第328話 河川敷の畑

「ウッチーのおかげで、怪しい気配の犯人への糸口がつかめたようだ。俊樹君が気配を感じた別の場所に移動しよう」

世間を騒がせているウイルスを保菌した浮浪者が木綿さんの家の中に侵入していたかもしれないというのに山葉さんは拘泥しない雰囲気で次の場所に移動を促している。

彼女のコロナウイルスに対する拒否反応を知る僕は少し意外な気がして尋ねた。

「新型コロナウイルスを持ち込まれているかもしれないのに、そんな悠長な反応でいいのですか」

山葉さんは僕の質問に、シニカルな微笑みを浮かべて答える。

「何も知らないまま闇雲に恐怖するのは愚者の行いだ。まずは敵を知り、その恐ろしさを十分に把握するとともに弱点も探して対応策を考えることが肝要だ。コロナウイルスは強毒型のウイルスが蔓延しているヨーロッパでは感染者に対する死者数が優に10%を超える国もある恐ろしい伝染病だが、空気中に浮遊するウイルスは3時間程度、プラスチックや金属の表面に付着したウイルスでも2、3日で感染力を失う。先ほど見たシステムキッチンの収納庫の床にはうっすらと埃が付いていたので、誰かが侵入したのは少なくとも数日前で既にウイルスは感染力を失っているはずだ」

山葉さんは論理的に説明するが、彼女の説には盲点があった。

「ウイルスが感染力を失う前に永井家の人々が感染し、潜伏期間中だとしたら?」

山葉さんはその可能性を考量していなかったらしく、足を止めて木綿さんと俊樹さんに冷たい視線を注ぐ。

「私達は発熱したりはしていませんけど」

木綿さんは気圧されたように後ずさりしながら言うが、山葉さんは二人を凝視したままだ。

やがて、山葉さんは大きなため息をついてからつぶやいた。

「まあ、マスクをしているから感染のリスクは少ないか」

その言葉を聞いて、キッチンの壁に張り付くようにしていた木綿さんはやっと緊張を緩めた。

「気配を感じた場所も大事ですけど、勝手口の外に足跡のような痕跡がないか調べてみませんか」

僕は勝手口からの侵入を確信しているので、痕跡等を見つけたら警察に被害届が出せると思って提案した。

「そうだね、取り敢えずそちらを確認してみよう」

僕たちは、勝手口の外を調べることになったが、痕跡が残っていた場合に備えて玄関から外に出て勝手口に回った。

永井家の勝手口は家の側面にあり、道路に出るには幅一メートル足らず通路を通る必要がある。

しかし、通路部分は舗装されているわけでなく数日前の雨で土は柔らかくなっている様子だ。

「あまり勝手口を使っているように見えないな」

「そうですよ。食材を買ってきた時も玄関を使った方が速いので、勝手口を開閉するのは母が台所の空気を入れ替える時くらいですね」

木綿さんは何気なく答え、僕は使われていない勝手口というのは建売住宅にはありがちだという知り合いの建築会社の社長の言葉を思い出した。

永井家の勝手口は家の正面にあるガレージから通路部分を通路を通ればたどり着けるので、大きな荷物をキッチンに搬入するときは便利なはずだが、それでも使われていない。

僕は、コンクリート製のガレージの床面から勝手口に続く通路の土の表面を眺めたが、猫と思われる小動物の足跡が残っているのに、人間が歩いた跡は無かった。

「ここが泥濘になったのは先々週の土曜日から月曜日にかけての雨の日でしょうね。それ以後は侵入した形跡はないみたいです」

僕が指摘すると、山葉さんも通路の地面を覗き込む。

「いや、この状態ならもっと以前に人が通っても足跡くらいは残るはずだ。本当に浮浪者が入り込んでいたのか?都内で感染者が増加したのは4月に入ってからなのでそれほど前の話ではないはずだ」

