第277話 淵に住む神様

翌日、日が昇るのを待って僕たちは昨日カメが現れた淵に向かった。

明るくなった谷底には澄んだ水の渓流が流れているが、淵は深くその底は見ることが出来ない。

日の射す川べりに立つと昨夜、淵から現れたカメがテレパシーのように頭の中に語り掛けてきたことはなんだか夢の中の出来事のように感じられた。

孟雄さんは、一旦家まで引き上げたのでまだ来ておらず、恭介さんと栗田准教授が先に立ち、僕と山葉さんが後に続く形で河原の捜索を行った。

「私の式王子があそこに流れ着いている」

山葉さんが指さす先で、岩の隙間にボロボロになった式王子が引っかかっていた。

「昨夜の淵の中の青い光は式王子が何かと戦っていたのでしょうか」

山葉さんはボロボロになった和紙の切れ端を拾い上げると無言でうなずき、昨夜から置き去りにされていた即席の「みてぐら」に収めて梱包を始める。

河原の石を掘った穴に梱包した「みてぐら」を埋めた山葉さんは、淵の水面を見ながらつぶやいた。

「神崎先生は既にこの世の人ではない。この淵そのものに人が近寄らなくなるような方法を考えなければ」

「それは、人が近づくと危険だということですか」

山葉さんはシニカルに肩をすくめる。

「昨夜の恭介さんにしても私たちが来なければ、翌朝には神崎先生の意識を宿した状態で何食わぬ顔で現れていたかも知れない」

僕は慌てて恭介さんの様子を窺った。彼女の言葉は当事者の恭介さんに対してあまりにも無神経な気がしたからだ

しかし、恭介さんは彼女の言葉を聞いても何も言わず、悲しげな表情を浮かべるのみだった。

淵の周辺では神崎先生につながる手掛かりは得られず、僕たちは恭介さんが倒れていたあたりまで行ってみることにした。

冬とはいえ、常緑の木々が茂る山は緑に覆われており、森の中は見通しが効かない。

僕たちの捜索は渓流沿いに限定されるわけだが、神崎先生が「手近にいた生き物」としてカメに転生していることから川沿いで遺体が発見される可能性は高いと思われた。

しばらく歩き、昨夜恭介さんを発見した辺りを過ぎ、さらに上流に歩いたところで、僕は河原の枯草の中に衣服が覗いているのに気づいた。

枯草をかき分けてみると、そこには半ば白骨化した遺体が横たわっていた。

「栗田准教授、恭介さんこっちに来てください」

僕が先に進んでいた二人を呼び戻すと、恭介さんは遺体の衣服を確認しながらかすかな声で言った。

「この上着に見覚えがあります。おそらく父だと思います」

栗田准教授は無言で遺体に両手を合わせていた。

その後、地元の警察の現場検証も行われたが、警察も事件性は薄いと考えているようで、栗田准教授と遺族の恭介さんが警察からの事情聴取に応じ、遺体の引き取りの手続きに当たることになった。

山葉さんと僕は彼女の体調を考慮して、彼女の実家で休養を取ることになった。

彼女の実家は険しい山の上にあるが、父親の孟雄さんが住民用のモノレールで麓まで迎えに来ており、僕たちを乗せたモノレールは人が歩くほどの速度でゆっくりと山上に向かった。

彼女の実家の近くでは、放し飼いにされている隣家の犬、カイとセイラが出迎えてくれた。

「カイ、昨夜はお手柄だったね」

カイはセイラと並んで、くるりと巻いた尻尾をパタパタと振る。

シカの死骸に気を取られて山葉さんに叱られたものの、最後に恭介さん発見に至ったのはカイのおかげもあったのだ。

彼女の実家で、僕たちはこたつに入って寛いだ。

僕はミカンの皮をむきながら朝から気になっていたことを山葉さんに尋ねた。

「神崎先生は、本当に息子の恭介さんの身体を乗っ取るつもりだったのでしょうか」

山葉さんは僕がむいたミカンを口に入れながら、面白くなさそうな表情で答える。

「乗っ取った後の生活設計まで考えて育てていたというのだから恐れ入るよ。でも、確信犯でそこまでした割に、人として子供を思う気持ちも芽生えて葛藤が生じていたのではないかな」

