第236話 祥の料理デビュー

ツーコさんが概要を美咲嬢に伝えるためのプリントアウトを持って戻ってくると、山葉さんは手早く目を通してチェックした。

「黒崎さん、あなたが見た車内の時刻表示は何時だったのかな」

「十二時十五分でした」

山葉さんは黒崎さんの答えを聞いて、ツーコさんが印刷したプリントアウトに手書きで追記する。

「柳瀬さん一家を十二時半まで引き留めるように付け加えた。これを美咲さんに手渡してくれ」

ツーコさんは山葉さんからプリントアウトを受け取ると緊張した表情で美咲嬢がカウンセリングをしている部屋へ入って行った。

ソファーの上では春香ちゃんが黒崎氏の髪の毛をナデナデして遊んでおり、黒崎氏はおとなしくされるがままになっている。

やがて、ツーコさんが戻ってくると、僕たちに告げた。

「美咲所長が山葉さんとウッチーさんにカウンセリング室に来てほしいと言っています」

山葉さんは僕の顔を見てうなずいてから、カウンセリングルームへと向かい、僕もそれに続いた。

美咲嬢は僕たちに椅子を勧めてから柳瀬夫妻に話し始めた。

「先ほど紹介しました、内村さんと別役さんですわ。この二人は専門的な知識を持っておりボランティアでカウンセリングを手伝ってくれたのですが、本業はこの近くでカフェを経営されています。春香ちゃんがこの二人がすごく気に入ったみたいでカフェでお昼を食べたいと言われているみたいなので、スタッフも交えて一緒に昼食を取りませんこと?」

柳瀬さんの奥さんが、驚いた様子でつぶやく。

「まあ、うちの春香はめったなことでは他所の方に興味を示さないのに」

「そういう方向に春香を伸ばしてあげるのもいいことだから、今日は先生のお奨めどおりに一緒に昼食をとることにしようか」

柳瀬さんが、その気になって腰を浮かしかけた時、僕は周囲の空間が歪むのを感じた。

そして、気が付くと、僕はカフェ青葉で柳瀬一家や美咲嬢たちと昼食を共にしている最中だった。

腕時計を見ると時刻表示は十二時十五分。既に事故が起きるはずだった時間帯は過ぎている。そして僕は自分の中に二通りの記憶が生じていることに気が付いた。

最初の記憶は、春香ちゃんが柳瀬一家が交通事故に巻き込まれる未来を見たことから、僕たちが、事故の発生を回避しようと活動する時間線。

そして、よりリアリティーがある記憶として未来視で不安を訴える春香ちゃんをなだめるために、居合わせた一同が、食事会をすることになる時間線だ。

僕は他の人は一連の流れを覚えているのだろうかと不安になって口を開きかけたが、美咲嬢が僕の顔を見ながら自分の口の前に指を一本立てて見せた。

彼女は、口の動きを読みやすいようにゆっくりと口パクで「あとで」と僕に告げる。

それを見ていた山葉さんもぼくにウインクして見せる。どうやら未来の改変に関わった人間には改変前の時間線の記憶が残されているようだ。

以外だったのは僕たちも歴史の改変に巻き込まれたことだ。

僕は未来の改変に関わった自分たちは、変化した未来を傍観出来ると考えていたからだ。

おそらく春香ちゃんが未来視により未来の情報を過去に持ち込んだため、タイムパラドクスによる時空の擾乱は彼女が両親の事故を予見した時点まで及んだために違いない。

柳瀬家との食事会は和やかな雰囲気のうちに終了した。

「楽しかった。またここに来てもいい?」

春香ちゃんが山葉さんに聞くのを見て柳瀬さん夫妻は目を丸くした。

「もちろん、いつでも来ていいよ」

山葉さんが華やかな笑顔を浮かべて答えると、柳瀬さんの奥さんはしんみりとした調子で言う。

「この子がやっと社会に関心を示してくれたような気がします。どうぞこれからもよろしくお願いします」

柳瀬夫妻が、春香ちゃんの発達状況を日々気にしながら暮らしているのが見て取れるようだった。

春香ちゃん本人は、お気に入りとなった黒崎氏と遊べてご満悦のようだ

「猫ちゃんバイバイ」

春香ちゃんが手を振ると、黒崎氏がひきつった表情で手を振り返す。

「あなた、春香があんなに怖がっていたんだから安全運転を心がけるのよ」

「わかったよ。僕は普段からセーフティードライブを心がけているんだからもっと信用してほしいな」

凄惨な事故の記憶もある僕たちには柳瀬夫妻の会話がとても微笑ましくて好ましいものに思えた。

柳瀬一家が帰った後で、美咲嬢はおもむろに僕たちに言う。

「いかがでしたか。春香ちゃんが本物の未来予知者だと納得していただけたかしら」

僕も山葉さんもそのことに異論があるわけがなかった。

ツーコさんは留守番に残ったため、彼女に改変前の時間線の記憶があるか不明だが、少なくとも僕と山葉さんそして美咲嬢と黒崎氏はその記憶を共有している。

「春香ちゃんは精神発達遅滞などではなくて、未来予知能力があるために物事の因果関係の理解が遅れているだけかもしれないね」

山葉さんがつぶやくと美咲嬢がうなずいた。

「いいことをおっしゃいますわね。私もそのことに気が付いたゆえ今後はそのことを加味して春香ちゃんのカウンセリングを行っていきますわ。今日は大変お世話になったからいつかこのお礼はさせていただきますわ」

