第56話 

 先生の家に行くなら、バスに乗った方が近い──そう思って、普段はあまり乗らない路線バスに乗ってみた。徒歩だと途中で怖くなって進路を変更してしまう気がしたから、というのも大きな理由だった。今は、移り行く窓の景色を眺めて気分を紛らわしながら、自らの心臓の高鳴りを抑えつけるのに尽力している。

 告白した事を後悔しているか、と問われれば、後悔はしていない、とはっきりと答えられる。多分あのタイミングを逃していれば、次告白できる機会は暫く訪れなかったと思うし、何より気分がスッキリした。

 ただ、もし振られた場合は……俺達の関係は、どうなってしまうのだろうか。もう、先生は家庭教師ですらなくなってしまう可能性がある。それは覚悟しておかなければならない。

 彼女のマンションから程近いバス停で降りて、大きな溜め息を吐いた。

 思ったより早く着いてしまってふと冷静になったのだけれど、何の連絡も無しにマンションまで来るのってまずかったのではないだろうか。以前も、来る時は連絡してと言われていたし。

 今からでも連絡した方がいいだろうか、と思ってスマホを開くが、また閉じた。


(いや……もし、いなかったら、今日はそのタイミングじゃないって事だ。きっと、それが天のお告げに違いない……)


 今更ながらにチキンっぷりを発揮してしまうのが情けないが、それも仕方ない。俺はこの前、人生で初めて告白をした。そして、結果次第では人生で初めて木っ端微塵に粉砕される事になる。失恋がどれほどの痛みなのか、想像もつかない。もし、今日がタイミングではないという言い訳をもらえるのなら、その言い訳には縋らせてほしいとも思ってしまうのだった。

 自分に言い訳を探しながらも、先生のマンションの中に入って、階段を上っていく。このマンションはエントランスのオートロックがないタイプで、直で部屋の前まで行けてしまう。一応はマンションという形態を採ってはいるものの、RC造という点以外は基本的にアパートに近い建物らしい。家賃が安いと彼女が言っていたのはそれもあるようだ。一人暮らしの女性にとってそれは危険ではないかとも思うのだけれども、管理人が一階に常駐しているので、何かあれば対応してもらえるらしい。


(いきなり行ったら、管理人に突き出されたりして……)


 そんな不安にも襲われるが、きっと大丈夫だと信じたい。それに、もし突き出されたら、それはそれでもう振られたも同然なので、諦めもつくわけだけれども。

 そんな事を考えながら、マンションの階段を上っていく。そして、三階……遂に彼女の部屋の前まで来てしまった。

 インターフォンを押す前に、大きく深呼吸をする。もう息が詰まりそうで、何なら今すぐに逃げ出したい。

 それから迷う事数分、せっかくここまで来たのだから、と遂に決心がついた。震える指をインターフォンに伸ばして──


「え、湊くん!? どうしたの!?」


 聞き覚えのある声が、横から聞こえてきた。

 何と、階段から先生がひょっこり顔を出したのだ。スーパーの帰りだったらしく、普段着のパーカーにズボンというラフな姿だった。手には買い物袋を持っていて、困惑した表情をしている。


「いきなり来てしまってごめんなさい。その……話がしたくて」

「あっ……」


 何かを察したように、先生が気まずそうに、困ったような表情をしている。


「その、いきなり来るのはまずかったですよね……」

「う、ううん、違うの。家に来てもらうのはいいんだけど……ちょっとだけ待ってもらっていい? 服、着替えたいから……」


 彼女が恥ずかしそうに、自分の服装を見た。完全にオフの部屋着スタイルだったので、恥ずかしいようだ。

 先生はそれだけ言ってドアに鍵を差し込んで開けると、先に部屋に入っていった。

 そのまま廊下で佇んで待っていると、それからほんの数分で扉は開いた。さっきの部屋着とは一転変わって、ベージュのリブニットに白のロングスカートという、大人カジュアルな服装に着替えた先生が出てきた。先生のスタイルでリブニットは反則だった。ただでさえ主張の強い胸が、更に強調されている。