ぼくは、自分が体験したことに自信を失いかけたが、何もない状態でそんな妄想が降ってわくとも思えない。

「足跡が残るのを嫌って塀の上を歩いてドアの前のコンクリートで固めた部分に飛び乗ったのでは」

山葉さんは、あごの下に手を当てて考え込む。

「その可能性は否定できないな。それでは家の中に戻って俊樹さんが気配を感じた別の場所を検分してみよう

山葉さんの言葉で僕たちは再び永井家の住宅内に戻った。

「もう一か所よく変な気配を感じるのが、ここです」

俊樹さんが僕たちに示したのは、階段下の空間に折り戸をつけてウオークインクロゼット風にしたスペースだった。

「ちょっと、ここには私の着替えも置いてあるのに気持ち悪いこと言わないでよ」

木綿さんが弟の俊樹さんに苦情を言うが、俊樹さんは首を振る。

「ここからも変な物音や気配を感じたことが有るから、この際見てもらった方がいいよ」

俊樹さんは自分が体験しているため、僕たちが訪れた機会に怪しい気配の原因を究明したいとかんがえているようだ。

「それでは、開けてみてもいいかな」

「あ、ちょっと待って下さい」

山葉さんが折り戸を開けようとすると、木綿さんは慌ててその前に割り込んだ。

そして、折り戸を細目に開けて中を確認してから僕たちに告げる。

「大丈夫でした」

木綿さんの言葉を受けて、山葉さんは勢いよく折り戸を開け、収納スペースの中があらわになった。

扉の奥にはハンガーをかけるポールもあり、冬用の上着の類が何着かぶら下がっている。な階段下の狭いスペースにはプラスチックの収納ケースが積み上げられて空間を上手に利用していると言えた。

「ここは、システムキッチンの収納庫よりも頻繁に使っている雰囲気がある。痕跡を探すことは困難だな」

山葉さんが早々と見切りをつけて、ウオークインクロゼットから外に出たので、僕は彼女に代わって中に入り床面を調べたが、掃除の行き届いたフローリング材の表面に侵入者をうかがわせる痕跡は無かった。

僕は立ち上がろうと思って積み上げられた衣装ケースに軽く手を触れたが、その時再び誰かの残留思念に触れた。

思念は僕の意識に入り込み、僕は再び思念の主の記憶を追体験し始める。

思念の主は誰かに追われていると感じており、こっそり忍び込んだ住宅のウオークインクロゼットに身を潜めていたのだ。

不用心な住人は夜中に自分が忍び込んで身を潜めていても気づくことはないが、台所の食料に手を出したらたちどころに気が付かれると思い食料を探す時は外に出ることにしていた。

家人が寝静まった頃に外に出かけて食料を探し、夜明けまでに戻ってきて日中は押入れか

台所の収納庫に身を潜める生活パターンはうまくいっている。

それでも修二さんに役所の人間が捕まえに来ると脅されたために、人の姿を見れば自分を捕まえようと探しているような気がして、外で人影を見ると恐ろしかった。

自分がいわゆるホームレスになったのはもう十年以上前の話で、それまでは大きな製造工場の期間従業員として働き社員寮に住んでいたのだが、リーマンショックとかいう不況のせいで追い出されてしまったのだ。

山形の田舎には今も自分の母親が住んでいるはずだが、連絡が途絶えて久しい。

一度住所を失ってしまうと、新たに住居を借りることもしづらく、住民票が無ければ生活保護も受かられないと不利なこと尽くめだと最近になって修二さんに教えてもらったのだが、頭の足りない自分は知らないままに十年以上もホームレス生活を続けていた。

夜になり家人が寝静まったのを見計らって、勝手口から外に出ると、塀の上を走って道路に飛び降り、河川敷に走る。

多摩川の河川敷の良いところは、人目に付かずだれも使わない空き地があり、そこで食料を生産できることだ。

拾い集めた空き缶などをわずかな現金に換金し、スパーマーケットで買ったジャガイモを細かく割って地面に植えれば河原の空き地はジャガイモ畑に変貌する。

収穫時期に他のホームレスに盗まれないように見張っていればそれなりに収穫でき、仲間と物々交換すればゴミをあさるよりはるかに効率が良かった。

今夜は他のホームレスに見つかっていない「畑」から収穫し、空腹を満たさなければならなかった。

時折、自動車のライトや人影を見かけると影のように物陰に張り付いてやり過ごし、人気が無くなると活動を再開する。

野良犬のように捕獲されないためには注意深さが必要だった。

「ウッチーどうしたんだ。またホームレスの思念を拾ったというのか」

山葉さんに声をかけられて僕は我に返り、ウオークインクロゼットから出ると皆に告げた。

「やはり、この家に入り込んで寝泊まりしているホームレスがいるようです。今拾った思念では河川敷の空き地で栽培したジャガイモを収穫するつもりだったみたいなので、今は外に出て作業中なのかもしれませんね」

木綿さんはうんざりした表情を浮かべる。

「どうしたらいいのでしょうか」

「差し当たって、勝手口や窓にしっかり施錠するようにしたら、鍵を壊してまでは入ってこないと思うよ。それでしばらく様子を見てはどうだろう」

僕は至極当たり前のことを言ったつもりだが、木綿さんは納得していない様子だった。

「それじゃあ、家じゅうに施錠したあとで、なお怪しい気配を感じるようだったらその時は山葉さんが浄霊してくださいね」

木綿さんに頼まれて山葉さんが断るわけもなく、山葉さんは無言でうなずいた。

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