美咲嬢は上機嫌で席を立つと支払いを済ませ、黒崎氏と共にカフェ青葉を後にした。

黒崎氏は春香ちゃんにかき回された髪の毛をしきりに毛づくろいしながら帰っていく。

「春香ちゃんには自分の予知能力が人とは違うことを教えて、周囲と軋轢を起こさないことを教えていく必要がありそうだね」

「そうですね。美咲さんが頑張ると思うけど僕たちもできることがあれば手伝ってあげましょうよ」

僕と山葉さんはほのぼのとした雰囲気で会話を交わす。

自分が属している時間線では何も起きなかったことになるが、僕と山葉さんは自分たちが悲惨な交通事故を回避して柳瀬夫妻を救ったことに疑いを持たなかったからだ。

その日の午後は何事もなく過ぎていき、ディナータイムの営業時間も終わってからスタッフが一緒に賄いの夕食を取ることになった。

祥さんが仕事に慣れてきたことから、初めて賄食作りに挑戦することになっており、折角なので時間は遅くなるけれどスタッフ皆がそろって食べることになったのだ。

「今日のメニューは、ランチ素材の残りを使ったピラフにアジフライ、それに味噌汁です」

彼女のセレクトは、あえてゴージャスなメニューにしないところが好感が持てた。

祥さんが食事を配膳する間、和やかな団欒の雰囲気がスタッフ用の食堂に満ちたが、山葉さんだけが一人で青い顔をしている。

皆の前に祥さんが作った食事が並び、「いただきます」の声とともに食べ始めた時、山葉さんは口を押えて厨房のシンクに走っていた。

皆がシンとして手を止める中で、彼女が苦しそうに嘔吐する音が響き、祥さんは深刻な表情で僕の顔を見た。

「私の作ったご飯はそんなにまずかったんですか」

涙ぐんでいるような彼女の顔に僕は何と答えようかと迷ったが、僕が口を開く前に木綿さんが祥さんに告げた。

「祥ちゃん違うわよ。あれはきっとつわりよ」

祥さんの表情が変わり、今度は祥さんがコメントに困った様子で僕を見る。

そして木綿さんと田島シェフは無言で座っている。

微妙な雰囲気となったスタッフ用の食堂で僕は沈黙を破って祥さんの料理に話を戻した。

「祥さんの賄いだけど、日替わりランチの残りを使ったカットステーキ入りのピラフが美味しかったし、添え物のサラダを温野菜中心にして手をかけてあったのもポイントが高いと思います」

僕の言葉に、田島シェフも口を開いた。

「そうですね。ピラフのカットステーキを単体で火を通して追加したのはポイント高いですよ。一緒に調理すると肉のジューシーさが無くなってしまいますからね」

祥さんは嬉しそうに答えた。

「ありがとうございます」

その夜、僕は最寄りのドラッグストアに走る羽目になった。

山葉さんの指令で妊娠検査薬を買い求めるためだ。

ドラッグストアで苦労して探した結果、僕は妊娠検査薬なる物は薬ではなく免疫反応を使った検査キットであることを理解し、とりあえずそれを購入してカフェ青葉に戻った。

検査キットを受け取った山葉さんは使用説明書を読んでからそれを使った。

しばらくして戻って来た彼女は無言で検査キットを僕に示した。

検査キットには結果を示す窓が二つ付いている。

片方は検査終了を示す窓で、そこに赤いラインが現れたら検査が終了したことを示している。

もう一つの窓に赤いラインが現れたらそれは「陽性」つまり妊娠しているという事を示しているのだ。

彼女が僕に差し出した検査キットの、判定を示す窓にはくっきりと赤いラインが入っていた。

僕たちの子供ができたんだと考えると同時に様々な思いが僕の心の中を駆け巡った。

どうにかそれを取りまとめて彼女に言葉をかけようとした時、山葉さんが先に口を開いた。

「今の私には子供を育てている余裕がない。この子は堕ろすことにしよう」

彼女の言葉は、僕の能天気な思いを全て吹き飛ばしてしまい僕の心の中は真っ白になっていた。

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