第89話 史江、怒る

 史江がいつものように職員室の机を拭いて自席でお茶をしながら今日の授業の準備をしていたとき、教頭が入り口から顔を覗かせて「西川先生、ちょっと」と手招きをした。まだ他の教師がまばらにしか出勤していないこんな時間に教頭が出てきているなんて珍しい。

 席を立ち教頭のところへ行くと、彼は史江を振り向きもせずスタスタと歩き出す。その教頭の背中が「黙ってついてきてください」とでも言っているようで、遅れないように早足でついていくことにいっぱいで、呼ばれた理由を尋ねるタイミングを史江は失っていた。

 やがて教頭は校長室の前で立ち止まり、ドアをノックした。この時間に校長まで出勤しているなんて、明らかにいつもと様子が違う。少し緊張しながら校長室に入ると、応接セットの椅子に座るよう教頭から促された。


「西川先生は、この記事はもう読まれましたか?」

 校長が一冊の週刊誌を広げてテーブルの上に置いた。

「この週刊誌が何か」そう言いながら、史江はその週刊誌を手に取り、今開いているページに親指の先を少し挟み込み、一旦その本を閉じて表紙を先に見ると、「週刊日日」というタイトルが目に入る。このような週刊誌をほとんど読んだことがない史江は、こんな本が発売されていることさえも実は知らなかった。

 雑誌をもう一度、親指を挟んだページで開く。

「私、週刊誌ってあんまり読まないんですよね」史江はそう言いながら落とした視線の先に大きく掲載してある見出しタイトルを、何気なく口にして読んでいた。「暴かれたロック少女の闇——」

 ハッとして、思わず顔を上げて校長を見る。

「まだ読んでいないなら、まあ、とりあえず」と校長は言いながら、その先を読むように促した。

 

 「こ、こんなの……。こんなの、嘘です。なんでこんな——。こんなことありえません」

 自分で抑えきれないほど、怒りにも似た感情が湧き上がってきて、史江は読み終えた先から猛烈に否定した。

「でも現実に、これは記事になって発売されている。しかも、どうみてもこれは彼女の——高橋圭さんのことではないかと想像させますよ」

 困ったことになりましたな、伝統ある我が校の生徒が。

 明らかに校長の冷たい視線がそう言っていた。

「こんなの、嘘に決まってるじゃないですか。私は、あの子がアメリカでどう育ち、どういう経緯で日本に来ることになったのか、圭……父親から全て詳しく聞いています。こんなこと嘘っぱちに決まってるじゃないですか。校長先生はこんな三流週刊誌のでっち上げ記事を信用なさると?」

 史江は一気に捲し立てた。

「捏造、ね。まあ、確かにそういうこともあるかもしれませんな。しかし、世間や——もっというと、我が校に通う生徒たちの親御さんは、どう思うんでしょうなあ。我が校の伝統と格式を信頼して自分の大事なお嬢さんたちを通わせてるのに、この記事のような生徒がまさか同じ学校に通ってるのかと思うと、とんでもないと。どうやってその疑念を払拭できるんでしょうな」

 その責任は、あなたにもあるんじゃないですか。ねえ、西川先生。

 彼らは大事なことは決して口にしない。なんとかしろ——、目でそういうだけだ。口に出してしまえば、パワハラだのなんだの、面倒な社会であることは十分承知しているのだ。

 ——学校は教育を行う場所じゃないんですか。こんな噂話で生徒の将来を潰すつもりですか

 史江はそう怒鳴りたい感情を、グッと呑み込んだ。悔しい。でも誰も信じてくれそうもない。最初からわかる気持ちのない人間には、何を言ってもきっと通じない。

 チラッと壁の時計が目に入る。

「一限目が始まります。少し時間をください」そう言って立ち上がった。

「ひとつ、よろしくお願いしますよ」

 なんなら、騒動が大きくなる前に、彼女——高橋圭さんには学校を辞めていただいても構いませんが。そう言われた気がした。


 冷静にならなければ。怒った方が負けだ。こういうときこそ、私があの子の壁になるんだ。落ち着け、落ち着け。


 心の中で呪文のように呟きながら職員室に帰ると、数名の教師が備え付けのテレビの前でしかめっ面をしている。史江が帰ってきたことに気づくと、私たち何も知りませんよという顔をして、そそくさとテレビ桟敷から散った。

 テレビでは、どこかの局の朝のワイドショーか何か知らないが、例の記事について大袈裟に話題にしているのが目に入った。史江が思っていたよりもずっと、世間がざわついていたらしい。

 今まで知らなかったのは、私たちだけか——

 情報をもっとつかむ必要があり、もう少しテレビが何を言っているのか見てからにしたかったが、すぐ授業が始まる。じくじくたる思いで職員室を後にした。


 マネージャーの早瀬先生の事務所か圭太君に、一時間目が終わったら電話で状況を確認するのが一番早いかもしれない。学校に本当のことを理解させるまで絶対に圭に寄り添って最後まで戦ってやる。

 圭は——圭は今、どうしているだろうか。

 そればかりが気になって仕方なかった。

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