げます。良かったら私が病院まで送りますが」
裕美香さんはゆっくりとうなずき、栗田准教授は僕たちに告げた。
「私はこれから彼女を送り届けます。後ほど今回のお礼に伺いますよ」
山葉さんは無言でうなずき、栗田准教授は裕美香さんをエスコートして執務室を出る。
僕と山葉さんは栗田准教授と裕美香さんを見送ってから夜のキャンパスを歩いた。
外来用の駐車場はキャンパスの入り口近くにあり少し離れているのだ。
「論文の投稿ってそれほど執念を燃やすものなのかな」
山葉さんは街灯もまばらで暗いキャンパスを歩きながら僕に尋ねる。
「そうですね、正志さんの場合はバリ島に関わる研究だから思い入れが深かったのかもしれませんね」
僕は、正志さんの心象世界で垣間見たバリ島の風景を思い浮かべながら答える。
大崎教授の心の中に保持されていた二十年以上前の記憶は彼の死とともに失われたが、僕たちに鮮やかな印象を残した。
「何時かコロナウイルスの流行が収まったら、バリ島に行ってみたいですね」
「私もうそう思っていたところだ」
山葉さんは穏やかな笑顔で僕に答えた。
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