「やはりそう思いますか」

山葉さんは、みかんを食べ終えるとこたつから立ち上がって押入れから何かを取り出しながら答える。

「遺言の内容などを見たら家族のことを本当に思った内容だったからね。しかし、いざなぎ流の秘術の魅力も捨てがたく病身を押して一人四国に来て術の完成度を高めようとするうちに、病魔に倒れたということだろう」

山葉さんは押入れから取り出した釣り竿やリールを並べて、何かを釣りに行く準備を始める様子だった。

「何を釣るつもりなのですか」

「うん。スルメを餌にしてあのカメを捕まえてやろうと思って」

僕は、大学の元教授としての意識を宿し、テレパシーで意思疎通するカメをスルメを餌に釣ることが出来るのか懐疑的にならざるを得ない。

「そう簡単に釣れるとは思いませんよ、相手は人間としての知能と知略を備えているのですから」

「いや、日常生活レベルではカメの本能に従っているに違いないからきっとこれで釣れるよ。私は別役家には伝わっていない転生の秘術とやらをあのカメから聞き出したいのだ」

そもそも、山葉さんは神崎先生と師弟関係にあるわけでもないので、いまや彼女にとっては秘術を知ってしゃべるカメ以外の何物でもないらしい。

その時、僕たちの背後から孟雄さんの声が響いた。

「あのカメは危険だからみだりに近寄らないほうが良い。あの淵には人が近寄らないようにしたいと思い、僕がこんなものを用意した。近いうちに淵の周辺に配置するつもりだ」

孟雄さんが用意したというのは、小さな鳥居と社だった。

「ご神体の代わりに、山葉が高校生の時に作った陶器のカメを入れようと思う」

孟雄は手のひらより少し大きいくらいのカメの置物を示す。

「高校の授業でこんなものを作るんですね」

僕は珍しい企画があるものだと思って尋ねるが、孟雄さんは渋い表情で答えた。

「いや、卒業記念にコーヒーカップとか湯飲みを作る企画なのにこの子だけがカメの置物を作っていたから私は肩身が狭かったよ」

「違う、それだけでなくてちゃんと湯飲みも作ったけど、同級生のみんなから余った粘土を貰って作ったカメの評判が良かっただけだよ」

山葉さんは心なしか赤面して言い訳をしている。

「柴集落の知人に頼んで、山道からあの淵に降りる道はふさいでもらおうと思っている。万一、沢沿いに釣り人が来たときはカメを祭る社や鳥居があるので、淵でカメを見つけても危害は加えないはずだ」

孟雄さんは真顔で説明し、山葉さんは残念そうにつぶやいた。

「転生の秘術を聞き出そうと思っていたのに」

孟雄さんは渋い表情で首を振って見せる。

「彼も迷った末にカメとして生きることを選んだのだろう。そっとしておいたほうが良いと思う。それに、迂闊に近寄れば山葉だって乗っ取られる危険がある」

山葉さんは仕方なさそうにうなずいた。

「お義父さんがそうやって社を新設することは頻繁にあるのですか」

僕が尋ねると、孟雄さんは照れくさそうに答える。

「今回は仕方がなく作るだけで普段はそんなことはしません。でも深山や渓谷にある曰く付きの社はこうしてできるのかもしれませんね」

「ふむ、後の世になってあの場所がカメの神様が棲む淵として再発見されたら私の作ったカメも神聖なご神体として見られかもしれないな」

山葉さんが得意げにカメの置物を触って見せ、僕と孟雄さんは微笑を浮かべた。

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