 だから……なんで男を部屋に入れるのに、そんな誘惑するような服を選ぶんだよ、先生は。


「もういいよ。外で待たせてごめんね?」


 困ったような笑みを浮かべて、中に招き入れてくれた。

 本当に服だけ着替えただけのようだ。そのまま部屋の中まで通されて、ソファーに座らされた。


「お、お茶淹れるから、ちょっとだけ待ってて」


 少し上ずった声で、先生が言った。

 彼女も気まずそうというか、緊張している様子だった。それもそうだろうな、と彼女の立場に立ってみれば思う。告白してきた男性が前触れもなく部屋に現れたのだ。混乱するのも無理はない。

 ふと、部屋を見渡す。先生の部屋に来るのはあの夏祭りの時以来だが、特に変わった様子はなかった。

 あの日以降、俺が〝ご褒美〟を断つ事で俺達は普通の家庭教師と生徒の関係に戻った。でも、今日はもう〝ご褒美〟だけで繋がっている関係でも、普通の家庭教師と生徒の関係でもない。告白をした者とされた者の関係だ。それもあって、この部屋に長居するつもりもなかった。答えだけ聞かせてもらえたら、それで良いと思っていた。

 でも……そう思っているのに、その言葉が出てこない。もうここまで来たら訊くしかないのに、それでも怖いと思ってしまう。自分の腑抜け具合が嫌になってくる。


「それで……話って?」


 ティーパックの入れられたマグカップを二つ並べて、先生が俺の横に座った。彼女は精一杯平静を装っていて、いつも通りを演じてくれていた。

 でも、それがダメだった。

 こうして並んでソファーに座って普段に近い先生を見ると、この部屋で一緒に過ごした時間を想い出してしまう。こうして並んでご飯を食べて、自分で選んだホラー映画で怖がって、俺に抱き着いてきて……あの楽しかった想い出と、ドキドキ感が否応なしに蘇ってきてしまった。

 それを想い出した瞬間──返事を聞くのが、怖くなった。返事次第では、もう一生あんな時間は訪れないのだ。実際、このまま訊いてどうなるのか、全く予測ができなかった。

 こうして部屋には入れてもらえたけれど、部屋に入ってから、先生は俺の方を一度も見てくれていない。ちらっとさっき目が合ったけれど、慌てて逸らされてしまった。

 やっぱり……ダメ、なのだろうか。


「……この前の、返事なんですけど」


 何とか声を絞り出すも、心臓が痛いほど高鳴って、上手く言葉が出てこない。バスの中で何度もシミュレーションしたのに、全部飛んでしまった。


「あっ……えっと、あの……」


 先生は先生で、そわそわした様子で言葉を絞り出そうとしていた。


「──待って下さい!」


 咄嗟に彼女の言葉を遮っていた。

 その言葉の先を聞くと、もう、本当にYESかNOかの二択になってしまう。もちろんその答えを聞きに来たのだけれど、やっぱり……いざ目の前にすると、怖い。俺のこの半年の恋が終わるかもしれないと思うと、怖くて怖くて逃げ出したくなってしまう。


「もし……その、付き合えないってなったら……家庭教師も、辞めますか?」

「え?」


 先生が驚いたように顔を上げた。

 今日初めて、しっかりと目が合う。

 ここに来て今更俺は何を言っているんだろうと思う。

 でも、もし告白が受け入れられなくて、家庭教師も辞めてしまうのなら……せめて受験が終わるまでの先延ばしにした方が良いのではないか。先生との時間が永遠に消えてしまうなら、そんな猶予に縋っても良いのではないか。

 先生と付き合いたいし、好きだと言った返事もしてほしい。でも、それと同時に……彼女との時間が未来永劫なくなる事を想像したら、途端に怖くなった。

 ほんのついさっき、このマンションの階段を上がっている時まで、こんな事を訊くつもりはなかった。でも、この部屋に入って、たった二回だけども、この部屋での想い出が蘇ってしまった。ここで一緒にテレビを見ながらご飯を食べて、笑って、ホラー映画を見て、勉強を見てもらって……別れ際に、ご褒美のキスをしてもらって。

 そこまで想い出すと、もうダメだった。出会った時の事、初めてご褒美キスをした時の事、本屋や路地裏、オープンキャンパス、そしてお祭り……先生との数少ない想い出が走馬灯のように蘇り、そんな時間が二度と訪れなくなる事を実感してしまって、一気に怖くなってしまった。

 その時……ぎしっと、少しだけソファーが軋んだ。

 その音に反応するかのように、恐る恐る俺は先生の方をもう一度見た。

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