第23話 柴犬の悲しみ

山の麓まで降り、美恵さんと別れた僕たちは山葉さんの家に戻った、隣家の犬がお出迎えしてくれるし、家の周囲に咲き乱れた花には、黒地にブルーの模様が入った蝶が飛んでいる。都会のどことなくピリピリとした空気と比べていざなぎ流の里の空気はのどかだった。

家の中では、山葉さんのお父さんと栗田准教授が酒盛りをしていた。

「お父さん昼間から何をしているの。」

眉をひそめて咎める山葉さんにお父さんの孟雄さんは上機嫌に答えた。

「この先生はいい人だ。わしの弟子になってもらうことにした」

孟雄さんは機嫌よく栗田准教授を指さして言い、栗田准教授も赤い顔をしており二人ともすっかりできあがっている。

「いや、今日は本当にいざなぎ流の事を包み隠さず教えてくれると言うのでうれしくなってしまったのです。直々に技を教えて下さると言っていただくことなどめったにないですからね」

栗田准教授がとりなすように言うが、山葉さんはお手上げだというように肩をすくめた。

僕たちが昼食を食べる間も山葉さんのお父さんと栗田准教授はいざなぎ流の話で盛り上がっている。

栗田准教授にしてみれば、研究対象の詳細を懇切丁寧に話してくれるのだからこれ以上のことは無いのかもしれない。

僕たちが食事を終わった頃に、山葉さんのお父さんが言った。

「山葉、都会の人は川で泳いだ経験が無いかもしれないから内村君を大蛇淵に連れて行ってあげなさい」

山葉さんのお父さんはの思いがけない指示に、彼女は思案げに僕の方を見た。

「どうするウッチー行ってみるか?」

確かに、僕は今までに川で泳いだ記憶はない。


流されたらどうしようと思う反面、気持ちがよさそうだと考えて僕はうなずいた。

「父もこんな調子だし川で頭を冷やしてこよう」

山葉さんは朝遭遇した恐怖体験など気にもしない様子で背伸びをした。

川遊びの準備をした僕たちは、再び山を降りると麓を流れる大きな川の上流の方に向かった。大蛇淵は谷をさかのぼった人里離れた場所にあるという。

国道から離れて細い道を走ること数キロ。

道端の空きスペースに軽四輪トラックを置き、人一人通るのがやっとのような山道をしばらく歩いたところにその淵はあった。

水の綺麗な渓流と言った方が良さそうな流れだが、流路に大きな段差があって、10メートル以上ある滝となっている。

そして、滝壺から下流はかなりの水深がありそうな淵が広がっていた。

僕たちは、羽織ってきたTシャツを脱ぐと、下に着込んでいた水着姿で川の流れに入った。

「つ、冷たい」

僕は足を浸しただけで水の冷たさに飛び上がった。

「標高の高い山から流れてくるから水温は20度もないはずだ」

山葉さんは僕の様子を見て微笑すると、イルカ型の浮袋に息を吹き込んで膨らませ始めた。

僕はしばらくの間、水の冷たさに深みに入るのを躊躇していたが、気合を入れて一気に飛び込んだ。

水の冷たさに慣れると淵で泳ぐのは気持ちが良い。

水は澄んでおり、深みを泳ぐ魚がくっきりと見えるが淵の底は青くかすんでみることができない

シンプルなワンピースの水着を着た山葉さんはイルカ型の浮袋につかまって涼しげに泳いでいたが、やがて滝壺に近寄った。

滝の落下点は岩が露出しており膝くらいの水深になっている。彼女はイルカ型の浮袋を近くの地面に置くと立ったまま両手を合わせた姿で、滝の流れを受け止めた。

僕は、彼女がスキルアップのために修行を始めたのかと思い、真剣に見つめる。

数分間そうしていた彼女は、滝から出ると再びイルカ型浮袋を抱えて僕の方に泳いできた。

「修行の効果はありましたか。」

僕が真剣に聞くと、彼女は答えた。

「夏に滝に打たれても、冷たくて気持ちいいだけだった」

僕は突っ込みを入れるべきか、フォローした方がいいのかわからなくて黙った。

僕の気持ちを理解しない彼女は、淵の岸の崖の上に見えている百合の花を指さした。

「ウッチーあそこまで登ってみないか。右側から回り込んだら簡単に登れるはずだ」

「登ってみましょうか」

彼女の意図はわからないが僕はとりあえず岩肌を登り始めた。

山葉さんが言うように、滝がある正面は切り立った崖だが、右側は灌木や草も生えていてそれらに捕まるとなんとか登ることが出来た。

上から見ると、淵は真下に見えて結構な高さだ。2階の屋根から下を見ている感じだろうか。

「登りましたよ」

下に向かって叫ぶ、彼女が答えた。

「跳べ、ウッチー」

「え?」

