第54話 小さな手
「クラリンがいつまで一緒にいたのか憶えていないのか」
僕が黒崎氏がバーベキューコンロに鉄板をセットしているのを見ながら雅俊に尋ねると、ふさぎ込みがちだった彼の表情は一層暗くなった。
「昨日はみんなと一緒に平気な顔をして帰ってきたのだから、実は俺も記憶が定かでない。昨夜夢を見て初めて彼女の不在に気がついたんだ」
雅俊が自信が持てなかったのも無理はなかったが、七瀬美咲はハッキリと彼女のことを憶えており、彼女が告げた容姿も雅俊の記憶と一致しているらしい。
「肉が焼けるまではこちらをつまんでください」
黒崎氏が肉を焼く準備をしている間に、上門さんが僕たちにテーブルに並べたカナッペとフルートグラスに入った飲み物を勧めてくれる。
シャンペンのようなボトルには、スプマンテと書いてあり、スパークリングワインの一種と思えるが僕にはよくわからず、フルートグラスに注がれた液体にはきめ細かい泡が立ち上っていた。
チーズや、生ハムとメロンが乗ったカナッペはとてもおいしかったが、その横には茶色っぽいパンと、平らべったい瓶に入ったイクラ状の物体も控えていた。イクラよりも少し小振りの黒っぽい粒だ。
「ベルーガのキャビアだなウッチーも頂くか?」
山葉さんはこともなげにスプーンですくってパンの上にてんこ盛りにして渡してくれる。
僕が初めて食べるキャビアに感動している横で、山葉さんはグラスを片手に上門さんと世間話をしている。
「ストロチヤのズブロッカも冷やしておりますがいかがですか」
「昨日の先生二人のようになっても困るから私は止めておくよ。美咲お嬢様は週末はいつもこんな感じでピクニックしているのかな」
「普段は屋敷にこもられていることが多いですね。今日はお嬢様が気晴らしに外に出たいとおっしゃるので準備していたところでした。ご一緒してくださるお友達が出来たので私どもも嬉しゅうございます」
友達が少ないお嬢様を気遣うじいやといった感じの上門氏の言葉を聞き、僕は七瀬美咲嬢の家庭環境等を想像しようとして結局わからないと結論するしかなかった。
当の美咲嬢は、アウトドア用の折りたたみ椅子に座った雅俊に何か尋ねている。
普段は食いしん坊の雅俊がごちそうを前にして目もくれないのはよほどのことだった。
黒崎氏は肉を焼いていた鉄板をコンロから持ち上げて、布巾を敷いたテーブルに降ろし、ブランデーを振りかけると、着火器具で火を付けて盛大にフランベした。
炎に注意を引かれて僕たちが集まると、彼は調味料を振りかけながら僕たちに説明した。
「米沢牛のロースのカットステーキです。野趣を楽しむために、瀬戸内産の塩と粗挽き胡椒でお召し上がり下さい」
同時進行で作っていた付け合わせの野菜と一緒に手早く盛りつけて皆に皿を手渡す様は本職のシェフを思わせた。
「黒崎が肉汁を逃がさないように鉄板を使いたいと申しますので、彼の言うとおりにさせました。ワインはメドック産でカベルネとメルローにシラーも加わったものです」
上門さんがワイングラスに少し注いだワインをテイスティングした美咲嬢はうなずいた。
「黒崎も料理が終わったら一緒に頂きなさい。帰りの運転は上門さんにお願いします」
僕たちはすっかりおもてなしされている雰囲気だった。
彼女が顧客のことで僕たちの店に乗り込んできたのが遠い昔のことのように感じられる。
米沢牛のカットステーキは表面に焦げ目がついているが中身はほんのりピンク色で口の中で溶けるようなおいしさだった。
「こんなにごちそうになってしまって申し訳ないな」
山葉さんがいつもは目の敵にしている美咲嬢に礼を言った。
「いえいえ、気になさらなくて結構ですわ。普段はあなたのお店の手作り感のある食事が私の生活に潤いを与えてくれますの」
山葉さんと美咲嬢が仲良くしてくれるのは良かったが、僕は料理に手を付けようともしない雅俊が気になった。
僕は何か昨日の記憶を呼び起こす手がかりはないだろうかと思って周囲を見渡してみた。
僕たちがバーベキューをしている渓谷の周囲は木々に覆われていて、新緑が目にしみるようだ。
その中に、観葉植物のポトスのように一部が白い葉があるのが目に付いた。
「山葉さんあの白い葉は何でしょうね」
「ハンゲショウとかマタタビではないかな。近くに行ってみようか」
僕と山葉さんは、浅瀬を石伝いに反対側の帰しに渡り、山際の茂みに近づいてみた。雅俊も無言で付いてくる。
その植物は、斑入の葉を交えた蔓状の植物で、葉陰には白い可愛らしい花も付けていた。
「マタタビのようだな」
植物に詳しい山葉さんが教えてくれた。
「マタタビってあの猫にマタタビのマタタビですか」
「そうだよ。蔓とか葉でも猫に与えると酔っぱらったようになるらしいよ」
僕は、近所の野良猫で効き目を試してみようかと思い、マタタビの茎の先端をちぎろうと引っ張った。その時、僕は昨日も同じようなことをしていたような気がした。
『野山の草をむやみに手折ったらあかんよ』
フラッシュバックするように、僕をたしなめる女性の声と、穏やかな笑顔を浮かべた顔が浮かんだ。
「あ」
「どうしたウッチー」
雅俊が真剣な顔で僕に聞いた。
「昨日も僕たちは今と同じようにマタタビを見つけていた。そして、僕がマタタビを引きちぎろうとしたのを雅俊が言うクラリンという女の子が止めようとしていたんだ。」
「思い出したのかウッチー」
雅俊の言葉に促されるように僕はその後何をしたのか思い出そうとした。しかし、浮かび上がりかけた記憶はするりと僕の手をすり抜けて再び忘却の淵に沈んでいった。
