第55話 夜明け前

「圭太、動くぞ」

 灯りの消えた余韻の残るホールで隣に座っていた菊池が圭太に言った。

「動く?」

「ああ。明日から急いで準備に入る。学園との約束があるから本格的な活動はできないにしても、今を逃す手はやっぱりないな。できる範囲でいろんなやり方を試してみようか」

「じゃあ、まずは何から」

「まずはな、Mチューブを使おう。オーバー・ザ・シーの日本語バージョンと英語バージョンを二曲同時に配信とかどうだ。日本語のやつ、確かできたんだろ?」

「ええ、音はいつでも行けますが、まだタイトルを決めてなくて」

 実際、恵が手掛けた訳詞はとてもいい感じで、日本語の持つリズムと曲がもともと持っているリズムとのバランスもよくできていると思う。あれならいけそうだ。

「タイトルなあ。まあ、できてるところまででいいから一度日本語バージョンを俺に聴かせてくれ。話はそこからだ。これからのことを話したいから、とりあえずこの後に事務所に集合な。おおまかな戦略を決めよう」

 菊池の言葉に皆が頷いた。


 ⌘


 月曜日の朝、西川史江は出勤するといつものようにパソコンの電源を入れてから、去年は早瀬恵がやっていた机の拭き掃除を始めた。

 ——そんなの自分たちでやらせればいいのよ。

 恵がいた頃は、朝一番に来て拭き掃除をしている恵にそう史江が言っていたものであるが、恵がいなくなってから、いつのまにか自分がやっていた。しなければしないでなぜか落ち着かないのだ。

 そうこうしているうちに、パラパラと出勤が始まる。史江は誰に頼まれてもいないので気にもしていないが、自分の机を史江が毎朝綺麗にしていることをほとんどの職員は知らないはずだ。寝ぼけ眼でコーヒーをすすったりしながら授業の準備を始めている。


「あれ? Windowsが立ち上がらない」と最初に言い出したのは誰であったかわからないが、「あっ、あたしのも」「えっ、なんで」という声が次々に職員室で上がった。

 今朝1番にパソコンの電源を入れた史江は、掃除用の雑巾をしまって、やっと自分の席に着いて初めて画面に英語で何やらエラーメッセージが出ていることに気がついた。

 英語は得意な史江だが、パソコンのネットワーク関係は苦手だ。カチャカチャとマウスなどを連打して無駄な努力を試みるが、もちろんそんなことで復旧するはずもない。


「サーバーがダウンしてます。再起動をかけて復旧させますので、しばらくパソコンは使えません」とLan管理の担当者から皆に連絡があったのは、しばらくしてからだった。

 ——授業の準備ができないじゃん

 あちこちから悲鳴が上がる。

 そうこうしているときに、スマホをいじっていた先生が、「ありゃ、ネットの方からもうちの学園のホームページが見られない」と言い出した。何人かの先生が同じようにスマホを取り出して試してみたが、「存在しないページ」というエラーが虚しく表示されるだけだった。

 その理由にはその時は誰も気が付いていなかったのだが、それもやがて判明することとなった。


 電話回線が自動応答から通常に切り替わってすぐ、総務課の電話が一斉に鳴り出した。慌てて電話担当者が出ると、「ホームページに出ている学園祭ライブの動画は全編公開しないのか」とか、「ライブのDVDは販売しないのか」という問い合わせが相次いでくる。電話を切るとすぐにまた電話が入るのだ。3台ある電話がひっきりなしに鳴るのでひとりではとても対応できず、泣きそうな顔で必死に周りに応援を求めたのだ。


 そこまでなって、サーバーダウンの原因にやっと気がついた。

 実は土曜日の学園祭ライブは来年度の生徒募集のため、生徒の活動を紹介するだめダイジェスト版動画をすぐにホームページに掲載したのであるが、その動画にアクセスが集中していたのが原因だったのだ。



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