彼女は滝つぼに飛び込めと言っているようだが、僕は高さにひるんで躊躇した。

「大丈夫、水深は十分ある。」

山葉さんは始めから飛び込ませるつもりだったのだ。

仕方がないので僕は岩の端から勢いをつけてジャンプした。

次の瞬間、僕は水面を突き破り水底深く潜った。

水面では派手な水しぶきを跳ね上げたはずだで、僕は鼻から水が入ったみたいで眉間の辺りがツンとする。

飛び込んだ勢いが止まり水中から見上げると水面は遙か上だ。

水中に居ると普段の世界から隔離された気分になる。ジタバタと水面を目指しながら僕は様々なことを考えていた。

昨夜夢に現れたお熊さんや今日遭遇した亡霊達、その中で何かが僕の意識に引っかかっていた。

僕は水面から顔を出すと空気を吸うのも忘れて叫んだ。

「思い出した。」

「どうしたんだウッチー。」

僕は淵から上がると、滝つぼの脇の河原でイルカ型浮袋を抱えて立っている山葉さんに駆け寄った。

思いだしたことを伝えたいあまりに、僕は勢いよく走っていたらしく、山葉さんは両手でイルカのヒレを持って、盾にするようにして身構えた。

「イルカ拳なんかしている場合じゃありませんよ。おクマさんは口伝がきちんと伝わらなくて除霊がうまく出来なかった事があると教えてくれたのを思い出したのです」

「なんだと。それは私が使っている祭文やその用法が間違っているという事なのか?」

山葉さんは僕に向かってイルカのヒレを構えながら表情を引き締める。

とりあえず落ち着いて話そうと思い、僕は日陰になった岩に山葉さんと並んで座った。

僕は、山葉さんにおクマさんが夢の中でトムを神上がりさせた時の様子をかいつまんで話す。そしてお熊さんが話した内容は亮吉さんが考えていたことと共通点が多いことにも気が付いたことを付け足した。

「それでは、おクマさんは先祖たちが極楽浄土のような所に送ろうと念じたために失敗したと言っていたのだな?」

「もしかして山葉さんもそうしていたんですか」

僕はそんなことはしていないだろうと思って尋ねたのだが、彼女は黙ってうなずいた。

「ウッチー。その時おクマさんがどんな感じで霊魂を送り出したか再現してくれ。」

僕は立ち上がると子供の頃見たアニメのヒーローがカメカメ波を出すときのようなポーズを取って見せた。

「こんな感じで掌の上に霊魂をのせたんですよ。」

その時僕は彼女が僕の背中にぴったりと張り付いているのに気がついた。

「どっちの方角に送り出したか念じてみてくれ。」

「山葉さんもしかしてテレパスの能力もあるのですか。」

僕は彼女のぬくもりを感じてドキドキしながら尋ねる。

「いいや私はそんな能力は持ち合わせていない、だが、ウッチーの考えていることを気合いで読み取ってみせる。」

僕の耳元でささやく彼女の声が何だかくすぐったい。

彼女は本気で僕の思念を読み取ろうとしているのだが、僕は絶対無理だと思った。

何故なら、少しでも僕の思考が読めたら、僕の頭の中は背中に押しつけられた彼女の胸の感触でいっぱいなのがわかるはずだからだ。

僕は夢の記憶を思い出しながら彼女に言った。

「おクマさんは、明後日の方向に送り出すと言っていましたよ」

「なんだ、そのいい加減な言いぐさは」

僕に怒っても仕方がないのだが、彼女は理解できない文言を聞いて、八つ当たり的に僕に怒りを向ける。

「本当にそう言っていたのですよ」

「いや待て、明後日というのはもしかして時間軸の未来の方向という意味なのだろうか?」

彼女は話をするうちに何か気づくところがあったようだ。

「そうですね。明後日の方向というからには少なくとも未来に進む方向でしょうね」

山葉さんは、僕の答えを聞いて生き生きとした表情に変わる。

「その方法でうまくいくか試してみよう」

山葉さんは、イルカ型の浮袋を片付けると、帰り支度を始めていた。どうやら、手じかにいる霊を浄霊して僕が伝えた情報が正しいか試そうとしているようだ。

川から上がると、山葉さんは自分の自宅への分岐点を通り抜け、その向こうに町がある方向に軽四輪トラックを走らせた。

彼女は、何か明確な目標があり、そこを目指しているように思われた。

「何処に行くつもりなのですか」

僕が尋ねると彼女は緊張した表情で前方を見ながら答えた。

「この先に交通事故で無くなった犠牲者の霊がいる。私は通りかかるたびに気になっていたのだが、手を付けるのを躊躇していたのだ。ちょうどいいから今日は浄霊にチャレンジしてやる」