「いや、思い出せたのは記憶の断片だけだ」
雅俊はうなだれた。
僕はクラリンの行方に繋がる系統だった記憶は思い出せていないのだ。
「でも、昨日ここにクラリンと一緒に来ていたのは僕も確信したよ。絶対に見つけて連れて帰ろう」
僕は雅俊よりもむしろ自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
親しい人の面影や声は好ましい感覚と一緒に記憶に刻まれている。僕が思い浮かべた彼女の姿は、まさしく友達にまつわる好ましい雰囲気に包まれていたのだ。
「向こう岸に戻って、他の手がかりを探してみよう」
山葉さんも、もう雅俊の言葉に疑いは持っていない様子で、僕たちは、消えたクラリンを見つけ出そうと思いを強めて元いた場所に戻るために川を渡った。
バーベキューをしていた場所に戻ると、美咲嬢と黒崎氏は折りたたみ椅子に座ってうたた寝していた。どうやら酔っぱらっているようだ。
「一体どうしたんですか。そんなに飲んでいる様子もなかったのに」
僕は二人の様子を見ていた上門さんに尋ねた。
僕たちが川を渡って向こう岸に行っていたのは二十分ほどの間だったはずだ。
「すいませんね。お嬢様も黒崎もこのところ疲れがたまっていたのかもしれません。強い酒も飲んだので急に酔いが回ったみたいです」
ぼくが見たところ、二人とも元気一杯だったような気がするが、上門さんの言葉を信じる他はなかった。
その時、何気なく足元を見た僕は、足元にマタタビの葉や茎のかけらが散らばっているのに気がついた。
「こんな所にもマタタビが落ちている」
山葉さんもそれに気がついた。
「ウッチーが言っていた、昨日も私たちがマタタビを見つけて採取しようとしていた話が裏づけられたな」
山葉さんは納得しているようだが、僕はむしろ疑問を持った。ここに来たとき、この葉っぱや茎は存在していたのだろうか。あればその時点で気がついたのではないかと思ったからだ。
美咲嬢も黒崎氏も気持ちよさそうに寝ている。上門さんは二人に直射日光が当たらないように車からパラソルを持ってきて日陰を作っていた。
「この二人は私が様子を見ています。片付けもしておきますから、どうか皆さんは気になさらずに捜索を続けてください」
申し訳なさそうに告げる上門さんの好意に甘えて、僕たちが徒歩で山に入る準備をしていると。雅俊の声が響いた。
「おい、テーブルの上にあった食べ物はどこに行ったんだ」
「おまえは食欲が無くて食べていなかったじゃないか」
僕が指摘すると、雅俊は激しく首を振った。
「そんなレベルの話をしているんじゃない。2、3分前にここにあった皿やトレイの食べ物がごっそり無くなっている。山葉さんとおまえは俺の視野の中にいたし、美咲嬢達は向こうに寝ていて上門さんが様子を見ている。他に何者かがいると言うんだ」
確かに、テーブルの上に残っていた食べ物が無くなっているのがわかる。
その時、再び僕の頭に昨日の出来事が浮かんだ。
『誰や、焼けたお肉をどこかに持っていったんは』
昨日もクラリンの叫び声がきっかけとなって、皆が食料が消えたことに気がつき、騒動が起きたのだ。
お互いに確認して誰も他所に持って行った覚えがないことがわかると僕たちは肉の行方を捜し始めたのだった。
「そうだ雅俊、昨日も同じようなことが起きたのを思い出した。その後どうしたんだっけ」
僕はずきずきと痛む頭を押さえながら雅俊に問いかけた。山葉さんと雅俊も同じように額やこめかみを押さえている。
皆が核心の部分を思い出しそうになり、頭痛に襲われているのだ。
「そうだあの時、私がテーブルの下から子供の手が伸びてきて食べ物を引っ張っているのに気がついたのだ」
山葉さんが頭を押さえながらつぶやいた。その目は時間を超えて犯人を見極めようとするように虚空を見つめている。
「その後、テーブルの下から子供が飛び出して逃げるのを誰かが追いかけて行ったんだ」
雅俊が同じように頭を押さえたまま叫んだ。
僕が何気なくテーブルを見ると、山葉さんの言葉どおりにテーブルの下から小さな手が伸びていた。
その手はテーブルに置かれていたバゲットをひっつかむとヒュッとテーブルの下に引っ込んだ。
「雅俊、今もテーブルの下に誰かがいる。捕まえろ」
僕は叫びながらデジャブを感じ、その間にテーブルの下から小学生くらいの男の子が飛び出すと大きな袋を抱えて一目散に谷の上流に向けて走り始めた。
そうだった。
昨日も同じように子供が飛び出したのだ。それを先頭に立って追いかけたのがクラリンだった。
今日は逃げる子供を雅俊が全速力で追いかけていくのが見えた。彼は僕よりも運動能力が高い。本気で走れば小学生くらい難なく捕まえられるはずだ。
しかし、雅俊は子供に追いつけなかった。逆に子供との間合いはどんどん開いていく。
「山葉さん、僕たちも追いましょう」
走りながら叫んだ僕に、山葉さんもうなずいて走り始めた。
だが、雅俊の背中を追って走る僕はあることに気がついていた。
クラリンの行方不明にまつわる記憶の混乱に対して唯一耐性を示したのは七瀬美咲だったのではないか。
そして彼女は今は眠りこけていた。
僕たちが追う相手が意図的に眠らせたのではないかと考え、僕は言いようのない不安が心中に広がるのを憶えた。
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