山葉さんは決然と宣言する。

山葉さんは草薙市が国道脇に作った駐車場まで軽四輪トラックを走らせた。

地方では道の駅と呼ばれる休憩所を作ることが盛んにおこなわれているが、その場所は商用施設を作っても経営が成り立たないと見切られたらしく、駐車場とトイレだけのさびしい場所だった。

山葉さんはガランとした駐車場に軽四輪トラックを止めると、僕を伴って国道に歩いて行く。

彼女が立ち止まった時、僕はその理由を感覚的に理解した。その周辺には今までに霊を見た時に感じた独特の雰囲気があふれていたからだ。

山葉さんは、軽四輪トラックの荷台に置かれたプラスチックケースを開けるとそこからいざなぎ流の祭祀に必要なアイテムを取り出し始めた。

「いつもそんな品物を準備しているのですか」

僕の質問に山葉さんは分かっていないと言うように肩をすくめる。

「式神がいくら紙で作られていると言っても鮮度というものがある。それゆえ私は式神を作り置きしたことはない。せいぜい2,3日のうちに使うようにしている。これは父に教えを乞うために練習用に作ってあったのだ」

僕はどうやら失礼なことを言ったようだ。

しかし、山葉さんは僕を責めることなどせずに、祈祷の準備に忙しかった。

「何を対象に祈祷するつもりなのですか」

山葉さんは僕の質問を聞いて手を止めると、国道脇の何もない路側帯を指さした。

「あそこにいるのが交通事故の犠牲者だ。事故のショックと恐怖が強くて事故現場に縛り付けられているのだ。属に言う地縛霊というやつだな」

山葉さんが指さす先を見つめると、僕の目に可愛らしい柴犬の姿が映った。

「柴犬みたいですけど」

「そうだ、実家に帰省するたびに目につくからいつか弔ってやろうと思っていたのだが、

国道脇は人目に付くから一人で祈祷するのが恥ずかしくてそのままにしていたのだ。しかし、放置していたのにはもう一つ理由がある」

僕が一緒にいれば大丈夫なのだろうかと思い僕は彼女の顔を見た。

「浄霊して神上がりさせるためには相手の名前が必要なのだ。ウッチーならできるから、その犬に名前を聞いてくれ」

僕は彼女の言葉を聞いて、どうやったら犬の幽霊に名前を聞けるのだろうと思って途方に暮れた。

「犬に名前を教えてくれと言っても無理な話ですよ」

「そういわずに頑張ってくれ、名前が無ければ私の祈祷は完結しない」

僕はやむなく柴犬の幽霊に近寄った。柴犬は久しぶりに自分に近寄る人間が現れたためか尻尾を振って喜んでいるように見える。

多分無駄だと思いながら柴犬の幽霊の頭に手を載せてみると、僕の頭に夕暮れ時の農村の風景が浮かび上がった。散歩に連れ出されてうきうきした気持の上に、大好きな飼い主が一緒にいるので気分は舞い上がっている。『ナナそんなに引っ張らないで』と小学生くらいの女の子の声が響いた。

僕は柴犬の頭から手を離すと山葉さんに告げた。

「この子の名前はナナです」

「ほう、やればできるではないか」

山葉さんは感心するが、僕は不覚にも涙が込み上げてきた。

ナナは僕が見た情景の直後にリードを振り切って走りだし、国道に飛び出たところでトラックにはねられたのだ。大好きな飼い主に会えなくなったナナの孤独が僕の心に共鳴する。

僕がナナの姿を見つめていると、山葉さんは「みてぐら」と式神を手に、柴犬のナナの横に移動した。

「何を泣いているのだ。可愛らしい芝犬の幽霊だぞ」

「怖いのではなくて、ナナがかわいそうなのですよ。彼女はもう飼い主にあえなくなってしまったんですよ」

山葉さんは状況を飲み込むと、柔和な笑顔を浮かべる。

「私はウッチーの共感できる優しい心が好きだ。その子は、今から私が浄霊した後、去り際に飼い主の所にも立ち寄ることができるよ」

山葉さんは路側帯に「みてぐら」を設置すると、いざなぎ流の祭文を唱えながら舞い始めた。

Tシャツに短パン姿の彼女が舞う姿はやけに目立つのだが、国道を通行する自動車は少ない。

山葉さんは悪目立ちすることもなく祭文を唱え終え、柴犬のナナの霊は、青白い光の塊に姿を変えて山葉さんの掌に引き寄せられていく。

山葉さんが掌の上の青白い光の塊に強く気を込めると光はフッとその姿を消し、どことも知れない時空へと送り出されていった。

「うまくいったな」

山葉さんの顔に笑顔が戻っていた。

「次は亀子さんの家族を探して、亀子さんの家で祈祷を行うように説得し、死者たちが集う家を浄霊するのだ」

自信を取り戻した彼女は、困難が伴うと思われる亀子さんの家の浄霊に取り掛かろうとしていた。

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